2.

 冬の夜は、相変わらず静かだった。車も走っていない。フェンゲが出るんだ、皆んな、家の中に閉じ籠ってる。どの家も雨戸をしっかりと閉めているため、辺りは異様に暗かった。不気味だ。等間隔に並ぶ街灯から降り注ぐオレンジ色の光が不気味さをより一層、際立たせていた。前にYouTubeで見たホラーゲームと雰囲気がよく似ている。なんとなくだが、そんな気がした。

 屋根から歩道に降り立ち、そのまま交差点まで歩いていく。近くに建つマンションは真っ暗で、人が住んでいないように見えた。棄てられた都市、そんな感じだ。

 暗闇の中、信号機が明滅する。別に待つ必要などなかったが、体が勝手に止まってしまった。慣れって、怖いな。こっちに来たばかりの頃は、夜でもまだ賑やかさが残っていた。郊外はたいして変わってはいないが、繁華街は急速に、といっていいほど変わってしまった気がする。気がつけば、繁華街が夜にその明かりを灯すのは春と秋、それに夏のごく僅かな期間だけになっていて、皆んな、それを受け止めていた。

 信号が青になる。待っている間、車は一台も通らなかった。足早に歩いていく。横断歩道を渡り切った先は緩やかな下り坂になっていた。しばらく真っ直ぐ進んでいき、スーパーマーケット横の路地に入っていく。街灯などなく真っ暗だったが、夜目が効くので問題はなかった。そのまま歩いていくと、神社の斜め向かいに薔薇のアーチと生垣のある一軒の家が見えてきた。自宅だ、十年前に市から提供された。苅部曰く、元々は空き家だったらしい。

 アーチを潜り、ポケットの中から取り出した鍵をモールガラスが嵌め込まれた戸に差し込み、回し、横にスライドさせる。三和土の奥に見える廊下は、まるで鉛筆でぐりぐりと塗りつぶしたように暗かった。照明のスイッチを押す。廊下の無駄に高い天井に取り付けられた円筒形の傘が、朧げな光を放って辺りを照らしだす。

 戸を閉め、コートのポケットからスマホとイヤホンを取り出して下駄箱の上に置く。どうせ、買い直す羽目になるんだ、ここで脱ぎ捨てていってもいいだろう、と思いながら服を脱いで、裸になる。靴を脱ぎ、翻訳器を外してそのまま浴室へと向かう。ひんやりとした刺すような空気。浴室は二階へと続く階段のすぐ近くにある。ここには浴室の他に洗面所やトイレ、洗濯機といった水回りが集中していた。

 中に入る。入ってすぐの所に洗面台、洗濯機は浴室に続く扉の左横に置いてあり、右横には白い造り付けの棚があった。洗面台の前で足を止める。鏡の中にぼんやりとした、不安げな表情を浮かべているオレがいた。首筋の辺りまである艶やかな黒髪に、がっしりとした筋肉質な体。だが、ボディビルダーのような均一な筋肉の塊ではない、実用的な筋肉だ。だから、ムラがある。だらんとした性器は、血を滾らせながらさらに大きくなろうとしていた。くしゃみが出る。大きな声だった。ゔゔ、寒いな、早くシャワーを浴びるか。

 震えながら浴室へと入る。廊下よりも寒いひんやりとした空気に性器が、キュッと縮こまる。震えながらシャワーを出す。最初に冷たい水が、しばらくして温水が出てくる。氷が溶けていくような感覚。はぁ、暖けぇ。思わず顔が綻ぶ。顔を、体を伝う温水。それに乗って流れ落ちていく汚れ。シャワーを止める。手にボディソープを付け、体に擦り込むようにして塗り広げていく。渦を描く白の軌跡。柔らかな胸筋。意思を持っているかのように硬くなりながら起き上がっていく、性器。何気ない日常風景。だが、その傍にはいつもと違う何かが横たわっているような、そんな気がした。

 シャワーを浴び終え、浴室から出ると、素早く体を拭いて髪を乾かした。暖房を入れた方がいいよな、絶対。いや、無駄か? そんなことを考えながら二階に上がっていく。服は着ていない、裸のままだ。階段を登り切った先にある二つの扉。一つは寝室で、その向かいはゲストルームになっていた。

 寝室に入り、タンスから下着や服を取り出して着替えていく。青いチェックのフランネルシャツにベージュのチノパン、下着はヒートテックとトランクス。どれもユニクロであつらえたものだった。

 着替え終えると、寝室の片隅に置かれたチェストの一段目から財布と時計を、二段目からパスポートを取り出した。時計はCASIOのデジタルウォッチで、財布は二つ折りの合成皮革のヤツ。時計は苅部からのプレゼントで、財布は忘年会のビンゴゲームの景品だった。パスポートの表紙は臙脂色で、真ん中にはフルビルタス王国の国章が箔押しされていた。

 腕時計を嵌めようとするが、焦りからなのか、上手く嵌められなかった。壁に掛けてあるショルダーバッグを手に取り、パスポートと財布を放り込む。ショルダーベルトを襷掛けにし、ウォールハンガーに掛けてあるダウンジャケットを手に取り、袖を通す。そのあと、寝室を出て玄関に向かい、棚の上に置いたままになっていたスマホとイヤホンをバッグの中に入れると、戸締りを確認してから玄関の電気を消して、家を出た。

 外に出ると、先程と同じように跳躍しながら呪文を唱えて屋根に飛び移った。そして、そのまま屋根の上を目的地に向かって駆けていった。

 目指すは、JR清岡駅。

 そこには、ソーラルド行きの列車が発着する〇番線ホームがあった。他の路線は午後五時で終電だが、〇番線だけは夜遅く、十一時近くまで運行していた。腕時計を見る。時刻は十時半。終電には余裕で間に合う時間だった。

