濡婦の肢【二】

「──────」


 女が、ひとり。

 縞模様のはこが転がる雑多な舞台の中央、銀の砂をまぶした濡れ髪、膝立ちの姿勢で、割れた鈑金スパングルは照明を乱反射させていたが……、


 ── ああ、どれもが、後回しになる。


 其の、余りにも流麗な女の輪郭に、時間まで止まった気がした。

 ミツヲは、一目で理解したのだ。


 彼女には、


「遠野の山の奥深くにて発見されたミユキ嬢。母親は由緒ある神社の巫女で、父親は其の地方では蛇神と奉られております身の丈を越す大きな大蛇だいじゃ。禁忌の契りで産まれ落ちたる彼女は────」

 禿頭が、自慢げに何かを喋り散らしているが、ミツヲの耳には入らない。

 彼は只管ひたすら、穴が開く程に腕の無い女を凝視みつめているだけだった。

 鱗紋様を模した衣裳には袖が無く、上には首を出す穴、足の方は細長く絞られて、足首から爪先まですっぽりと覆っていた。……其れは、成程、蛇の様に視えなくもない。

 ただ、本物の蛇と違い、腹も背も一律に同じ鈑金、同じ紋様であった事は少しだけミツヲを落胆させた。

 ……しかし、瑣末だ。

 鎖骨の幅しか無い胴体の輪郭を、濡れた髪が煌めきながら隠しているが、胸にも背にも不自然な膨らみは無い。

 頸少女の胴体の様に、腕を何処かに隠している訳では無く、真実、彼女には肩から先が無いのである。

 其れだけで充分だった。

「………………」

 頸少女と違い、濡レ女──ミユキは常に物憂げで、微笑の一ツも浮かべない。

 が、化粧の誤魔化しなどまるで不要であろう程に、其の目鼻立ちはくっきりとしており、目尻と口唇に差した紫が、この世ならざる美しさと妖艶さを湛えていた。

 其のまま、彼女は酷くつまらなそうに、膝立ちの姿勢で腰を揺らした。

 何を思っているのか、毛筋も読み取れぬ。

 當然とうぜん、蛇の骨と肉が生み出す線では無い。

 あの衣裳の下には、人の骨格と筋肉が潜んでいる。


 ──『あんなモノは、すべてインチキだから』──


 ——うるさい。

 そんなこと、とうに識っている。

 だが、其れが一体何だと云うのだ。


 彼女の姿は非常に扇情的で、左右交互に生まれる丸みを帯びた線は、本能的に吸い寄せられそうになる。

 判っている。

 あの体表は衣裳なのだし、其の下には女の胸と腹と腰と尻がる。

 だから、生物として誘われるのは必定なのだ。

 ミツヲは自らに言い訳を繰り返しながら、濡レ女を凝視し続けた。

 上半身を捻って、薄い胸の膨らみが衣裳に密着する様や、腰周りに出来た皺の、その向こうに隠された柔肌を想像する。

 造形の為に培った学びのすべてを、煩悩のままに発揮する。其の背徳感は、ミツヲの意識をじりじりといて焦がした。

 後戻りの出来ぬ下り坂を、何処までも、止め処無く、転がり墜ちて行くような不安と昂揚。


 本物とは何だ?

 贋物とは何だ?


