仮初の日常

高度な科学技術は魔法と区別できない。いかにもSF作家がいいそうな文句だ。

あいつにも目の前の景色を見せてやりたいね。

これを科学で説明できんのかよ、って。


「というように、この大地の大半は依然として脅威があり、満足に歩けません」


ユキは宙に浮かんだ土塊の数々を背に、俺に説明を始めた。

もう俺の理解など待っていなかった。


「ここは大丈夫なのか? いきなり地面が裏返ったりしないか?」


「山脈付近は幽物質スペクトルの濃度が安定していますから、問題ないです」


「要するに、さっきみたいなのは起こらないし、化け物に襲われる心配もないってこと」


疑問符が浮かび続ける俺の頭上に、ハルが補足を横からさしてきた。

とにかく今は仕組みよりも、覚えなきゃいけないことを覚えるべきだ。

どのタイミングで浮かんだ土地が戻るのか、とか、質問はいくらしても足りなかった。


「という訳で、衛戍地えいじゅちから無断に出ることは大変危険なので禁止されています。それ以外は基本自由にしてもらって構わないです」


こんな状況で好き勝手行動しようとも思わないだろう。

俺は冷たい空気をいっぱいに吸い込み、そして大きく吐いた。


「そろそろご飯でも食べましょうか?」


ユキはお腹をさすりながらそう言った。

俺たちを気遣ってのことではなく、自分の限界を感じたから提案しているのだろう。

ちょうどいいタイミングだ。


§


食事の後、宿舎に案内された。

壁の一面がまるまるスクリーンになっている部屋で、俺はハルに手渡された本を読んでいた。

俺に割り当てられたプライベートルームは、スクリーンを除けばシンプルで清潔な造りになっていた。

窓がない代わりに、外の景色を映し出すスクリーンが開放感を担っていた。


ミメシスは復活する際、普通は記憶を持ち越せない。

その為にいつも、ガイドブックのようなものを手元に残しておく。今俺の手元にあるのもそれだ。

もっとも俺は記憶を持ち越していけるから、覚え書きは必要ない。

四六判の本をパラパラめくると、何だか生徒手帳を思い出す。

最初は細かい規則事項などが書かれており、さまざまな状況での作法を記してある。

半分を過ぎたあたりから、カレンダーとメモ用の白紙ページが始まっていた。


「……結局なんのことか実物を見ながらじゃないと分からないな」


国家組織的なものは『協会』と呼ばれていたりとか、その中で複数の階級があり、ユキやコウは上から3番目のポストであることとかは理解できた。

だが『叙述』や『天候』に関しては、字面はわかるのに意味がまるで分からない。

「黒死館殺人事件」を一度手に取った時と同じ感覚があった。


それでも分かったのは、今は眠る時間だということ。

外は依然として明るい。オイクメネに通常、夜はやってこない。

白夜というやつともまた違う。

なぜなら夜は『天候』の一つらしいからだ。


時計は現代と同じ24時間表記で、午後11時を指している。

しかし、それは地球の自転周期から求められるものではない。

神に愛されていた名残を残すこの大地では、周期的に鐘が鳴る。

3回分の鐘が鳴る期間を、ここでは一日としている。


俺は一旦ガイドブックを閉じ、紅茶を沸かす為に立ち上がった。

ついさっきの食事の終わりにも出た、芳醇な香りを携えた朱色の雫。

一目惚れして銘柄を聞き出したら、一般的な品物らしく、どの個室にも大抵置いてあると聞き、歓喜した。

オイクメネは金銭の概念がない。全てのものがタダだ。

その割には品物はどれも豪華で、品質を損なうことはない。

しかも、配給制というわけでもなく、欲しい分だけ与えられる。

結構いいところかもしれない。元の世界に戻る気も薄れてしまう。


(それにしても、さっきのユキの食べっぷりは異常だった……)


