第3話
クリス・エンシスハイムの有人木星バイパス探査は、カーライン・カハルルィーク博士同様に、単身で行われることとなった。
木星バイパスへの無人探査機の投入は、木星プラットフォーム・ゲートウェイの建造以来、数年に一度のペースで継続して行われているが、ワームホールのような時空間トンネル効果を持つ超空間ゲートの存在は、数値として確認できているものの、通過後の量子通信は途絶して、また今までに帰還した機体は存在しない。
門が通れることは分かっている。だが、門の中を目撃したものが居ない。
それが現在の木星バイパスに対する人類の認識だ。
つまりそれこそがクリスの動機でもあるのだが、一方でその有人探査は、検証実験よりも成功率の低い代物である。
いかにクリスが木星や月、火星の月探査財団に顔の効くエンシスハイム財閥の人間とはいえ、このような危険な実験に、貴重な人材を融通できるほど前時代的な組織でもない。
もちろん個人レベルであれば、命を賭しても参加したいという者は数多くいたが、クリスはそのどれもを断った。
そして代わりの様にレイフに頼んできたのが、完全DLESS制御の亜光速宇宙船の設計だった。
亜光速宇宙船――サブライト・オービターは、火星プラットフォーム・ゲートウェイ計画の際、試験的に運用され、木星プラットフォーム・ゲートウェイ計画時に基礎理論と実証が完成した現在の宇宙船であり、ゲートウェイ間を航行するのに用いられる。
カハルルィーク博士が木星バイパス突入、そして帰還船となったのは、木星計画サブライト・オービターの予備機ニュー・アトランティス号。
そこから先の発展は、高分子コンピュータであるDLESSが開発されて以後のことだ。
演算においては人類を遥かに凌駕する高分子基盤、脳神経マップを持つ集積回路によって稼働するDLESSであっても、機械知性として見た場合には、いまだ人類の頭脳に遠く及ばないのが実情だ。
コンピュータがプレートテクトニクスや酸化還元の循環システムを容易に演算できるようになったとして、素数ゼミの生存進化的な深層学習の自然選択を再現可能になっても、人の脳に刻まれた記憶痕跡を模倣演算したとしても、それらはあくまで巨大なシステムであって、最小個体の固有知性にまでは到達できていない。
それはつまり、DLESSがその能力をフルに活用し、乗組員の生存を最優先するようにプログラムしたとしても、分子生物進化の過程を経ていないDLESSのようなコンピュータ知性が『生存』をどう解釈するかはまったく不明であり、背反二律等の軋轢が生じた場合、機械に求められる精密な処理ではなく、混沌とした乱数に頼る出力に帰結することも考えられる。
その問題は、仮にDLESSが進化し、人間の知性を超えたオーバー・インテリジェンスに到達したとしても問題として残り続ける。
発生と進化の系譜が遠い生物・知性が、互いを理解しあうことは到底ありえない。
それがレイフの持論だった。
それゆえにレイフはDLESS設計者であり、道具として全幅の信頼を置きながらも、DLESSを知性としては信用していない。
クリスを一人で行かせることには、最後まで反対し、一度はDLESSの制御のために自分も同乗するとまで言ったのは、レイフ自身もそうなのだが、それも結局断られた。
「クリス……船のDLESSの仕様は、すべて頭に入っているな?」
「くどいぞレイフ。ワタシを誰だと思っている」
サブライト・オービターの発射前で、クリスはピリピリとしていた。
レイフの居るゲートウェイの管制制御室の空気も同様だった。
「突入後の探査は、ほとんどはDLESSに組み込んだスケジュールによって自動化されている。水や食料、補修資材を生成するためのマテリアル・プリンターも積み込んであるから、理論上は何年でも活動可能だが、向こうでの滞在予定は最長一週間に設定。ただし、不測の事態が発生すればDLESSが自動的に帰還モードへ切り替わる」
「ずいぶんと余裕を持たせたな」
「最終的な帰還の判断は、クリス、お前に委ねてある。小さな異常であっても帰還の判断をしろ。船のDLESSは、お前の判断を最優先するようにしてある」
マテリアル・プリンターも、ケイ素古細菌により実用化された技術だ。
高温高圧で活性化するケイ素古細菌をナノマシンの様にコントロールし、核融合炉ベントや人工酵素と掛け合わせ、望むマテリアルを生成する。
木星プラットフォーム・ゲートウェイが地球を遠く離れた木星静止軌道上で、何十年も機能を維持できているのはこの設備のおかげだ。
そんなプラットフォーム用の設備を、核融合炉と併せて積み込んだ亜光速宇宙船の全長は百五十メートルにも及び、研究用の宇宙ステーションとしても機能する。
「最悪、向こうで一生研究することも出来るな」
「出発前に不吉なことを言うな。管制制御室のみんなもピリピリしているんだ」
「ワタシも手が震えていると言ったら、信じるか?」