 其の答えは、手を伸ばせば常に摑める処に在った筈なのに、今は如何どうでもいと思っている。


 美とは、脳にはしる信号だ。


 納得してしまえば、人間の意識はソレの奴隷にるのだ。

 元より、其処に自然だとか不自然だとか、其の様な障礙しょうがいは無かったのである。

 ミツヲは、緩やかに舞い続けるだけの濡レ女を眺めながら、漸く眞理に到達したと確信した。

 仮令たとえ、この実感が誤解であっても構わぬ。

 今まで心許無く揺らいでいた信条に、目標と信念が通っただけで、自分は自信を持って研鑽に打ち込める。其の安心感に比ぶれば、眞贋など意味を為さないのだ。


 ……気が付けば、客はミツヲを除いて三人しか残っていなかった。

 ミツヲはすっかり熱を上げていたが、濡レ女は頸少女と比較すると、演目ショウとしてはたしかに地味だ。

 先頃の、見た目の残酷さに耐え兼ねて退出した客とは違う。見世物としての魅力が劣っていると判断されたのであろう。

 其れでも、ショウは続く。

 客が居ないからと手を抜けば、負の評判が立ってしまう。

「半人半蛇のミユキ嬢、大好物は……他言無用。皆様内緒にしていただけるのなら、ここで一ツ、食べていただきましょうね」

 云いながら、禿頭が小脇に縞模様の小箱を抱える。

 濡レ女は其れを流し目で捉えて──、

 妖しくわらった。

 禿頭が箱に手を入れる。中で掴み、取り出したのは、小振りな、──土色の蛙である。

「ひ────」

 誰かの息を呑む様な悲鳴が、ミツヲを興奮させる。

 濡レ女は顎を出したり引いたりして、禿頭が摘んでぶら下げたを欲しがる素振りを見せた。

 彼女は、蛇を喰らう藝を見せる、所謂いわゆる『蛇女』では無い。彼女自身がなのだ。しかるに、喰らう下手物ゲテモノは蛙と設定されているのだろう。

 禿頭は自慢げに、細い足を撥条バネの様に伸縮させる蛙を、客席である此方に、つい、と突き出しつつ、上手から下手へと見せ歩く。

 紛れもない、本物の蛙だ。

 禿頭は何度か両手で弄び、勿体付けながら、濡レ女の顔の前に差し出した。


 刹那──、

 彼女は大口を開き、蛙に噛み付いた。


「きゃああああ!」

 又、悲鳴が上がる。


 濡レ女の口の隙間から飛び出した蛙の脚が、


 伸びて、縮んで、伸びて、縮んで、伸びて……、


 ──動かなくなった。


 ミツヲは、ピンと張って静止した蛙の脚を食い入る様に凝視みつめたまま、己の胸ぐらを強く掴んで、荒く息を吐いた。

 とても受け入れ難い、冒涜的な光景であるが、その原理と理解に意識が追い付かぬ。

 蛇が蛙を喰らうのは、理屈として理解できる。

 ミユキは濡レ女── 物怪もののけなのだ。

 物怪ならば、獲物を生きたまま喰らうのも道理かも知れぬ。

 故に、少少残酷に映ったとしても、これは強者が弱者を滋養とする、自然の摂理だろう。

 

 ……いや、待て——。

 

 何を莫迦ばかな事を考えている?

 物怪など居る筈が無い。ミユキは肩から先が無いだけの、只の人間……只の女だ。

 生きた蛙をそのまま喰らうのは、人間の所作としては異常ではないか。

 異常。

 ──果たして、そうか?

 現代社会の尺度ではそうかも知れぬ。しかし、それだけで異常と断定は出来ぬ。

 漁村近くの食堂で、小鉢に盛った生きた白魚に醤油を掛けて生姜を添えた物を喰った事がある。あれは異常な体験だったか?

 脊椎反射で否と思うのは、食文化として受け入れているからだ。この生理的な抵抗感は、生きた蛙を喰らう食文化を知らぬだけだとしても、それを否定する材料は無い──。


 思考が、散り散りに拡がって──迷走する。


 ミツヲは、舞台の上で口から蛙の体液を垂らす女が、うっとりとした目を虚空に流している様を、只只ただただ見守った。

「サアサア、これにて本日の催しはお仕舞いに御座います。最後まで御覧頂き、有難う存じます」

 禿頭の声が聞こえても、ミツヲの意識は戻らぬままだった。

 ただ、周囲に居た数人の客が雑音を立てながら箱の外へと抜け出して行く流れに乗って、退出した。

 うわの空の彼は、他の客の様に連れ立つ者も無い。

 夜が深くなり、冷えて来た空気の中を、波に漂う海月くらげの様に、ふらふらと歩き出した。


 * * * * *


 ミツヲは酷く苦悩していた。

 無論、その理由は先日の見世物小屋である。

 あの体験は彼から幾許いくばくかの古い棘を抜き、そして、新しいくさびを打ち込んだ。

 以前の様に不明瞭で曖昧な悩みでは無いものの、解決の為に選び得る行動は、其れまでの生活の基準を逸脱した物であり、やや大袈裟な物云いをするならば、それは元の生活には戻れぬであろうと云う予測が立つ程であった。