今の今まで味の感想が出てこなかったのは、目の前で起きた情報爆発を、俺が処理しきれなかったからだ。


お腹を空かせたユキが一目散に俺たちを連れて行った場所は、麓まで少し歩いたところ、豊かな森に囲まれつつある場所だった。

生活圏であることは分かるが、それでも日本の都市の密集度合いと比べると、あまりに寂しい距離感だった。

山麓の限界集落となんら変わらない光景と言ってもいいだろう。

しかし、目的地に着いた時、その一枚絵はあまりに出来すぎていた。

山沿いの森の中にある一軒のれんが造りのレストラン。もちろん煙突もついている。


ウェイターの服装も、たいして変なところはない。元の世界とあまり様相は変わらないようだ。

微かな花の香りが漂う席に案内され、メニューをぱらぱらめくった。

普通のイタリアンの店と変わらないメニュー。名前も変わらない。

今のところフィレンツェやローマ、ひいてはイタリアという国、そして地中海が存在した事実の形跡も見つかっていないが。

俺だけが勝手に訝しんで迷っているわけにもいかず、カルボナーラを注文した。

ハルは質素な鶏肉のサラダを頼んだ。

ユキがその内容を覚え、ウェイターに注文した。


「チキンサラダとカルボナーラと」


そこからがまずかった。


「プッタネスカとボンゴレビアンコ、アラビアータとネーロに」


俺たちの注文は終わっている訳だから、全部ユキのものだ。

まず思うのは、一つ一つの量が少ないかもしれないということ。

四品でもあれだけ細い身体に収まるのだから、俺も追加で注文しなければ、と思った。

だが違った。


「マルゲリータとビスマルク、それと」


ピザ二枚。某チェーン店は一人でも食べやすいサイズだが、こういう場所はオーブンでようやく調理できる大サイズだ。

一枚で十分に腹が膨れるものなのに。


「タリアータとブルスケッタ、あとシーザーサラダも!」


俺は真顔になっていた。

ちらりと横を向いてハルの動向を伺う。

平気な顔をしていた。日常風景のようだ。

ウェイターの顔も、青ざめているわけでもなく平然としている。

俺だけが置き去りにされる世界。


「デザートでティラミスもお願いしまーす!」


ユキはこれ以上なく元気な顔をしていた。


「ああそうそう、この本を渡しておく」


ハルは目の前で起こる異常な光景をものともせず、俺にガイドブックを渡し、その説明を始めていた。

ユキは体を左右に揺らしながら、楽しくて仕方がないと言った様子だ。

結局、説明は何も頭に入らなかった。

運ばれてきたパスタは一皿で十分なボリュームで、美味しさは申し分ない。

卵とチーズのコラボレーションはオイクメネでも健在のようで、安心したことは覚えている。

だが、その安心を平然と脅かすように、ユキは次々に料理を平らげていく。

ハルは草食動物のように、フォークの先の野菜を静かに噛み締めている。


「食事中にユキ様に話しかけない方がいいよ。一応忠告しておく」


恐ろしくて声をかける気にもなれない。

俺はユキの溌剌さを眺めながら、パスタをいつまでもぐるぐると絡め取っていた。


だが、楽しかったのもそれまで。

一通り食べ終えて、運ばれたコーヒーを鼻に近づけながら、ユキはいつもの調子で言った。


「そういえば、私が辞めること、伝えてませんでしたね」


俺もハルも、動きが止まった。

ウェイターも一瞬動きが止まる。

だが、「そうですか」と言ったきり、平常を貫いていた。

それに倣い、俺たちも普通を演じた。


「ヘマしちゃって、二週間後に辞めることになったんです」


流石に追放されるとは言わなかった。

あまりに聞こえが悪いと、ユキ自身も判断したのだろう。


「今までありがとうございました。とても美味しかったし、いっぱい食べられて嬉しかったです」


「それは私にではなく、厨房の方に伝えてあげてください」


ユキははっとした様子で、恥ずかしそうにしていた。

飲み物も堪能した後、ユキは姿の見えない厨房の誰かに向けて、謝辞を述べていた。

相変わらず俺とハルの足取りは重いまま、ユキだけが先に行っていた。


追放を免れなければ。

今一度、俺に問題が押しつけられる。

紅茶の香りに鼻をくすぐらせながら。


「なんでユキが一番能天気なんだろう……」


やっぱりまだ死にたいと思っているからだろうか。

俺は自分で予想をしておきながら、全くその線はないと感じる。

なぜなら、本気で言っていたあの夜に比べて、表情が明るいからだ。

諦めは多少あるだろうが、ユキは何か、真の意味で安らかになっている。


「『彼は見た目以上に優しい』、か」


ユキは何かしらの理由でコウを信用しているようだ。

もしかしたら尋問されている最中、秘策を一緒に講じていたのかもしれない。

それだったらいいが、コウの内心が読めない以上、最も楽観的な予測に身を預けるわけにはいかない。

確実に危機を回避する方法を探し出さなければ。

だが今はとりあえず、明日に備えて寝よう。


「暗さを確保するために、窓は邪魔なんだな」


自分の中で納得がいったところで、部屋の照明を落とす。

あんなに眩しかった部屋が、深海に沈んだような落ち着きを得ている。

シャワーを浴び、歯磨きを終え、寝巻きに着替え、柔らかなマットレスにごろんと転がった。

想像以上に自分が疲れていることを知る。

大の字に広がったまま、俺の体が溶けていく。消えていく。




「オイクメネは楽しい?」


久しぶりに彼女の声が聞こえた。


「気疲れする。変に新しいことが多いし、危機も迫ってる」


彼女がこの世界のことを知っていても何もおかしくないだろう。

何せここは夢の中。俺の記憶で彼女も動いている。


「そっか」


今、俺は光一つない暗い部屋の中。

床に転がっていたあの時とは違うが、状況は似ている。

何より、彼女が今そこにいる。


「ヒント、欲しい?」


手がかりがあるのなら何でもほしい。

もっとも、そんなものはないだろうし、彼女がそれを知っているはずもない。


「とにかく行動あるのみ」


君にしては珍しく、ありふれたことを言うんだね。

だけど、その言葉は、俺の直感とも合致している。


「答えは外にあるよ。確実に」


彼女が言ったことが全てだった。

安全圏から手をこまねいていても何も始まらない。

外だ。

どうにかこれ以上の迷惑をかけずに、外に出るんだ。


「困ったら私の名前を呼んでね」


彼女の囁きが耳に吸い込まれて、俺の意識がまどろんでいった。

もしかして、本当に今、横にいたんじゃないか……

俺はそう思うこともままならず、寝返りを打った。


しかし、突然のノックの音で、俺ははっきりと目が覚める。

誰にも気づかれたくない、密かで細やかな音。

それでも、この静寂の中では目立っていた。


俺は重い体を起こし、出入り口の覗き穴から誰なのかを確認する。

予想通りだった。

編み込んだ朱色の髪が、不満げな表情と共に佇んでいた。

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