 屋根から屋根へと飛び移りながら夜の街を駆けていく。夜闇に滲むオレンジの光、蛍光灯は切り裂くように白く、輝いている。辺りを昼間のように照らし出す投光器。様々な光が無人の街を彩る。

 光は、街の中心部に近づくにつれ、その輝きを増していった。新たに加わるネオンの光。等間隔に、計画的に配された植物たち。街は人の気配で満ちていた。しかし、そこには誰もいない。ゴーストタウンよりも明るく、コロナ禍の非常事態宣言時よりも静かで、不気味な街がそこにあった。

 ふと、街灯の明かりの下、フェンゲと戦うロアルスを見つけた。この辺りなら同じ駿河区担当のルカルだろう、あるいはフェンゲを追ってきた葵区担当の誰かだろうか、などと考えながら通り過ぎていく。清岡市に配置されているロアルスは、駿河区に自分を含めて二人、葵区に四人、清水区に三人の計、九人だった。

 高層ビルの屋上から滑空するようにして駅近くに降り立つ。

 時刻は十一時キッカリ。横断歩道を渡り、駅舎に向かっていく。煌々と輝く、駅舎とロータリー。辺りに人の気配がない分、虚しく感じた。誰もいない構内に響く間伸びしたチャイムの音。そういや、あそこら辺に堂島ロールの店が入ったんだよな、たしか。ASTYの隣、前に旅行代理店があった辺りを見ながら切符売り場に向かって歩いていく。

 〇番線の切符売り場は在来線改札口の隣にある。

 財布から取り出した一万円札を券売機のスリットに差し込むと、ピッという音と共に《王都ギルス》と書かれたボタンが光った。料金はピッタリ一万円。安いのか高いのか、よく分からない曖昧な値段だったが、それでも一万円で異世界に行けるのなら安いのかもしれない。ちょっとした、海外旅行だ。買った切符を持って隣にある改札口に向かい、自動改札機に通す。この時間だ、改札には誰もいない。まったくの無人だ。エスカレーターや電光掲示板は近づけば作動する仕組みのようだった。なんとなく寂しい気持ちになる。

 改札を抜けた先は出入国審査ゲートだった。ここは流石に無人というわけにもいかず、カウンターテーブルのような長机の奥に男が一人、座っていた。彼は暇そうにスマホを弄っていたが、こちらに気がつくと、すっくと立ち上がり「GuNa.」と言って手招きをした。久しぶりに聞くソーラルドの夜の挨拶だった。

 長机の前まで行き「大丈夫ですよ。日本語わかりますから」と言うと、男は少し残念そうに「ああ、そう」と言った。

 そのあと、男は銀色のトレーを手に取りながら「はい、じゃあ、荷物検査しますね」と言った。

 めんどくせぇ、そう思いながらバックの中のものを取り出してトレーの上に置いていく。全部出し終えると、男はバックを検査機にかけ、無言でモニターを凝視した。張り詰めた緊張が辺りに漂う。後ろめたいことなど何一つないのに、だ。そのあと、彼はトレーの上に置かれたものをひとつづつ、丁寧に確認しはじめた。

「……遅えな」

 チッ、と舌打ちをする。

 すると、男は顔色一つ変えずに「経費削減で、まあ、こうなってますんで」と言った。投げやり気味な言い方で、何処か他人事のようだった。

 三分後、男は満面の笑みを浮かべながら「行ってよしッ」と言った。

 荷物をまとめてゲートの先にある階段を降りていく。

 降りた先は一面、象牙色のタイルで覆われた広い空間だった。リミナルスペースのような不気味さが漂う。人気のない静けさがそれをより一層、強調していた。階段をさらに降りていく。しばらくすると、洞窟のような薄暗いトンネルの中にポツンと佇む〇番線のホームが見えてきた。いつ見ても小さい。まるで、山奥にある無人駅のようだった。

 すでに列車は待機していて、車掌たちが点検や確認をしている最中だった。飴色に塗られた車体に映える金の装飾。こっちの世界で走っている味気ない四角い箱とは明らかに違う、豪華な造りだった。ふと、列車の窓から身を乗り出して指差し確認を行う車掌と目が合った。彼は早く乗れと、言わんばかりに入り口の辺りを顎で指し示した。切符をこれみよがしに掲げながら列車に乗り込む。

 車内には数人の男女が乗っていた。窓辺の席に腰掛けると、向かいの席に座っていた老人が舌打ちをした。

「……GuRaDo.」

 呪詛のような、低く暗い声。それは、久しぶりに聞く差別的な言葉だった。怒りが沸々と湧いてきたが、とりあえず無視することにした。騒ぎを起こせば、捕まるのは自分だ。そんなのはゴメンだ、と思い、窓の外に目を向ける。薄汚れた壁しかない。窓に映る老人は、しばらくの間、顰めっ面でこちらを睨んでいたが、やがて、目を背けるようにして通路側を向いた。日本語で差別されても、侮蔑的な目で見られても、まあ、異世界だから仕方がない、と割り切れた。テレビに映る差別や移民問題に関するニュースは他人事と捉えていた。自分を投影することもなかった。むしろ、安心感さえあった。もし、現場にいたら率先して差別に加担していたのかもしれない。そうすれば、集団に受け入れてもらえるから。