「ライフモニターから、脈がいつもより早いのは見て取れるよ。興奮しているな」
「武者震い、ということにしておこうか」
「それがいい」
文字通り、人類の科学技術をいくつも書き換えた『カハルルィーク博士の帰還船』
その再検証実験にしては、管制制御室の人員は控えめで、報道機関関係者も一切入れていない。
元々、地球側へは成果報告のみでも、これまで問題なかった。
宇宙開発事業が月探査財団に集約した結果、人類の辺境たる木星までやってくるのは、報道関係ですら月プラットフォーム・ゲートウェイでもコアな層だ。
そして、その報道関係すらも締め出したのもクリスの意向だった。
無人探査機の帰還が成功しないことから、カハルルィーク博士の帰還船は奇跡の産物であり、木星バイパスから帰還は困難という見解は今も根強い。
その見解の否定こそがクリスの動機の一部なのだが、とはいえ、検証実験を有人で行うなどという行為は、人道倫理的な面からの非難を受けるだろう。
特に深宇宙探査への関心が、遠い僻地の出来事となり果てている現在の地球側へ漏洩すれば、大きな批判に発展する懸念もあった。
そのため、仮に探査に失敗、帰還が絶望的となった場合は、クリスの死は、木星プラットフォーム・ゲートウェイでの事故として処理される算段になっている。
クリスが単独での探査にこだわったのもその為だ。
現在の木星プラットフォームに滞在しているのは、平常時よりもかなり少ない二百人ほど。そのほとんどをエンシスハイム家とファーミントン家、及び関連企業の主要関係者に絞り、今期の月プラットフォームへの復員を増やす調整まで行った。
レイフの前では絶対に失敗はないと自信を滲ませていたが、他方、木星プラットフォーム・ゲートウェイを、ファーミントン家と共同で管理に努めてきたエンシスハイム本家としての務めも果たしていた。
ファーミントン家のことは人に任せ、悠々自適にDLESSを弄っていた自分とは天地の差だなと、レイフは思う。
だがこの二年。クリスを無事帰還させたいという思いから、設計開発のため、木星プラットフォーム・ゲートウェイに長期滞在し、ファーミントン家の雑事もこなしてきた。
出来ることはすべてやった。
だがそれでもなお、不安は残る。
必要なピースが足りていない感触。
何かが、時期尚早を告げているような感覚。
どんな計画であっても、それらは常に肩に伸し掛かってくるが、今回ばかりはクリスの命が掛っているせいか、それらは重い鎖のようにレイフの心に絡みついていた。
そういう心労を持っていたのは、何もレイフに限った話ではない。
秘匿性の高い計画に加え、成功率の低い有人探査に送り出す宇宙船の開発に関わった者は、何かしら思うところがあったことだろう。
そうして用意された最新の設計と、最新のスペース・アビオニクスを組み込まれた亜光速宇宙船アノトガスターⅢ型サブライト・オービター。
先頭にはコックピットや居住スペースがあるクルーザー・ブロック。そこから核融合炉を格納し、四方対角線上に直結のメイン・スラスターを備えるエンジン・ブロック。
その上部には、アームによって羽根のように折り畳まれ保持された、船体全長と大差のない長大な対惑星間物質(IPM)シールド。
そして後ろに連なるコンテナ・ブロック。
その船体がまるでトンボのように見えることから、アノトガスター(オニヤンマ)型と呼ばれる宇宙船の第三世代。
名はニュー・コロンビア号。
完成した全長百五十メートルの大型宇宙船は、木星計画船ニュー・ディスカバリー号とカハルルィーク博士の帰還船ニュー・アトランティス号の命名規則に習い、そして、クリスの名と共に新しい宇宙の発見者となるよう願いを込めて名付けられた。
「ニュー・コロンビア号、サブライト・マスドライバー・カタパルトユニット接続完了しました」
亜光速宇宙船は本来、月・木星間のような超長距離を何日もかけて亜光速にまで加速する宇宙船だ。
木星プラットフォーム・ゲートウェイから木星大赤班への自由落下では、サブライト加速推進器を使っても、木星バイパスの空間ポテンシャル障壁の突破に必要な、亜光速と呼んでいる光速の約〇・一パーセントの速度を得ることが出来ない。
大きな楕円軌道で木星を周回する方法であれば、加速に必要な距離を稼ぐことも可能だが、今回はサブライト・マスドライバーの運用試験も兼ねられていた。
これも月プラットフォーム・ゲートウェイなどでは、地球を爆撃する兵器として使用可能なため、地球側の要望で木星プラットフォームが開発を引き受けたもので、完成後は各種、無人探査機の射出に使われていたものだ。
「IPMシールド、アローヘッド・ポジションへ」
船体上部に折りたたみ、アームで保持されていた四枚のIPMシールドが可動し、船体を潰れた四角錐状に覆う。表面を非ニュートン流体と磁性金属特性をもつ、流動金属フロウメタルが覆うと、その光沢から矢じりの様に見えるのがアローヘッド・ポジション。
