2章【全文公開】
二年生 五月
この世界には音が多すぎる。
地球が生まれた瞬間に音はあったのか、考えたことがある。結論から言えば原始大気ができるまでのわずかな間だけは、人間が聞くことのできる音はなかったらしい。その代わりにマグマだらけで高温らしいけど、適応できるなら地球ができてすぐの時代に生きていたかった。
音というのは生命がいることで初めて発生した。衝突と共鳴を繰り返して増殖し、反響していく。地球の裏側の蝶が羽ばたいて台風になるという寓意的表現に似ている。音もまた小さなものからあらゆる過程を経て大きく発展する。恒星の写真を見たときのような神経の痺れと同じ感覚が俺を襲う。要するに自分の感知できないものに対して過剰に怯えているだけだ。何か音が聞こえる度に「ゴキブリを一匹見かけたら三〇匹はいると思え」という警告をされている気分になった。
草木の囁く音、生物の鳴き声、言語コミュニケーション、石の共鳴、汽笛、機械音。その中で本当に必要な音はほんのわずかしかなくて、他は全てなくなってなくなってしまえばいいと、俺は常々そう思っている。
この難治の苦しみが始まったときのことを、はっきりと覚えている。
俺はあの日、宇宙船に乗せられたのだ。
保育園が終わったら、近所に住む勇と遊ぶのがいつもの流れだった。俺のお母さんも勇のお母さんも比較的寛容なほうで「夕方のチャイムが鳴ったら帰ってきなさいね」と自由に外へ出してくれた。地元で誘拐事件なんて起きたことがないし、そうでなくても俺たちの住む地域は特に人目の多いエリアだったからかもしれない。
その日はかくれんぼをしていた。勇が数を数えている間に俺は隠れる場所を探していた。その時期はかくれんぼが俺たちの中でマイブームになっていて、代わりばんこに、それも時間が許す限り何度もやっていたものだから、大体の隠れ場所は把握できてしまっていた。
だけど、まだ試していない隠れ場所があった。山の斜面だ。傘になりそうなくらい大きく広い葉っぱが斜面を埋め尽くすように生えていて、その下に屈めば上からはまず見えない。勇も、まさかそんな所に隠れているとは思わないだろう。今日は俺の完全勝利だと思った。
前日は強めの雨が降っていて、斜面は少しヌルついていた。葉っぱの茎をバランサーの代わりにゆっくりと下っていく。どろんこ上等だ。勝利のためなら。
しばらくして勇の声がやみ、かくれんぼが始まったのだと緊張した。かくれんぼはいつも二人でやっている。隠れ場所がないとわかっているのは勇も同じだ。もしかしたら、勇も同じことを考えているかもしれない……そう思うと同時に勝利の予感がして、心臓が上下に揺れた。途中、何度か上の方で勇の声が聞こえて、それが尚更俺の気持ちを沸き返らせた。
数十分して夕方のチャイムが鳴った。「こうさーん!」勇の声も聞こえる。すがすがしい人心地で立ち上がろうとした、束の間。支えにしていた茎がぼっきりと折れた。咄嗟に別の葉を掴んだけど、バランスを崩した体重には耐えられずに、それもあっさり千切れてしまう。
そのまま、俺は山の斜面を転がり落ちていった。
幸いなことに、俺は早々に見つかったらしい。無意識に出た情けない声を勇は聞き逃さなかったらしく、すぐさま大人を呼んでの捜索が始まった。捜索者の一人が、前の年の台風で山の一部が崩れて、戦時中に使用されていた防空壕が発見されたことを覚えていたらしい。それが声のした方角にあっただとかで、そこが重点的に捜索された。土砂崩れによって崩壊した入口付近には新たなツタが生い茂り、俺はその中にすっぽりと入っていたという。
大事をとって何日間か入院したらしい。麻酔だが頭痛だかでまともに起きていられず、その辺の記憶は曖昧だ。
その中で一つだけはっきりと覚えていることがあった。頭を打っていたとかで、検査のために大きな機械に入れられた。今思えばMRIとか、そういう類の検査機器だったんだろう。当時の俺はそれをUFOだと思った。「アブダクション」という言葉を知らないながらも、何か大層な実験をされるのだと暴れ回った。
大人の声が響くと思えば、今度は機械から発せられる、頭が砕けそうな轟音。耳も塞げず、泣いても終わらず、耐えるしかない。永い間それが続いて、また打った頭に追い打ちをかけるような大勢の大人の声。
体も動かせず、頭も満足に働かない。そんな状況に、聴覚を司る脳のシワがプチプチと音を立てて千切れた気がする。
あの日から、俺の耳は臆病神に取り憑かれている。
俺は音が嫌いだ。ただそのすべてをなくしてしまいたいわけではない。それを不要だと思っているのは今の俺だけで、そんなものは俺自身の傲慢だということは自分なりに理解しているつもりだ。必要か不要か、なんていう身勝手な考えはその人、その時々で変化する。音も盛者必衰なんだろう。
今の俺には、そう。森の呼吸と太陽の軋む音。それだけがあればいいのだ。
ちょうど、公園の中心にある錆びたカラクリ時計から小人が出てきて、歪な音楽を奏ではじめた。
エーデルワイス。小さな子供が調律の狂ったピアノを弾いているような、幼気な不協和音がいつも通り森の中に吸い込まれていく。ここには小人たちの音楽を聴くやつなんていはしないのに。小人たちは踊り終えるや否や、とっとと時計の中に引っ込んでしまった。
そろそろ帰らないと。
森に囲まれたこの公園は、暗くなるのが早い。俺が普段から使っている場所は特に。
この大型遊具はタコ山に少し似ている。遊具の外側にはアンモナイトみたいなグルグル巻きの模様が施されていて、モルタルと石が混ざった色も相まってなおさら化石っぽい。俺は一人で勝手に「化石山」と呼んでいる。
化石山は色んな方向から穴を開けたような構造になっている。一番高い場所にある穴には鉄のはしごが設置されており、それを登って中の空洞を這って通ると二方向にある滑り台を利用できる。空洞は入口の穴から覗き込まないと見えない。つまりは公園の外から見る分には死角になっているということだ。
入口から顔を出す。木々のてっぺんはもうオレンジだった。課題はとっくに終わって、今は竹内くんから借りた漫画の二冊目を読み終わったところ。部活も終わる時間だし、そろそろ帰ろう。
リュックに荷物を仕舞って、出ようとした、ちょうどその時。
「たぁ~いしょぉ! やってるぅ!?」
いきなりのことだった。入口から知らない人が飛び込んできた。
当然ながらここは子どもの遊び場で、飲食店は一番近くのファミレスでも歩いて二〇分はかかる。「大将」と呼ばれる人はこの場所に存在する余地すらない。
女の人は「つめて~」と言いながらザラザラの床に頬を擦りはじめる。そして明らかに酒臭い。片手に持っていたカップ酒のビンがゴロゴロと転がっていく。
——絡まれたらめんどくさいタイプの酔っ払いだ! 俺は大急ぎで荷物を詰めて、滑り台から脱出した。
【試し読み】かつて『少年』呼びだったお姉さんへ 下村りょう @Higuchi_Chikage
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