 でも、ソーラルドは別だった。流石にキツい、そう感じた。

 軽やかな笛の音が響き、それを合図にドアが閉まる。出発の合図だ。しばらくすると列車がゆっくりと動き出した。そうだ、スマホ。マナーモードにしとかねえと。ショルダーバッグからスマホを取り出すと、老人がおもむろに立ち上がり、列車の揺れに身を任せながら隣の席に移動していった。その様子を眺めながら、ふん、と鼻を鳴らす。大丈夫、慣れっこだ、と心の中でそう呟く。後ろで扉が勢いよく開いた。

 振り返ると、黒い制服に身を包んだ、がっしりとした体つきの車掌が胸を張りながらこちらに向かって歩いてくるのが見えた。随分と早えな。

 車掌は立ち止まると、大きな手をずいっと突き出しながら威圧的な口調で「切符を拝見いたします」と言った。無言で切符を渡す。彼は切符を舐めるように見つめたあと、バチン、とハサミを入れた。切符が返ってくる。

「……どーも、」と、返す。

 車掌は大きな体をゆっくりと動かして方向転換をすると、他の席に向かっていった。多分、他のヤツには違う態度を取るんだろうな。車掌の後ろ姿を見ながらぼんやりと考える。ほら、やっぱり。予想通りの行動だった。

 切符を仕舞い込み、窓の外に目を向ける。景色も何もない真っ暗なトンネルの壁、それが流れていく。窓に映る顔は色んな感情が入り混じったような、そんな表情だった。

 気晴らしに音楽でも聴こうと思い、バックからスマホと一緒に取り出したイヤホンを耳に押し込みながらミュージックアプリを起動させ、適当な曲をタップする。近所のラーメン屋でよく流れている曲。今、流行りのドラマの主題歌らしいがドラマ自体を見たことがないのでよく分からなかった。そもそも歌詞の意味すら分かっていない。でも、好きな曲だった。

 目を閉じて音楽に集中する。数分ごとに切り替わり、脈絡なく流れていく曲。時間が溶けていくような感覚。今が、何時なのかわからなくなる。知ろうともしなかった。ただ、この時間がずっと続けばいい、そう思っていた。

 それから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか? 曲が何回目かのループを終えた頃、足元から耳障りな音が上がってきた。ブレーキがかかったのだと、思った。

 目を開け、イヤホンを外すと『まもなく、ギルス。ギルスでございます──』とアナウンスが聞こえてきた。窓の外は相変わらず灰色の壁だったが、他の乗客が身支度をはじめていたので、もう少しで目的地に着くのだとわかった。

 窓の外がパッと明るくなったかと思うと、象牙色の石壁が現れた。磨かれた表面は鏡のようにツヤツヤしている。壁が途切れ、金色のシャンデリアがぶら下がる宮殿のような豪華な造りのホームが見えた瞬間、列車が止まった。少し間を置いてから扉が開き、それを合図に乗客たちが統率された軍隊のような無駄のない動きで、一斉に立ち上がった。

 蛇行する乗客たちの列。一番後ろにくっ付いて列車から降りる。終電ということもあってか、乗り込もうとする者の姿はなかった。しんと静まり返ったホームには、虚栄心で出来た張りぼてのような寂しさが漂っていた。

 階段を上がっていき、入国審査を受けるための列に並ぶ。久しぶりだな、最後に帰ったのはコロナ前だから、もう、五年になるのか。また、色々と聞かれっかな? ていうか、なんかおっせえなぁ。なんかやらかしたのかぁ? 前のヤツ。並んでいる列の流れは非常に悪かった。それに対して隣の列は比較的スムーズに動いていた。隣は早えな。簡単に終わらせてんのか? まあ、どうでもいいかぁ。くあっと、あくびをする。

 ふと、前の方から言い争う声が聞こえてきた。見ると、ガタイの良い男が不満そうに顔を顰めながら身体検査を受けているのが見えた。審査官は若い男だった。こりゃ、長くなりそうだな。小さくため息をつく。とりあえず、アイツに連絡しとくか。遅くなりそうな旨をオヌに連絡しようと思い、スマホを取り出すと、隣から「お待ちの方ぁ、こちらにどーぞぉ」と、掠れたような声が聞こえてきた。

 振り向くと、隣のゲートの審査官がこちらに向かって手を振っているのが見えた。温厚そうな老人だった。

 前に並んでいた数人と共に隣のゲートに移動する。こちらのゲートは、列が比較的スムーズに進んでいった。自分の番になり、審査官にパスポートを手渡す。彼は赤べこのように忙しなく首を上げ下げしながら写真と実物とを見比べたあと、別のページを開いてそこにハンコを押した。

「随分と長い滞在だったんですねぇ」

 審査官はパスポートを返しながらそう言った。軽く笑った口元から黄ばんだ歯が覗く。

「まっ、コロナなんてのがありましたから」

 パスポートを受け取りながらそう返す。

「ああ、なるほど。……あの時は大変でしたからねぇ」

 審査官はそう言うと、手をひらひらとさせた。もう、行っていいという合図だった。詳しく聞かねえんだな。何だか拍子抜けしたような、そんな気になる。隣のゲートに目を向ける。男の身体検査は、まだ続いていた。かわいそうになぁ。男を不憫に思いながらパスポートを仕舞い、そのまま改札口まで歩いていく。

 改札は清岡駅と同じく、無人だった。切符をスリットに挿入し、改札を抜ける。左手には北口広場に続く扉があり、その奥には深い闇が広がっていた。右手にはだだっ広い構内。王宮のように豪華な造りだ。光沢のある大理石、眩い光を放つシャンデリアなどの装飾品で、過剰なまでに装飾された濃密な空間。為政者の、或いは、世界宗教を標榜するゲセブ教を讃え、その威光を示すためだけに存在する装飾たち。