 そう──ミツヲは、釟馥舞踏團はちふくぶとうだんに深く関わろうと考えていた。

 手段が無い訳では無い。

 否、寧ろ手段が無ければ、その場で諦め、こうして苦悩する事も無かったに違い無い。なまじ、手段を思い付いてしまったばかりに、実行すべきか否かという狭間に立つ羽目になってしまったのだ。


 あの鮮烈な夜から数日後。

 ミツヲは大きな風呂敷を背負って、再び釟馥舞踏團の小屋を訪れていた。

 見世物小屋の公演は夕刻から夜と相場が決まっている。迷惑を掛けぬよう、日が高い時間を選んだ。

 のぼりの横を通り、小屋の入口から壁伝いに歩いて行くと、小屋の奥には、青のペンキで雑に再塗装された在日米軍の大型牽引自動車トレーラーが数台、停まっていた。

 その中の一台は、『釟馥舞踏團』と大きく書かれた貨物車が付いたままだった。恐らく、あれが彼等の事務所なのだろう。

「御免ください」

 ミツヲは貨物車に近寄り、扉の近くを控えめに叩く。

 何分なにぶん、突発的な行動であったので、先方に面会の約束などは取り付けていない。

 しんば事前に赴き、丁寧に「自分の話を聞いてもらえないか?」と掛け合ったところで、門前払いを喰らうのが関の山だろう。

 それなら交渉材料を携えて直接頼み込んだ方が、まだ分が有るだろうと踏んだのだ。

 暫くの沈黙の後、扉が僅かに開いて、年配の男が顔を覗かせた。彼はミツヲを頭の先から足元まで、じっとりとした視線で舐めた後、

「……どちら様で?」

 無愛想な声で、そう尋ねた。

 前歯が一本無いのを見て、ミツヲは思い出した。見世物小屋の入口、奇抜な格好で呼び込みをしていた、あの男だ。

「あ、あの──」

 余計な事実に気付いてしまった所為せいで、彼はどもった。今はかく冷静に、これから発するべき言葉を選ばなければならない。

 悟られぬよう、深呼吸を一つして、

「自分は美術大学の学生をしている、丑上うしがみと云います。此方こちらの代表の方に、折り入ってご相談したい事があり、やって来ました」

 声が震えぬよう、慎重にそう云った。

「……相談?」

 男は掴んだ扉を開きも、閉じもしない。只、其の眉間に深く皺を刻んだ。

 すると、

「誰だい、幸田こうだ

 奥から、更に低く掠れた声がした。

「さァ……美術学校が如何とか……。学生サンですよ」

 顔を半分だけ中に向けて、コウダ、と呼ばれた男は云う。

「──旦那をご指名です」

「ン、会おう。通してやりな」

「……はい?」

 聞き返すが、返答は無いようだった。

 男は仕方無く嘆息し、やや不満気な顔をし乍《なが》ら、扉を開いて、ミツヲを中に招き入れる。

 ミツヲは背負った風呂敷を背負い直し、貨物車の事務所に足を踏み入れた。


 内部は衣装や小道具、何に使うか判らない装置めいた物体でひしめいていた。事務所と云うよりも、倉庫の様相である。

 右手奥に、やや開けた空間があり、そこで前歯の無い男が小さく手招きしている。狭い中を縫う様に近寄って行くと、男の傍に小さな机と戸棚が見えた。

 机には、立襟シャツを着た痩せぎすの男が着いていた。年齢は判らない。首に掛けてている解けた蝶ネクタイを手で弄びながら、責任者らしい男はミツヲの身体を品定めするような眼で視た。

