第9話

「お帰りなさいませレイフ様、クーリー様」


 そういって個人用ヴィレ・ユニットで二人を出迎えたのは、クーリーが出発前に連絡していたモリトと言う日系人。

 月でレイフ教授の個人資産管理を任されている人物だった。

 ヴィレは教授の書斎と研究室を兼ねている。


「ただいまモリト。月で見つかったクジラっていうのはどう?」

「調査はまったくの手付かずです。時期的に、宇宙国際フォーラムにほとんどの理事や評議員が出席していたこともありますが……」


 そう言ってモリトが少し口籠る。


「何かあったのかい?」

「詳細は存じませんが、リーヴァ局長の様子を見るに、相当厄介な問題が発生しているようです」


 月クジラについての連絡も入れていないし、暗号を送ったわけでもなく、単に今日の便で月に戻ると伝えただけだったが、モリトは二人の意図を把握して支度をしていた。


「問題……? やっぱりそれで、レター・パックでの連絡にしたり、カバーストーリーを用意したんでしょうか?」

「そのようだね。警戒しておいて正解だったようだ」

「それとレイフ様のご連絡通り、リーヴァ局長との会談も調整してあります」


 そうモリトが言ったので、クーリーはギョッとする。


「私の後にモリトさんに何か連絡を入れたんですか? 量子ネット経由で月の情報がウッカリ流出したなんてことになったら、ファーミントン家末代の恥ですよ」


 量子通信の防諜の脆弱性に関しては、DLESSの権威であるレイフ教授もよく理解しているだろうと思っていたから、月のモリトと量子通信で連絡を取っていたなどは想定外だった。

 けれどクーリーがそう詰め寄ると、教授は「いやいや」と掌を左右に振った。


「モリトには『僕も三日後に帰る』と送っただけだよ」

「それだけで、モリトさんが各所と調整したんですか?」

 クーリーがそう聞くと、モリトはにこやかに「さようですね」と答えた。

「ではDLESSの権威であるこの僕が、クーリー君に少し講義をしようじゃないか」

「いや、別に要らないですけど」

「まあ聞きなさいよ――例えば仮に、諜報をしているDLESSオペレーターが『レイフ教授の身辺を洗う』というように入力していれば、クーリー君が『月に帰る旨』をモリトに送った時点で、優先的な情報収集対象にピックアップされるわけだ」

「だから私はマニュアル通り、極力短く当たり障りのない内容でモリトさんに連絡を入れましたが……何か問題でも?」


 クーリーは少しムッとする。

 助手として付いているのは実務的な面で、道楽なレイフ教授を補佐しているという自負があるためだ。だが教授は楽しそうに話を続ける。


「だから僕はもう一つ迷彩を入れたんだよ『僕も三日後に帰る』とね」

「それに何の意味が……?」

「人間、それも特に諜報の人には、あまり意味はないだろうけれど、使っている道具――DLESSには意味があるんだよ」

「それでスタンネルン氏のようなタイプの対応には困っていたんですね……」


 おそらくスタンネルン氏は、DLESSで常態的に情報を集めるタイプの職業諜報員というわけではなく、比較的古典的な、自らの感性で情報を精査するブローカータイプなのだろうと予想される。

 そんなことを話していると、モリトがこれまた古典的な電子ホワイトボードを手押して持ってきた。

 ホワイトボードは二十世紀、黒板から数えれば十九世紀から数百年、ほぼ機能を変えずに存在し続ける万能の掲示伝達筆記具である。

 どうやら講義が始まるらしいと諦めて、クーリーは苦手な枠に出席する学生のような顔をしながら、近くの椅子に腰かけた。


「まずはクーリー君のメール『今日、月に帰る』と書いたんだっけか」


 強制的に生徒にされたクーリーの表情は意に介さず、レイフはホワイトボードに口にしたことをそのままホワイトボードに書き込む。


「――DLESSは良い意味でも悪い意味でも小賢しいからね、このクーリー君のメールの後に『僕も三日後に帰る』というメールを確認した時点で、僕とクーリー君が別行動をしていることを勝手に推察する」