 構内のちょうど真ん中から顔を覗かせている階段に向かって歩いていく。その道すがら、腕時計を見る。時刻は午前零時ちょうど。少し遅れて南口広場にある時計台の鐘が鳴った。

 階段を地下に向かって降りていく。昼間なら混雑しているだろうけど、今はしていない。静かで、寂しい光景。だんだんと空気がひんやりとしてくる。

 地下道は天井から降り注ぐ人工的な光によって明るく照らされていたが、それでも暗く感じた。灰色が混じっているのだと、そう思った。写真のレタッチで、彩度を少しだけマイナス方向に持っていった時のような、そんな感じの色だ。

「……さむ、」と、呟きながら鼻を啜る。

 階段を降り切ると、隅の方にロアルスの若い男が立っていることに気がついた。彼はゲセブ教配下の警察組織である護法騎士団の制服を着ていた。赤地に金モール紐の装飾が施された豪華な服。よく見ると、腰に剣を差していた。テレビで見た何処かの国の兵隊に似ていなくもなかった。

 ロアルスがこんなとこに立っているなんて珍しいな。前は立っていなかったのにさ、と思いながら前を通り過ぎようとすると、若い男が「こんばんは」と声を掛けてきた。

 軽く会釈をして返すと、若い男は「どちらから来られたんですか?」と尋ねてきた。右手は剣の柄に置かれている。警戒してるな。顔は笑ってるのにさ、そうじゃないオーラを出してる。

「イファラルドからだよ」と、返すと、若い男は頷きながら「ああ、そうですか」と言った。信じていないような口ぶりだった。パスポートを取り出して水戸黄門の印籠のように見せつけてやる。

「いや、どうも失礼しました」

 若い男は軽く会釈をすると、にこやかに笑いながら「どうぞ、お気をつけて。最近は何かと物騒ですから」と続けた。

「どーも、」

 パスポートを仕舞いながら、そのまままっすぐ歩いていく。

 どこからか、小川のせせらぎのような水の流れる音が聞こえてきた。ふと、清岡駅周辺の地下道を思い出す。あそこも水の流れる音が聞こえる場所があった。妙なところで共通点があるなと思った。もしかしたら知らないだけで、地下道はみんなそんな感じなのかもしれない。

 案内板に従って歩いていく。どこまでも続く、変わり映えのない地下通路。空気は澄んでいて、刺すように冷たい。急いでいた。少なくとも頭の中ではそう思っていた。

 しかし、体は違っていた。幼馴染が死にそうだというのにも関わらず、走ることなくのらりくらりと歩いている。ひどいヤツだ、と思った。あまりにも冷たい自分を見つけて驚く。

 オヌから話を聞いた時は焦っていた。それは、事実だ。だが、次第に冷めていき、今は走ることもなく、ただ、のらりくらりと歩いている。別にロチオの死を望んでいるというわけではない。興味がないわけでもなかった。なのに、妙に冷めている。熱くなっては、急いではいけない、そんな気がした。なんとなく、おぼろげだが、とにかく、そんな気がした。実感が湧かずに漠然と捉えているから、というのもあった。

 それだけ、ロチオとは疎遠になっていた。

 イファラルドに来たばかりの頃は寂しさを埋めようと、互いに連絡を取り合っていた。仕事のことやフェンゲとの戦い方、近況の報告、悩み事など……。最初の頃は互いに相談相手にもなっていた。今、思うと、この頃は互いに支え合っていたのだと思う。

 けれど、五年が経つとある程度慣れてきたからなのか、自然と会う回数が減っていった。仕事が忙しいから、というのもあったのかもしれない。フェンゲが少なくなる春から秋に掛けては別の仕事をしていた。フェンゲ退治は歩合制だ。倒せば倒しただけ稼げる。冬場に稼ぐだけ稼いで、あとは働かずに暮らす連中もいる。

 だが、そういうのはほんの一握りで、大抵の場合は別の仕事をしていないと保たなかった。

 さらに、コロナ禍が追い打ちをかけた。

 その前は、年一、二でソーラルドに帰省していて、その時に会って話をしたりしていた。だが、外出制限やソーラルド側が打ち出した渡航禁止措置によってそれもできなくなった。自由に行き来できるようになったのは、去年の一〇月だったが、いつか行けばいいだろうと思い続け、結局、今日まで先延ばしになっていた。めんどくさいから、というのもあった。

 そういや、ロチオと最後に会ったのはいつだったっけな? 思い出せない。ロチオの爽やかな笑顔はハッキリと思い出せるのに、だ。

 頭で考えている間も体は動いていた。気が付けば、目の前に五番と書かれた看板が見えた。思考と体が乖離していくような感覚に陥る。頭の中で繰り返す自問自答。体は体でひたすら前に進んでいく。何かに導かれるような、亡者のような、無意識下の行進。過ぎゆく景色。白タイル張りの無機質な通路から華美な装飾が施された建物の中、そして、階段を登り切った先にある出入り口が緩やかに移り変わっていく。

 外に出る。刺すような冷たい空気に肌がヒリつく。王立病院はすぐ目の前に建っていた。やっぱり、シャッターが閉まってるな。煌々と輝く面会受付と書かれた看板、扉はシャッターの奥にあった。どうすっかな、上から行くか? 聳え立つ建物を見上げながら目を凝らす。微かに通風口のような穴が見えた。まあ、いけないことはないか。辺りを見回したあと、すうっと息を吸い込む。