「何か用かね?」

「僕──私は、丑上ミツヲと云います。都内の美術大学で造形の勉強をしています」

 ミツヲは、敢えてそこで言葉を切った。

「──私は、志賀しがトオルと云う。このサァカスの代表だ。……それで、本日はどの様なご用向きかな?」

 代表の男──志賀も、今度はやや丁寧に応答した。

 過度に下手に出る必要は無い。優先すべきは、信用を得る事なのだ。

「先日、こちらのショウを拝見しました。そこで、微力ながらお手伝いさせて頂けないかと思い、やって来ました」

「手伝い? 何の?」

 ミツヲが風呂敷を背中から下ろすと、そこに暗黙の了解が生まれた。机の上に置き、結び目を解く。

 すると、大雑把に新聞紙で包まれた塊が現れ、ミツヲは乱雑にそれを剥いた。


 中身は── 河童かっぱの剥製であった。


 志賀と幸田は、ほぅ、と同時に息を漏らす。

 くちばしの如く三角に突き出た口唇、爪の質感にも似た半透明の皿を頂いた頭部、手足には水掻き、背中にはすっぽんの様なツルリとした甲羅……今まさに水辺から揚げられたかの様な潤いを湛えた緑色の肌は、雨蛙の其れに似ていた。

 ……無論、贋物である。

 動物の骨格標本を混合して組み上げ、その上に蜜蝋で肉付けして塗装した、ミツヲの作品の一つだ。

「ほぉ、コイツは見事だな! 大したモンだ」

 幸田の貌が明るくなった。彼の中で、ミツヲに対する印象が一遍に反転したらしい。しかし逆に、志賀は冷静になったようだった。

「マァ、たしかに見事だな」

 鋭い視線だ。眞贋を見極める眼では無い。贋物と知った上で、それを『本物』と騙るに足るかを調べる眼……なのだろう。

「──それで、売りに来たのかい、そのカッパを」

「いえ、コレはただの手土産です」

「フ、ム?」

「私を雇って欲しいのです」

「雇う?」

 ミツヲの言葉に、志賀は素ッ頓狂な声を上げた。想定外だったのだろう。

「こちらで拝見した物は、私にとって大変有意義でした。特に、造形の勉強をしている身としては、虚実の境界を感じる造形物の数数に心を打たれたのです。この剥製の様に新しい物を造る以外にも、此方で使っている物の修繕もします。何分なにぶん修行中の身ですので、経費以上の給料は頂きません。どうか、一考して頂けませんか?」

 一息に云うミツヲを、志賀はじっと見据えていた。期待を持たせぬかおである。

 だが、悪い話では無い筈だ。

「……そうさなぁ」

 志賀は勿体振る。

 ミツヲは横目で幸田を見た。彼も此方ではなく、志賀を見守っている。そこに藝人としての本性が見えた気がした。

「……先ずは仕事を見せて貰おうかな」

 志賀の返答に、ミツヲは小さく安堵の息を漏らした。

「ありがとうございます」

「おぉ、良かったじゃないか、兄ちゃん!」

 頭を下げたミツヲの背中を、幸田がバシリと叩いた。

「ここに有るのは壊れて使えなくなったモンばかりだが、如何どうにも棄てられなくてな。アンタが直して呉れるんなら、こっちも救かる」

 万が一駄目ンっても、棄てる踏ん切りが付くしな──と、志賀は付け足した。

「元が素晴らしい造形ですから、そんな勿体無い事にはしませんよ、絶対」

 ミツヲはにこやかに答え、剥製を包んでいた新聞紙と風呂敷を手早く片した。気分が弛緩してしまわないようにである。

 志賀は、

「コイツは、早速今日から使わせてもらうよ。……幸田、頼めるか?」

「はい、能いすよ」

 砕けた遣り取りをしながら、河童を幸田に託した。

 提案は通ったが、志賀と幸田はミツヲの目的までは把握していない。ここ迄は彼の手段の内なのである。

 未だミツヲは、彼の計画の入口に立ったばかりなのだ。


 形だけの契約書に署名し、『公演中でなければ自由に出入り可能』と云う立場を取り付けたミツヲは、幸田に案内されながら、ずは真面目に修繕が必要そうな造形物を見て回る事にした。

 そして判ったのは、移動式サァカスである釟馥舞踏團の特殊な形態である。荷台車トラックでは無く、貨物牽引車トレーラーを複数台所有し、切り離した貨物庫を連結する事で、あの見世物小屋を設営しているのだ。少人数で巡業を行う為に極限まで手間を減らした結果らしい。

