濡婦の肢【三】
翌日、ミツヲは空の大きな鞄を抱えて、大学へ向かった。
学友達に暫く修行に出る旨を伝えたところ、案の定と云うべきか、
一人深く思い悩む割には行動を起こさぬ男──其れが、周囲が抱いていたミツヲの印象だったのであろう。
事情を話し、使えそうな道具や資材があれば譲って貰えまいかと頼むと、彼の変化を嬉しく思った友人達は、喜んで其れらを調達して
彼らに感謝し
その足で
早速作業に取り掛かろうと倉庫に向かう途中、正面から一人の女が歩いて来た。
小柄で、痩せている。年齢は判らぬ。童顔だが、骨格は大人の女性のそれであった。
「アラ」
ミツヲに気付いた彼女は、軽く会釈した。
「……ああ! 幸田さんの云ってたコかァ」
その声と口振りから、ミツヲは思わず緊張で
「え、ええ。備品の修繕を任されています、丑上と云います」
「──フゥン。思ったより若いのね」
「き、恐縮です」
ジロジロと、品定めする様な眼を向けた彼女は、ミツヲが困惑し、萎縮する様を観て満足そうに微笑んだ。
「
「あぁ、はい。こちらこ──そ……」
云い掛けて、はたと止まる。
サチコ。……其の名前には、何か思い当たるものがあった。
何処で、聴いた名前だったか──、
「……あっ」
ミツヲは声を上げた。
「──頸少女の!」
思わず指差してしまい、慌てて手を引っ込める。女──サチコは、気にしていないようだった。
「アッハ、矢ッ張り。この前観に来てくれたでしょう。憶えてるわ」
そうして、再び満足そうに頷く。
ミツヲは先日と同じ、黒い
あの時感じた通り、所謂、美人と云う顔立ちでは無いが、愛嬌のある表情の一つ一つが彼女と云う人間を美しく魅せている。得意な相手では無いが、好ましい種類の人物だ。
「身体、あるんですね」
「それはそうよー」
ミツヲの冗談に、フフ、と笑って、サチコはその場でクルリと回って見せる。
優雅だ。幾ら、藝の為とは云え、無い事にするには惜しい、しなやかで気品のある所作であった。
「熱心に観てくれていたから、バレると思ったけど」
「先入観、ですかね。直ぐには思い至りませんでした」
「それはそれで嬉しいかも。それに、簡単にバレちゃ、私もおちおち外を歩けないもの。そんなの困るしね」
「
ミツヲは云い乍ら
液体で満たされた様に見える瓶の中に居た頸少女は、
成程、ここ
「
「ええ、勿論です。
ミツヲがそう云うと、サチコは眼を見開き、ほぅ、と息を呑んだ。
こんな場所に突如迷い込んできた若者らしくない言葉である。彼は自信家に見えぬ。それだけに、一瞬大口を叩いた様に聞こえたのだろう。
その、虚を突くように、
「あの──」
「なに?」
ミツヲは辺りを見渡す。倉庫に向かうのは後回しにしようと決めた。
「ミユキさん、って……
「ユキちゃん? あの娘は
云って、サチコは歩いて来た方向を指差した。
彼女の背後に、鉄道の貨物庫に窓が付いたような鉄箱が見える。
「ありがとうございます」
胸の高鳴りを圧え
きっと笑われているだろうな、と思ったので、振り返る事はしなかった。
宿舎、などと呼ばれてはいるが、その箱は外側から視る限り、寝泊まりに最低限必要なだけの広さしか無いと判る。窓の様な物は据えられているが、見た目は貨物車の荷台其の物だ。
そっと近づき、引き戸を控えめに
「あ、の。すみません!」
ミツヲは慌てて引き戸の向こうに声を掛ける。
暫しの静寂の後、
「…………どなた?」
「ミユキさんですか? あの、僕は──」
心臓が煩くて、上手く喋る事が出来ない。
「開いてます」
抑揚の無い、冷たい口調である。
ミツヲは唾を呑み込み、引き戸の
「失礼、します」
力を込めて扉を開くと、隙間から漏れた沈香の薫りが鼻腔を