「Ham……」

 魔法の呪文を唱えようとした、その瞬間「あー、いたいた。おーいッ」と聞き慣れた声が聞こえてきた。オヌの声だった。

 振り返ると、ダボっとした臙脂色のセーターを着て、モスグリーンのパンツを履いたオヌが手を振りながらこちらに向かって来るのが見えた。服がダボっとしているせいか、メリハリのない、子供のようなずんぐりとした体型に見えた。

「さっきから連絡してるけど、ぜんっぜんっ、繋がらないんだもん」

 そう言われてショルダーバッグからスマホを取り出すと、待ち受け画面に着信があったことを知らせる通知がズラッと表示された。殆どがオヌからので、たまに間に挟まるようにして苅部からの着信があった。

「あー、気づかなかったわ」

「だと、思った」

 オヌは深いため息をついたあと、そう言った。なんとなく、棘のあるような言い方に聞こえた。

「悪かったよ」

 そう言うと、オヌは酷く心配そうな顔をしながら「……え、ちょっと大丈夫?」と、言った。

「あ? どういう意味だよ?」

 睨みつける。馬鹿にされていると思った。

「いや、悪い意味でじゃなくて、その……、随分と素直だなって、思ってさ。……いつもならすぐに食ってかかってきたりしてたじゃん?」

 ああ、なるほど。すうっと息を吸って、ため息のように、はぁっと吐き出す。

「十年も向こうに居るんだ、イヤでも丸くなるって」

「そんなものかしら?」

「そんなモンだよ」

 適当に返す。「んで、ロチオは?」

「こっちよ、アタシについてきて」

 オヌはそう言うと、くるりと後ろを振り向き、そのまままっすぐ歩いていった。

 病院は五棟の建物から成っており、それぞれの建物は連絡通路で結ばれていた。病院の裏へと回り込む。裏は駐車場になっていて、左手には城壁がすぐそこまで迫ってきていた。外堀を潰して建てたんだな、と改めて実感する。王立病院は王城の敷地内に建てられていた。

 しばらく歩いていくと大きなイチョウの木が見えてきた。奥には薄汚れた外壁の古びた建物。その建物の、裏口のような扉を開けて中に入る。キイキイと耳障りな音が響く。明かりが灯っているが、それでも暗かった。

「ロチオは、ここの三階にある三〇五号室にいるわ」

 オヌは階段を登りながらそう言った。

「ていうか、さ」

「……なによ?」

「こんな時間に訪ねていって大丈夫なのか? 他のヤツらに迷惑とか掛かるんじゃねえのか?」

 ふと、疑問に思い、尋ねる。すっかり忘れていたが、時刻は深夜零時を回っていた。常識的には考えられない時間の訪問だ。

「……ううん、大丈夫。居ないから」

 オヌは少し沈んだ声でそう返すと、少し間を置いてから「……ここね、全部個室なの。咎人病の、終末医療専門の病棟なのよ」と続けた。

 その瞬間、実感が湧かずに漠然と捉えていた現実が、ぐうっと重みを増していくのがわかった。ただ、どうすればいいのかは、まだわからなかった。口の中が渇いていることに気がつく。喉も酷く渇いている。器官の内壁同士が張り付くような、そんな渇きだ。唾を飲み込み、やっとの思いで絞り出した声は「マジかよ」の一言だった。

 オヌはそれに対して何も言わないままだったが、意味深な眼差しをこちらに向け、数回瞬きをした。目で返事をしたんだ、と思った。

 それからしばらくの間、何も喋らなかった。澱んだ空気の中を進んでいくような不快さが体に纏わりつく。非常に怠かった。肩が異様に重く感じた、関節が外れて腕が落ちるんじゃないかと思うくらいに。

 オヌが足を止めた。前を見ると、ゆで卵のように白く、つるんとした無機質なドアがあった。ネームプレートに記された部屋番号は公用語のワール語とアラビア数字のハイブリッド。

「……ここよ」

 オヌはそう言った。

 耳障りな音を立てながらゆっくりとスライドしていく、ドア。鼻先を掠めていく消毒液の、匂い。室内は白で統一されていた。ベッドも床も天井も調度品も全て白。清潔感はあった。だが、何処か無機質で見ているだけで酷く不安になる、そんな感じがした。

 ふと、ベッドの脇に黒い塊のようなものがあることに気がついた。ジッと目を凝らす。人のように見えた。死霊、か? なんとなくそう思った。黒い影がもそりと動き、こちらに向かってくる。顔は分からない。フード付きマントが自立しているようにも見えた。風を勢いよく飛ばすため、くっ付けた人差し指と中指をまっすぐ立てる。呪文を唱えようとすると「やっほ、ジャオ婆。イヅナ連れてきたよ」と、いうオヌの声が聞こえてきた。

 その瞬間、視界がクリアになり先程の黒い影はフードを被った老女の姿へと変わった。黒いフードから覗く皺くちゃな顔、オレたち三人の師であり、親代わりでもある長老のジャオ婆だ。

「ったく、驚かせやがって」

 そう言うと、ジャオ婆は顔をくしゃっとさせながら目をスッと細め、ホホッと古い笛のようなこもった声で笑った。

「なんじゃ、化け物だとでもおもったかの?」

 全てを知っているような、そんな口ぶりだった。目もそんな感じ。全てわかっているぞ、という目だった。軽くため息をつく。

「……いや、別に?」

 本当のことを言うのを辞め、適当な言葉で場を濁す。正直に話しても怒られるのは目に見えていた。バカを見るのはごめんだ。ジャオ婆は目をさらに細めながらオレを見ていた。

「……ロチオは?」

 ジャオ婆は何も言わずに奥へと歩いていった。後を追って部屋の中に入り、ベッドの中を覗き込む。

 ロチオは、ベッドに横たわりながらビー玉のような目で虚空を見つめていた。力なく呼吸をする度、痩せ衰えて骨と皮だけになった硬い体が微かに動く。生きている、それは誰の目にも明らかだった。だが、話をするわけでもなく、かといって、特別表情が豊かなわけでもない、ただ、横たわりながら蝋のように滑らかな光沢だけが残った細い腕を微かに動かして意思表示をするのが精一杯なその姿は、生者というよりも死者のそれに近かった。