トンボ型の宇宙船が、矢の形になって、超電磁加速の石弓にセットされる。
「サブライト・マスドライバーで打ち出されるのは、お前が人類初になるなクリス」
「ああ、そういえばそうなるか……ではワタシの獲得トロフィー一つ目は、それで決まりだな」
そう軽口が帰ってきて、わずかに管制制御室の空気が軽くなる。
そして、和やかな笑い声は、波が引くように収まっていった。
「時間ですエンシスハイム博士」
管制官が緊張気味に告げる。
「了解。DLESSアルバート、最終チェック」
〈各部、最終チェック・オールクリア。ユー・ハブ・コントロール〉
ニュー・コロンビア号のDLESSが音声で答える。
同時にクリス自身も、計器の最終確認を行う。
DLESSを信用するな。
それが、作った当の本人であるレイフがクリスに送った言葉だった。
機械だから完璧だ、というのは幻覚だ。
構成単位で見てみれば、有機生命体の品質が分子物理学で保障されている分、精度は上であり、それに、仮にDLESSが能力的に人間を上回っていたとしても、個体差のある人とDLESSのダブルチェックに勝るものはない。
その点で考えても、やはりDLESSがサポートするとはいえ、単独での有人探査はリスクが大きすぎたと感じる。
せめて、自分も同乗出来れば。
しかし事実上、管理者たるツートップが同時に居なくなれば、木星プラットフォーム・ゲートウェイは間違いなく混乱し、仮に月探査財団が滞りなく引き継いだとしても、現在とは別の理念に変質していくだろう。
そのためレイフの同乗は、クリスはもちろんの事、木星プラットフォームの関係各所からも真っ先に否定された。
レイフの祖父デイヴィッド・ファーミントンは、DLESSもない旧式のコンピュータで稼働するカハルルィーク博士の探査船を、どういう気持ちで送り出したのだろう。
「進路クリア、カウントダウン……十三……十二……十一……」
「カタパルト・ロック解除、トラクタービーム・マット反転、正常加圧中」
「……七……六……」
「サブライト・マスドライバー、射出シーケンス開始」
「二……一……射出」
レイフの心が定まらぬうちに、ニュー・コロンビア号はサブライト・マスドライバーから、木星大赤班へ向けて、射ち出された。
射出後、補助ブースターが切り離されると、大きな矢じりのようなニュー・コロンビア号の船体が良く見える。
亜光速航行ともなれば、進行方向に存在する微細分子であっても、衝突エネルギーは膨大なものになる。それを防ぐためのIPMシールド・アローヘッドだ。
そして、その本来の用途に加え、今回は木星バイパス・超空間ゲートを突破する際に存在する空間ポテンシャル障壁を通過する際の緩衝材としても機能するため、既存の月・木星間船のものとは違い、大型かつ堅牢に設計されている。
推進器の推力、加速、IPMシールド、すべて予定通りの数値を示している。
「よし……」
レイフは少し安堵した。
ニュー・コロンビア号のマーカーが、ゆっくりと木星に近づいていく。
随分と遅く感じるが、これでもマッハにして九百近くの速度が出ている。
六十六万キロメートルで公転する木星プラットフォームから、木星半径の約七万キロメートルを差し引き、木星大気層まで六十万キロメートル弱。
それは光速の〇・一パーセント、秒速三百キロメートルであっても、三十分以上かかる距離なのだ。
「クリス」
時間が引き延ばされているように感じて、レイフはクリスに声を掛けた。
「順調だ。速度も申し分ない。ここまでのフェーズで問題は見られない。数値はすべて理論値に近いぞレイフ。本当にワタシは何もしないでも良いぐらいだ」
クリス本人のみならず、管制室の人間も息を飲む三十分が過ぎる。
「間もなく木星大気層に突入します」
管制官が告げた。
皆が一斉にモニターに目を向ける。
「ニュー・コロンビア号、大赤班へ突入」
船体への負荷をしめすパラメータが一気に上昇する。
木星の中は風速六百キロメートルを超える嵐。嵐のむこうは、超臨界流体となった水素の海だ。その先に金属水素のマントルがある。
それらを大赤班の巨大なエネルギーが、中心核まで貫いている。その中を通過ために、光速の約〇・一パーセントにも及ぶ速度が必要なのだ。
そして、その極限環境に耐える船体と、大気を切り裂くシールドも。
それらは無人探査機による検証から得られた予測通りに推移している。
船体の損傷も見られない。問題ない。
「レイフ」
「なんだ?」
「また会おう」
それがクリスの最後の言葉となった。
木星大気層へ突入四分後に、ニュー・コロンビア号の木星バイパス通過は確認され、そして、量子通信は途絶した。
有人探査計画の第一段階は成功した。だが、クリスも、ニュー・コロンビア号も、木星プラットフォーム・ゲートウェイへと帰還することはなかった。
そして、八年の月日が流れた。
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