恐る恐る、中を覗く。
薄暗い内部には、家具らしき物は殆ど何も置かれていない。その代わり、内壁は
それらに目を奪われ
部屋の隅には豪勢な
その中。薄い
長い髪が汚く絡まり、頭の大半は隠れている。その為、表情は
あの
「誰?」
その女……ミユキは、短く問うた。
外で聴いたものと同じ、不愉快さが滲み出た声色ではあったが、能く聴くと、
この異様な環境の所為だろう。妙な威圧感が、ミツヲを焦らせる。
「は、はい。あの──僕は、ここの備品修繕を担当する事になった、丑上ミツヲと云います」
「しゅうぜん?」
「ええ。その──壊れた物を直したり、作り変えたり。物に
「そう」
無気力に答えて、女は寝返りを打った。
そして、
「──お腹痛い」
ポツリと、呟く。
「えっ? あ、あの……」
「お薬、まだかなぁ……」
ミツヲの事など、少しも意に介していない様子である。
どうやら、彼女の不愉快そうな態度の原因が自分ではないらしい。ミツヲは独り安堵した。
「体調が悪かったんですね。急に押し掛けて、すみませんでした」
鞄を抱え直し、立ち去ろうとすると、
「待って」
ミユキは背を向けたまま、引き留めた。
「……そのまま、そこにいてくれます?」
「え、ええ。それは、能いですけど……でも、邪魔じゃありませんか?」
「淋しくて」
「……は、ぁ。……そう云う、ことなら」
ミツヲは
気を抜くと、両目は、如何してもベッドの上のミユキを追ってしまう。
背中を向けられているから、こちらが凝視する姿は見られていないのだが、
「えぇと……ミユキさんの衣裳は」
「衣裳? ……それなら、その辺に、掛かっていませんか?」
答え
彼女の云う通り、濡レ女の衣裳は鉄管と針金で組み上げた簡素な衣紋掛けに下がっていた。
「──ああ、ありました。少し、拝見しても
彼女が此方を向かない以上、言葉で伝えるしか無い。ミツヲはミユキの「どうぞ」という返事を待ってから、それを丁寧に取り上げた。
腕の中で、割れた
現実であり
「
思わず、溜め息を漏らした。本音である。
「ええ。元は高価なドレスなの」
ミユキはそう云って、再び寝返りを打った。
長い髪が、更に絡まる。その隙間から、大きな眼が、ミツヲの事を覗いていた。
「成程。
ミツヲは衣装を広げたり、手繰ったりを繰り返していたので、彼女の視線には気付かなかった。
衣裳はミユキの云う通り
「
「直せるの?」
「今は手持ちの道具も材料も満足に無いので、其れ程
「お願いします」
やや強い口調に、ミツヲは
半身を起こし、期待に満ちた貌で、ミユキが此方を見ている。
真っ直ぐな眼である。
其れこそ、何か人智を超えた力を持っているような気配がある。
その視線から隠れる様にして、ミツヲは鞄から裁縫道具を出して、針に糸を通した。
衣裳の傷んだ箇所に針を刺す。ツツウと伸びる糸を、ミユキは
彼が志す藝術とは、幾らか人の心を豊かにするかも知れないが、役に立つかと問われれば疑問が残る。彼は率直に、自身の有能感を満たす経験が足りていない。故に、その甘い誘惑は、
伸縮性のある素材であったから、思い切って細くすることも出来たが、ミユキの場合はこの衣裳で床を這うのだから、余りやり過ぎると負担になってしまう。
「……出来ました。一度、これで様子を見て頂けますか?」
ミツヲは、立ち上がり、衣裳を広げて見せた。
「ありがとう。あの、着替えを手伝ってくださる?」
待ち兼ねた、と言わんばかりに、ミユキはベッドから這い出て来た。
それは、形容するなら、ぬるり、とした動きであった。
姿勢制御を、上半身を使う重心移動と、腰から下──つまり、脚によってのみ行うのだから、