 ロチオの手を握る。手の内に広がる仄かな温もり。その瞬間、鳥肌が立ち、心の奥深くに砂のようにざらついた分類不可能な感情が渦巻きはじめた。

 初めて抱く不思議な感情に困惑する。冷静に分析してみるが上手くいかなかった。冷めているようで冷めていない、そんな中途半端な状態。

「ねえ、見て。この髪。ロチオってさ、魔力の濃い黒髪だったじゃない? アタシやアンタと同じで。……なのに、今はほら、透き通るような白で、艶もなくてバサバサ。長老連中でもこうはならないよ」

 オヌは、ロチオの髪を手で梳きながらそう言った。蜘蛛の糸のように細く、透き通った白髪が、オヌの長い指の間を軽やかにすり抜けていく。

「やっぱ、ロチオもフェンゲになるのか?」

 オヌは、少し間を置いてから「分からないわ。咎人病に罹患してもね、必ずフェンゲに成るとは限らないんだって、……先生がそう言ってたから」と言った。

「そう、なのか?」

「うん」

「なんか、意外だな。てっきり咎人病に罹って死んだら、必ずフェンゲになるとばかり思っていたから」

「うん、アタシも」

 オヌは、そう言いながら髪を梳くのを止めた。

 扉が開いて白衣を着た神経質そうな眼鏡の男が入ってくる。

 オヌが耳元で「……ロチオの主治医のアルレナードさんよ」と囁いた。

「ジャオさん、ちょっと宜しいですか?」

 アルレナードがそう言うと、ジャオ婆はオレたちに向かって「ちょっと、席を離すでの。ロチオのこと、よろしくの」と、言った。

「うん、わかった」

 オヌがそう返す。ジャオ婆は、笑っているとも、いないともつかない微妙な表情を浮かべながら軽く頷くと、アルレナードと共に部屋から出ていった。

 ロチオは相変わらず遠くを見つめたままだった。何をどう感じ、どう思っているのか? ちゃんと自分で物事を考えられているのだろうか、と思い、ビー玉のような目を覗き込んだ。つるりとした瞳孔に映るオレの姿。ロチオの手が微かに動くのを感じた。意識はある、そう思った。

 同時に恐ろしくも感じた。体が動かせず、叫ぶこともできない恐怖。考え込むたびに息苦しくなっていく。空気を食べるように大きく息を吸い込む。

 ふと、耳が薄膜に包まれたかのように聴こえづらくなっていることに気がついた。ベッドとその周辺が極端な遠近法のように遥か彼方に移動していく。奥は暗い。まるで、自分だけが世界から隔絶されてしまったかのような、そんな錯覚に陥る。オヌが何か喋ったが、何を言っているのか分からなかった。水の中にいるような、そんな感覚だ。激しい不安が体を内側から蝕んでいくのがわかった。

「わかりました」と、神経質そうな声が聞こえてきた。

 その言葉を合図に静かだった耳の中に様々な言葉や音がなだれ込んでくる。

 そして、次の瞬間、ベッドとその周辺がすうっと、引き寄せられるようにしてこちらに向かってきた。不思議な感覚。気が付けば耳はいつも通り──いや、いつもよりもよく聞こえていた。

「……それでは、容態が急変したら速やかに連絡をください」

 ジャオ婆とアルレナードは、いつの間にか戻ってきていた。

「ええ、わかりました」

 ジャオ婆がそう言うと、アルレナードは軽く一礼して、部屋から出ていった。

「なんの話してたんだよ?」

 そう尋ねると、ジャオ婆は「んー」と唸りながらこちらに目を向けた。フードの影に隠れた皺くちゃの肌。それとは対照的な、若々しくギラギラとした双眸。

「な、なんだよ?」

 思わず身構える。オヌは不思議そうに首を傾げていた。しばしの沈黙。やがて、ジャオ婆は軽く笑いながら「まあ、お前さんが気にすることではないでの」と言った。

「……な、なんだよ、それ」

 病室にジャオ婆の笑い声が響く。

「あっ、そういえばさ、ヤテハ兄は?」

 オヌが思い出したようにそう言うと、ジャオ婆は目を細めながら「もうすぐ来るでの、」と言った。ふと、廊下から微かな足音が聞こえてきた。「ほほっ、噂をすればなんとやらじゃ。……来なさったぞ」

 ジャオ婆は遠くを見るように、スッと目を細めながらそう言った。

 足音はだんだんと近づいてきて、ピタリと止まった。ドアがゆっくりと開く。

「よっ」

 軽快な声と共に見知った顔が、ひょっこりと覗く。一回り年上の兄貴分、ヤテハ兄だった。

「あっ、ヤテハ兄」

 オヌがそう呟く。

「ハハッ、ひっさしぶりだなぁ。オヌ」

 ヤテハ兄は、軽く笑いながらそう言った。がっしりとした体の頼り甲斐のある兄貴分。背はオレよりも高い一九〇センチだった。

「久しぶり、ヤテハ兄。元気してた?」

 そう言うと、ヤテハ兄はニッと笑いながら「おう、イヅナ。久しぶりだな。……この通り、元気だぜぇ?」と返してきた。日焼けした顔、それとは対照的な不自然なほど白すぎる歯。ホワイトニングでもしたんだろうか、と思えるほどに。「で、そういうお前は、どうよ?」

