ひとりだけど、ひとりじゃない ――軍曹と、勇者と、一人暮らし

神代ゆうき

第1話 勇者と軍曹と、出会いの夜

春。大学進学と同時に、僕の一人暮らしが始まった。


まさか一ヶ月前までは、こんなことになるとは思ってもみなかった。


共通テストの数字ひとつが、僕を海と山に囲まれた故郷から遠く離れたこの街へ連れてきた。


地元の大学は選べなかったけれど、それでも地質学を学びたい――その思いだけは曲げなかった。


見知らぬ街。空気の匂いすら違うように感じる。

誰も知らない場所に来た僕は、打ち捨てられた礫岩のひと欠片みたいだった。


ここでは僕のことを誰も知らない。

僕も誰ひとりとして知らない。

まるで異世界に放り込まれたみたいだ。


入学式前に僕は思い切って眼鏡からコンタクトに替えてみた。

第一印象が大事だと思ったからだ。


鏡の中に、ちょっと見慣れない自分がいる。

「よし、これで大丈夫」……そう言い聞かせて大学へ向かう。


けれど、始まった授業の教室では、もういくつものグループができあがっていた。

地元の高校からそのまま来た友達同士だろうか。

楽しそうに笑い合う声が耳に残る。

羨ましくて、つい目で追ってしまう。

……僕だって地元に進んでいれば、あの笑い声の中に混じっていたかもしれない。

けれど、友達もそれぞれの志を抱えて県外へ散っていった。

寂しいのは、僕だけじゃない。

そう思いたい。



一人暮らしは、不便なことばかりだった。

中高一貫の進学校に通っていた僕は、地元では珍しい私立中受験組。

勉強漬けの日々で、バイト経験など一度もない。



ところが今は塾の講師と飲食店のホールのバイトを掛け持ちして、自転車で見知らぬ街をマップアプリを見ながら走り回っている。


財布とにらめっこし、交通費を少しでも節約しようと必死だった。


慣れない接客で皿を落として叱られ、ホワイトボードの字が汚いと生徒達に笑われる。

そんな日々の繰り返しだ。


季節の変わり目にとうとう風邪をひいて、自室のワンルームのベッドで寝込んだ。


「……しんど。誰か、ポカリ買ってきてくれないかな」


パウチのゼリー飲料をチビチビ飲みながら、僕は思った。

親元を離れてまで手に入れた生活は、想像以上に心細い。



そんなある晩。

バイトを終えて帰宅した夜。

僕の部屋のドアに、見たこともないほど大きな蜘蛛が張りついていた。


「うわっ……でかっ!」

思わずドアの横に立てかけてあった箒を振り回して格闘していると、背後から声が飛んだ。


「なにやってんの? お前」


振り返ると、同じマンションに住む学生がリュックを背負って立っていた。


「く、蜘蛛が!でかいんだよ!化け物かと思うくらい!」

慌てふためいて説明する僕に、彼は呆れたような顔をしながら手を差し出す。


「貸せ、箒。……追っ払ってやるから」

隣人らしき学生は、鮮やかな動きで蜘蛛をササッと、マンションの通路横の茂みへと追いやる。


「すご……!お前、勇者か!」

感激する僕に――


「は?勇者? アホか。蜘蛛ぐらいで大騒ぎしてんじゃねーよ」

彼は肩をすくめた。


「あとな、こいつは“軍曹”だ。化け物じゃない。

田舎じゃ害虫退治のヒーローだからな?」


「ぐ、軍曹……?」


「アシダカグモ。ゴキ食ってくれるんだよ。お前、味方に戦い挑んでどうすんだ」



ふははっ、と明るく笑う彼につられて、僕も思わず笑ってしまった。


「なあ、コンビニ行かね? 腹減った」

彼に誘われるまま、二人で夜風に吹かれながら歩いた。


買ったおにぎりをかじりながら、彼はふいに聞いてきた。


「お前、どこから来たんだ?」


「僕?青瀬。海も山もあるけど、ここまで南に来たのは初めてだ」


「そうか。俺は鳥取だ。砂丘しかないってよく言われるけどな」


彼は、どこか誇らしげに笑った。


「俺はハルト。岸本陽翔」


名乗る声が夜風に響く。


「おまえは?」


「……鳴沢悠」


初めて声にした自分の名前が、少し違って聞こえた。


「そっか。俺、お前を講義中に見かけたことあるわ」

「同じ専攻で、同じマンションだ。――よろしくな、悠」


その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなった。


ハルトの人懐っこい笑顔につられて僕らは思わず笑い合った。

そして気づいた。僕も彼も、ひとりで遠くに来ていたんだ。


彼と親しくなってから、大学生活は少しずつ変わっていった。授業のこと、バイトの愚痴、くだらない冗談。


ひとりで抱えていた毎日が、いつの間にか“分かち合える日々”に変わっていた。


ハルトと笑い合いながら食べたあの夜のコンビニのおにぎりの味は、忘れられないほど旨かった。


僕は初めて、一人暮らしの部屋の暗さを忘れられた気がした。



連休初日の夜、帰省する長距離バスの窓から見下ろした街の灯りは、闇の底に散らばる星みたいに頼りなく、そしてどこか温かかった。


トンネルを抜けるたび、ガラスに映る自分の顔が揺れる。

――この数か月で、少しは変われただろうか。


駅に着くと、母が車で迎えに来ていた。

「おかえり」

その一言に、胸の奥の力がふっと抜ける。


玄関を開ければ、食卓には僕の好物ばかりが並んでいた。

唐揚げ、卵の入ったポテトサラダ、豆腐とわかめの味噌汁、炊きたての白いご飯に、蛸の酢の物まである。


立ちのぼる湯気とともに、懐かしい匂いと今まで当たり前だと思っていた家族の優しさが胸を満たしていく。



その瞬間、僕は気づいた。


孤独も、友情も、家族の温もりも。

すべてが僕の人生に刻まれ、これからを支えていく。

地球の地層のように、静かに、確かに。


――僕は、ひとりだけど、ひとりじゃない。


もう、ひとりで怯える夜は過ぎ去った。

僕は前を向いて歩いていける。

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ひとりだけど、ひとりじゃない ――軍曹と、勇者と、一人暮らし 神代ゆうき @pupukushi0423

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