第15話

 ——夏休みが近づいていた。


 医学部の夏は、他学部と比べれば軽くはない。

 試験の疲れを引きずったまま補講が入り、課題のレポートを仕上げなければならない学生もいる。

 サークルで旅行に行く者もいるが、教科書を抱えたまま図書館に籠る者の方が多い。


 颯真はどうするか。

 

 夏休みに入ると、颯真は門前仲町の自宅で静かな時間を過ごしていた。

 専門書を開き、論文を読み込み、車や時計に触れる時間も欠かさなかった。

 だが残る課題があった。


 ——手先の不安定さ。


 体力不足から来る微かな震え。長時間の細かい作業を続けると、指先が思うように動かなくなる。

 魔法に助けられた修復ではごまかせても、人の手で扱う技術はまだ足りない。


(なら、プロのもとで学んでみるか)


 そう考え、颯真は近所の小さな時計屋を訪ねた。

 古いガラスケースの中には、時代を超えて息づく時計が並んでいる。

 カウンターの奥から現れたのは、白髪交じりの店主だった。


「いらっしゃい。……修理かね?」


 颯真は軽く一礼し、落ち着いた声で切り出した。

「いえ。もし可能でしたら、こちらでアルバイトとして学ばせていただけないかと」


 店主の眉がわずかに動く。

「学ぶ……学生さんか?」


「はい。医学部で学んでいます。ただ、体力的に持久力が乏しく、手先の安定を日常的に訓練したいのです。自分の時計で練習はしてきましたが、やはりプロの指導が必要だと感じまして」


 店主はじっと彼を見つめた。

 その視線がふと、颯真の左手に止まった。


「……その時計、ちょっと見せてもらえるか」


 颯真は腕から外し、グランドセイコーを差し出す。

 店主は両手で丁寧に受け取り、長い間じっと眺めた。

 細かな傷を残しつつも甦った文字盤、正確に刻む秒針。


「ずいぶん綺麗に扱っているな……。この時計は、何か大切なものなのか?」


 問われ、颯真は正直に答えた。

「はい。……これを見つけたとき、亡くなった父が愛用していた時計を思い出しました。同じものではありませんが、強く重なって。だからこそ、大事に使っていきたいと思っています」


 店主は黙ったまま視線を落とし、静かに頷いた。

「なるほどな……そういう気持ちがあれば、時計も応えてくれる」


 そして腕時計を返しながら、小さく笑った。

「……雇ってやりたいところだがな。あいにく、あまり多くは出せんぞ。古い商売だ、儲けも細い」


 颯真は首を横に振り、穏やかに答えた。

「それでしたら——アルバイトという形にはこだわりません。むしろ、弟子として学ばせていただければと思っています。バイトというのは、ただの方便でしたから」


 店主の目に驚きが宿る。だが次の瞬間、深く頷いた。

「……弟子、ね。いいだろう。なら、お互い長くやっていこうじゃないか」


 そう言って差し出された手を、颯真は静かに握り返した。

 言葉少ななやり取りの中に、確かな信頼の芽が生まれたのを感じた。




 時計屋に通う日々が続いた。

 カウンター越しの会話や細工を一緒に眺める時間の中で、颯真は両親を亡くして以来かもしれない、人との触れ合いの温かさを感じていた。


 そんなある日、閉店間際に店主が苦笑した。

「……実はな、長年の持病で腰が痛くてな。医学部の学生だろう? ちょっと見てもらえんか」


 颯真は眉をひそめた。

「いえ、私はまだ学生です。正式な診断はできません」


「まあまあ、触ってみるくらい悪いことはあるまい。……師匠の命令だ」


 颯真は目を細め、わずかに笑った。

「……承知しました。師匠の命令とあらば」


 店主が立ち上がり、背を向ける。

 颯真は問診を始めた。

「痛みはいつ頃からですか?」

「もう何十年も前からだ。若いころ無理に重いものを持ってな」

「立ち上がるときや、長く座っているときに痛みますか?」

「ああ、そうだ」


 頷いた颯真は「触診します」と声をかけ、腰に手を当てた。

 筋肉の硬さ、圧迫したときの反応、骨盤の動き。

 触れた感触を冷静に整理していく。


(……この痛みの出方、姿勢で変わる症状……恐らく椎間板ヘルニアの初期段階。重度ではないはずだ)


 知識から導き出した仮説を胸に、意識を集中する。


 ——鑑定、発動。


【鑑定結果】

対象:人間(男性・70代)

症状:腰椎椎間板ヘルニア(軽度)/筋肉の慢性的緊張

推奨:整形外科受診・保存療法


 流れ込む情報は、自分の判断と一致していた。


 颯真は表情を崩さず、触診を続けるふりをしながら言った。

「……筋肉が硬くなっています。骨の間も狭まっているようです。整形外科で検査を受ければ、リハビリで十分抑えられると思います」


 店主は深く頷き、少し照れくさそうに笑った。

「なるほどな……弟子に診てもらう日が来るとはな」


 颯真は頭を下げ、静かに応じた。

「ありがとうございます。……師匠の命令でしたから」


 二人の間に、小さな笑いと温かさが流れた。

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