 幸田に訊いたところ、過去には猛獣や曲芸師も所属する、正当なサァカスであったのだそうだ。

 今の姿──見世物小屋が主となった原因の殆どは戦争の所為だ。

 仲間……否、家族だった虎や象は殺処分され、サァカスの花型であり顔であった曲芸師達は召集され、ほぼ生きて戻って来なかった。加えて、戦後直ぐに先代の團長もうしなったのである。度重なる不幸に見舞われ、ジリ貧に陥った。彼らには身を寄せ合って生きるしか道が残されていなかったのだと云う。

「……それでも、生きなきゃならないからねえ」

 幸田は平坦な調子で、そう呟いた。前向きでも、後ろ向きでもない。そう云うものだろ、という口調だ。

 設備や形態に対し、軽い気持ちで興味を持ち、幸田に事情を聞いたミツヲは、その思いの外重たい回答に、正直言葉を失った。

 見世物だけが遺され、舞踏團サァカスという看板は、現状にはそぐわないと感じていた。

 しかし、今でも釟馥舞踏團を名乗る事が、彼らの最後の精神的支柱であるのかも知れないと、ミツヲは思った。


 物置と化した貨物車の中は酷く埃っぽく、カビ臭かった。

 ミツヲは服の袖口を鼻と口に当てがいながら、中にある備品を確認して回る。

 此処には、元々彼らの所有だった物も、巡業先で見つけて引き取って来た物もあるようだった。

 大掛かりな修繕が必要な物はミツヲ一人では如何どうにもならないが、簡単な修復作業で使えそうな物も幾つか見つけた。

 一見襤褸襤褸ボロボロに見えた長い手足の生人形は、かなりの年代物だが、主な素材が桐であったので、腐った部分を落としてげ替え、磨いて塗装し直せば使えそうだ。

 何処かのお化け屋敷から譲り受けたらしい轆轤首ろくろくびの人形は、伸縮する部品パーツが欠けていただけだった。絡繰からくりには明るく無いが、この程度であれば何とかなるだろう。

 彼方此方あちこち見て廻りながら、ミツヲは帳面に、修繕に必要な道具や素材を書き出していった。

「そいつ貸しな。幸太郎こうたろうに買い出し行かせるよ」

 幸田が云うコウタロウとは、小屋の中で進行役をしていた、あの半被を着た禿頭の若者の事らしい。

「平気です。其処らで売ってる物でもないですから、自分で揃えますよ」

 ミツヲは帳面を仕舞う。

 幾らかは学校の備品を失敬するつもりだった。授業料分は使わせて貰わなければ、勿体無い。

「そうかい。それなら……ホラこれ、團長から預かってるぜ」

「ありがとうございます」

 幸田が寄越したのは、現金が入った茶封筒だ。たしかに、先に受け取っておいた方が、面倒が無い。

「一度帰るかい?」

「ええ、明日また来ます」

「ン、伝えとく。……それにしても」

「何ですか?」

「──いいや。アンタ、歳の割に肝が据わってるな」

「そう、ですか?」

 ミツヲは、そんな言葉を掛けられた事が無かったので、少し驚いた。

 しかし、振り返ってみると、たしかに普段の自分よりもずっと大胆に事を決めて進めているのかも知れない。

「職人志望だからかい。確乎しっかりしてるねぇ」

「どうなんでしょうね」

 曖昧に返答しながら、思わず苦笑する。

 数日前まで、本物だ贋物だと思い悩み、藝術を志す者として、それこそ生き死にの問題のように捉えていた自分が、とても遠くに感じられてならない。

 そう思うのは、矢張り自分の内側に籠り、内向的手段でしか解決を見ようとしていなかったからなのだろう。

 文字通り、井の中の蛙であった訳だ。

 ミツヲは一人得心とくしんがいったようなかおをして倉庫を出た。

 太陽は西に傾き、夜が忍び寄る気配がした。

 此処から先は、彼等の時間である。

 ミツヲはもう一度志賀の元に立ち寄ると、丁寧に礼を云い、家路についた。


 【続く】

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