「元気だよ。病気や怪我もなくやってる」

「そうか、そうか」

 ヤテハ兄はそう言うと、軽く笑った。そのあと、何かを考えるような仕草をしながら「しっかし、久しぶりだよなぁ。最後に会ったのは、確か……、コロナ前だったか?」と、言った。

「うん、多分そのくらい」と、返す。

「ねっ、ねっ、ヤテハ兄。そっちはどう? 変わりない?」

 オヌは弾むような声でそう言った。飼い主にじゃれつく犬のようだった。

「変わりねえーよ。フェンゲの数も、報酬の薄さも、な」

 ヤテハ兄はそう返すと、軽く笑った。

「なんか、大変そうだね」

「ああ、大変さ。……まっ、でも、なんとか上手い具合にやってっけどな」

 ヤテハ兄の豪快な笑い声が響く。

「久しぶりじゃな、ヤテハ」

 ジャオ婆がそう言うと、ヤテハ兄は「やっ、久しぶり。ジャオ婆」と返した。そして、そのあと、大袈裟な身振り手振りを交えながら「しっかし、いきなり電話を寄越してきたのには驚いたぜ。……しかもさぁ、新しい家に、だよ? 電話番号変えたのまだ、言ってないのにさぁ、一体、どっから情報仕入れたんだよ?」と言った。

 いつも通りの、よく知るヤテハ兄だった。けれど、この場に限っていえば、その存在は極めて異質だった。強烈な違和感が滲み出す。

 なんか無理してんな、と思いながらヤテハ兄を見つめていると、オヌが「……何かあったの?」と尋ねてきた。

「あ?」

「いや、アンタが、さっきからヤテハ兄のことを見てるからさぁ。何かなぁって、思って」

 オヌがそう言うと、オレは「いや、さ、」と前置きした上で「上手くは言えねえけど、さ、なんか無理してるっつーか、不自然っつーか、……まあ、とにかくそんな感じなんだよ」と言った。

「意味わかんないわよ」

 オヌはため息混じりにそう言った。「まあ、さ。こんな時だから、じゃない? ほら、ヤテハ兄って、いつもそうじゃん」

「まあ、な」

 ヤテハ兄は、部屋の隅でジャオ婆と話をしていた。時折、浮かべる真剣な表情。覚悟を決めた顔だと、そう感じた。でも、内心では苦しいんだ、辛いんだ。でも、それを押し殺して、グッと我慢してる。年上ってだけで、損な生き方だ。不器用だ。けど、それがヤテハ兄だ。それを否定する権利はない。

 それからオレたちは、ロチオを囲みながら病室の中で過ごした。時折、他愛のない話や思い出話などを語り合う。ロチオは相変わらずだった。

 近況についての話になった辺りで、ヤテハ兄は思い出したように「ところで、イヅナ。最近、仕事はどうよ?」と尋ねてきた。

「仕事って? フェンゲ退治の?」

 そう返す。ヤテハ兄は垂直に立てた右手を顔の前で振りながら「あー、違う、違う」と言ったあと「そうじゃなくてさ、フェンゲ以外の、表っ側の仕事だよ」と続けた。

「あー、うん。工場でバイトしてるよ。食品サンプルっていうの? あっちの世界でレストランとかに飾ってるヤツ。アレ作ってる工場でバイトしてる。……三月から十一月までだけど」

「同じとこか?」

「うん。そこで稼いで、あとはフェンゲ退治の報酬でなんとかやっているって、そんな感じかな? 家賃も無いからさ」

 軽く頷くと、オヌがため息混じりに「いいなぁ」と呟いた。

「アタシんとこなんてさ、フェンゲが殆ど出なくてさぁ、冬でもバイトとデリバリーの掛け持ちしなきゃなんないんだよ?」

「贅沢言うなって、仕事があるだけマシなんだからよ」

 ヤテハ兄はそう言うと「東京はさ、フェンゲがうじゃうじゃいやがるんだけどよ、報酬がクッソ、薄いんだよ。だから冬でもバイト掛け持ちしなきゃなんなくてさぁ。……でも、これがまた、仕事がねーのよ」と続け、乾いた声で笑った。

「東京なら沢山、ありそうなモンだけど?」

 そう呟くとヤテハ兄は冗談混じりに軽く笑いながら「いや、仕事はあるけどさ、殆どが夜なのよ。オマケにキツい仕事が多いしさぁ。こりゃ、闇バイトに手ぇ出す連中の気持ちもわかるわ」と続けた。

「ヤテハ兄、闇バイトなんかに手、出さないでよね?」

 オヌが顔を顰めながらそう言うと、ヤテハ兄は軽く笑いながら「分かってるって。流石に殺されるのはゴメンだからよ」と言った。

 そして、この話はこれでお開きとなり、その次はロチオの思い出話しになった。誰が言い出したわけでもなくごく自然な流れだった。

「ロチオってさ、カッコよかったよね」

 オヌがそう言った。ヤハテ兄が「確かにな」と、頷く。

 ロチオは爽やかな笑顔が似合う端正な顔立ちの男だった。仲間には優しかったが、その反面、敵に対しては恐ろしいほど冷たかった。

「いっつも顰めっ面してるイヅナとは違って、爽やかなイケメンって感じでさぁ」

「悪かったな、いつも顰めっ面してて」

 小さく舌打ちする。

 ふと、ロチオの顔が上手く思い出せないことに気がついた。

 姿、形はハッキリと思い出せた。ロチオと過ごした日々やその時に住んでいた家の間取りもハッキリと覚えている、雑多な物で埋め尽くされた物置きの情景さえも。だが、そこに人はいなかった。誰もいない。気配はあるが、姿がない。思い出せない。記憶が色褪せていっているのだと、そう思った。頭の中で繰り返し再生され、理想化されていく、美しかった、楽しかった記憶。悲しい記憶、苦い記憶は色褪せていく。ロチオの姿が徐々にぼやけていく。