 続けて、自分のメール内容を書き込む。


「勝手に推察するんですか?」

「DLESSのESはエキスパンション・サンプリング――拡張抽出。ディープ・ラーニングをから得られたものを勝手に処理して、オペレーターの要求するものを出力する。そういう道具だね。DLESSは本来、入力と出力を理解すれば、道具や部品を扱うのに構造を理解する必要はないというオブジェクト指向の系譜だ。道具を使う人が、道具を作れる必要はないという、社会的効率に必要とされたデザインだね」

「そこは分かりますが……」

「さて、この『三日後』という曖昧な言葉を入力しているのがポイントでね。クーリー君やモリトには、これを僕が言っているので『クーリーと一緒に、三日の旅程で月に着く』という意味に通じるのだけれど、クーリー君のメールを先に学習したDLESSは、表面上の理解で、これを勝手に『クーリーとは別行動をして、三日後れで月に着く』と認識するわけだ」

「私のメールでは今日で、教授のメールでは三日後……しかし三日は、シャトルの移動時間のことですよね。そんなことを誤認しますか?」

「情報が多ければサンプリングは正確になるけれど、諜報というのは少ない情報から謎を解くものだからね。DLESSも小さな兆候を見逃さないように調整されているだろう」

「『遊び』が無いわけですね、諜報用のDLESSには」

「で、それを主観も客観もない、俯瞰視点しか持たないDLESSが限定された情報を深層学習だけで読み解こうとすると、何故か、よくそうなる。物事に対する思考の深度……とでもいうべきものが常にフラットでデジタルなんだ。揺らぎを持たせるにしても、何らかの参照データが要る」

「理由は分かっていないんですか?」

「おそらくは構造のベースが主体的自意識ではないから、だと言われているね」


 そう言ってレイフ教授は、教師の様にホワイトボードに書き込む。


「主体的自意識?」

「データを受け取った時に、自己を主体として経験をどう感じるか? の部分だと思えばいい。が、DLESSにそんな機能は搭載していない。他の機能とかち合うしね」

「教授でも無理だったんです?」


 皮肉るようにそう言うと、レイフ教授は「そう、それ」と喜んだので、クーリーは言葉選びを失敗したと、小さく天を仰いだ。


「人間の客観視点や俯瞰視点は、主観的経験からのエミュレートだ。だから同じ情報を受けても個人差がある。『リンゴ』と言われてイメージするものは様々だ。外れ値を除外してもイメージには万人で差がある」


 ホワイトボードに主観視点からの客観視点のエミュレート、と書き込む。


「一方でDLESSのようなコンピュータは、客観視点の学習知能。こちらにとって『リンゴ』は『リンゴ』というデータだ。この時点での差異はない。すべてのシステムで同じ『リンゴ』というイメージが共有される。人の様に連想を行わせ、変化を持たせることも出来るが、それは俯瞰視点から、主観視点をエミュレートしているだけだ」


 こちらには、俯瞰視点から、主観視点をエミュレート、と書き込む。


「では、その主観視点で稼働する、DLESSのオペレーティング・システムを作れば……というわけにはいかなそうですね?」


 途中まで言いかけてクーリーは、これがレイフ教授の誘導だと気づき、ため息交じりに言葉尻を変えた。


「そう。さすがクーリー君、良い視点だ。そして多くの研究者もそう考えたんだけれどね……結果は、月プラットフォーム・ゲートウェイの誇る量子演算複合の高分子スーパーコンピュータを使っても、単なる乱数生成にしかならなかったよ」

「処理能力不足……とか、ですか?」

「少なくとも、現在のコンピュータの運用方法で使うには、無意味なシステムということになるね。俯瞰から主観をエミュレートする方が、遥かに容易なんだよ」

「道具としては、無意味なわけですか」

「もちろん、その乱数生成自体は、量子力学や分子分野で応用の効く計算なのだけどね。それはそれとして、前もって自意識を植え付けるには経験の学習が必要だが、自意識が無ければ経験は得られない。それは単なる取得情報になる。しかもDLESSはそれらを俯瞰的に情報として処理するのが本来のデバイスだ。卵が先か、鶏が先か、という話だよ……で、ここからが面白いんだが、仏教的な識の解釈から――」

「あー、いや教授、そろそろ時間です」


 いよいよ教授の熱を帯びてきたので、クーリーはそう言って、講談と化しそうな話を止めてモリトに目配せしてみせた。


「そのようですね」


 とモリトが話を合わせてくれる。


「時間か。それは残念だ」

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