此れだけは断言出来るが、偏見や差別的な意識とは違う。
ミツヲの頭の中では、未だ『ヒト』は四肢が揃った輪郭として認識しているのだ。
だからこそ、知識や理解とは別に、ミユキに見られる独自の所作は、彼に非常に鮮烈な印象を
その証拠に、
無駄の無い動きだ──。
ミツヲは、この時、密かに感動していた。
只、ベッドから降りるだけと云う所作であっても、手を着く、と云う動作には、人
常ならば、美しく洗練された動きもあろうが、あわよくば荷重に依って
だが、
その衝撃は、到底言葉で云い表せぬ。
否、言語化など無意味であるし、この実感の前では何もかもが無価値である。
彼女は、欠損に依って、一ツの
「……どうか、しました?」
いつの間にか目の前にやって来たミユキが、首を
彼女は、透明な表情をしている。己の事を
「いえ、何も──」
そそくさと、手にした衣装の背中の
距離を置いて視る分には気にならなかったが、ミユキの格好は殆ど裸に近い。
胸や下半身は適当に
それが、傍に寄って来たミユキを目にして、判ってしまったから、ミツヲは微かに頬を染めた。
椅子に腰掛けたミユキが、傷んだ絨毯から足を離す。その足下に跪いて、衣裳を穿かせる。尊敬の念が、ミユキの躯を見上げさせるのを許さなかった。
ミツヲは己の姿を想像して、
「ミツオさんは──」
「はい」
「如何して、ここへ?」
その問いは──、
「それ、は──」
何と答えるべきか、迷う。
ミツヲの頭の中では、志賀と幸田との会話が甦り、当たり障りの無い、それだけに説得力も無い言い訳ばかりが浮かんでは消える。
「そうですね……勉強と修行の為、です」
手元に集中する振りを続けながら、ミツヲは答えた。
「僕は、将来造形師に成りたいのです」
「ぞうけいし?」
「藝術は、人の心を豊かにしてくれますから。僕は僕が美しいと信じたものを、世の中に一つでも多く残してゆきたいのです」
「…………」
ミユキは無言で首を傾げた。ミツヲが見上げると、彼女はやや複雑な顔をしている。
「……よく、わからないわ」
「すみません」
「どうして謝るの?」
「あ、いえ──」
……
不機嫌そうな貌の眞意が何であるか、量りかねるのだ。
指先が身体に触れぬよう衣裳を摘んで、ミユキの首筋から左右に短く伸びた尾根をつるりと隠し、背後に回って
初見の折、ミユキの上半身は衣裳の中で泳いでしまっているように見えた。彼女の体型に合わせて勘で詰めてみたのだが、思いの
密着し、躯に吸い着く感覚が心地良かったのか、ミユキの表情は
「すごい。すごいわ、ミツヲさん」
躯をくねらせて、衣裳の具合を確認する事に夢中だ。
子どもの様に喜ぶミユキを見て、ミツヲは思わず顔を
「それは良かったです。迚も綺麗ですよ」
「きれ——い?」
そこでミユキは、はたと止まった。
「ええ、綺麗です」
ミツヲは、再度そう云った。
世辞では無い。
ミツヲは己の審美眼を毛筋程も疑っていない。だから、素直に『綺麗』と云う言葉が出たのなら、其れは間違い無く本心なのだ。
それでも、
「わたし、きれいなの?」
ミユキは、
能く、判らないが——何か、それ以上は踏み込んではならない領分であるような気がした。
「──はい。今まで余っていた部分が無くなりましたから、ミユキさんの細身が活かせます」
ミツヲは上辺の笑顔を向けて、そう云った。
取り敢えずにはなるが、納得してくれそうな言葉を選んだつもりだ。
何処か、壊れてしまいそうな儚さが漂うだけである。
ミツヲは、彼女の事を、もっと知りたいと思った。
【続く】
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