 ロチオの話しはいつの間にか終わりを迎えていた。当たり前だ、悲しいのだから。

 そして、ヤテハ兄の明るい声と共に他愛のない話がはじまった。東京では何が流行っているとか、どこどこの店が美味しかったとか、そんな、どうでもいい話ばかりだった。話を聞きながら、皆んな、無理してるんだな、と思った。皆んな、憔悴し切った顔をしていた。でも、笑顔で他愛のない話に興じている。不自然で、不気味な光景だった。その後、オレたちは話題を変えながら明け方まで話し続けた。もちろん、眠る者など、誰一人としていなかった。

 そして、朝の光が病室に差し込みはじめた頃、ロチオは静かに逝った。

 その瞬間、ビー玉のような目から光がフッと消えたのがわかった。彼の肌から生気がすうっと、潮の満ち引きのようにゆっくりと消えていく。

 残ったのは蝋人形、或いはゴム人形のような澱んだ褐色の肌をした肉体だけ。皮肉にも、その存在感は生前よりも増していた。

 本来なら忌避するか、悲しむべき場面のはずだ。けれど、不思議と悲しくはならなかったし、死に対する忌避感もなかった。むしろ、驚くほど冷静だった。目の前で兄弟同然に育った幼馴染が死んだというにも関わらず、なんの感情も抱くことなく淡々と、その死を見つめている自分がいた。あまりにも無感情だった。

 ナースコールのか細いアラームが響く。

 しばらくして、アルレナードとヒョロリと背の高い人夫が入ってきた。それからの流れは、まるで、工場のマニュアル化された作業のように効率よく、淡々としていた。

 まず、ロチオの遺体はアルレナードによる死亡確認が行われたあと速やかに遺体袋に納められた。人夫が集まらなかったのか、オレたちも作業を手伝った。ファスナーが上げられ、ビー玉のような目を見開いたまま逝ったロチオの遺体は、黒光りする艶かしい生地の中に埋もれていった。まるで、生ゴミみてえな、そんな感じだな。遺体袋を見下ろしながら、そう思った。

 胸の内には、まだ、砂のようにざらりとした感情が渦巻いていた。だが、それが何なのか、また、何を意味しているのか、未だに分からないままだった。ただ、ロチオが逝った時におぼろげだが、この感情には言葉では上手く説明できない何かがあるのだと、そう感じた。

 今だって、そうだ。

 何かに突き動かされている。喉元まで声が上がってきた。自然と右腕が上がる。そして、何か言葉を発しようとした時、ヤテハ兄が「落ち着けよ」と言って、はたくように軽く肩を叩いた。その瞬間、声は腹の中に吸い込まれていった。どうにかしている、そう思った。

「……辛えのはさ、誰だって同じなんだよ。だから、な?」

 ヤテハ兄は諭すような口調でそう言った。その言葉に「……うん、」と頷く。白木の棺に納められていく、遺体袋。結局、何も言えないままだった。蓋が閉じられ、乾いた音が響く。

 それからオレは、オヌとヤテハ兄と人夫と一緒に棺を担いで外に向かっていった。通用口から外に出ると、駐車場の奥に停まっていた白いハイエースからスーツ姿の男が降りてきた。

「あー、デイビスさぁーん」

 ふと、人夫が声を張り上げる。スーツ姿の男は顔をくしゃっと顰めつつ口パクをしながら右手を勢いよく下ろした。何かのジェスチャーなのだろう、人夫は「あー、すんません」と言って軽く頭を下げた。

 スーツ姿の男がバックドアを開ける。そこに棺を入れると、彼はドアを閉めたあと「それじゃあ、私たちはお先に火葬場の方に向かいますんで」と言った。

 オヌが「あの、アタシたちはどうすれば?」と尋ねた。それに対して「もうすぐ迎えの者が来ますよ」と返す男、それと同時に一台の白いワゴン車が緩やかな弧を描きながら入ってきた。

 陽の光を浴びて煌めく車体。チラリと見えたエンブレムは見たことのないものだった。ワゴン車はスムーズな動きで停車した。

「ああ、ちょうど来ましたね」

 スーツ姿の男はそう言った。停車したワゴン車の中からギムウェリア人の若い男が降りてくる。固有の銀髪と白く透き通った肌、それに長く、尖った耳。端正な顔立ちと相まってか、よく出来た彫刻のようだった。ギムウェリア人か、珍しいな。

「先輩、」

 ギムウェリア人の男は左手を軽く上げながらスーツ姿の男に向かってそう言ったあと、オレたちを一瞥し「この方々をお送りすればいいのですか?」と尋ねた。終始、無表情だった。表情筋が死んでいるのかと思った。

「ああ」

 スーツ姿の男がそう返すと、立てた親指でギムウェリア人の男を指し示しながらオレたちに向かって「じゃあ、あとはコイツ……、いえ、彼が案内しますので、」と言った。

「はい。分かりました」

 ヤテハ兄がそう言うと、スーツ姿の男は人夫と共にハイエースに乗り込み、エンジン音を響かせながら走り去っていった。

 やがて、姿が見えなくなったあと、ギムウェリア人の男は「それでは、行きましょうか?」と言った。やはり、無表情だった。

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