10話 橋脚の下、影の群れ
欄干の陰に身を滑らせ、鎖梯子を降りる。鉄の匂いが掌に移り、川風が頬を斜めに撫でた。水面は夕闇を飲み込みはじめ、アーチの影は濃く、冷たい。橋脚の基部に設けられた石の踊り場は人二人が並べるほどの幅で、中央に円い窪み――封印窩が口を開けている。縁には祈りの文様が刻まれ、半月形の欠けが二つ、向かい合っていた。
「まずは鍵穴の確認を」エリナが膝をつき、祈りの節を短く刻む。光が薄皮のように広がり、石面の罅まで浮かび上がった。
カイは分院で受け取った金属片――針歯を取り出し、欠けのひとつに合わせる。ぴたりと噛む。だが残る片側は空のまま。
「やっぱり、もう一片が必要か」ガイルが欄干越しに川を見張りながら言う。
「半分の鍵ってのは、いつだって“あとで”苦労する」ミルトがため息をつく。
ヴァルドが踊り場の縁でしゃがみ、川に張り出す梁の裏へ目を凝らす。
「……あれだ」
水に磨かれた石板の欠片が、梁の下に黒く嵌っている。半月形の割れ跡。角度が悪く、手は届かない。
「索を貸して」リサンドラがさっと立つ。鉤縄を梁へ投げ、鎖に片足をかけて体重を預けた。
「押さえて」
ガイルが鎖を引き、ヴァルドが腰に予備の索を巻く。彼女は一呼吸で梁の下へ身を滑り込ませ、指先で石板の縁を探った。
「動く……でも固い。もう少し――」
川面が低く鳴り、黒い影が踊り場の縁にじり上がる。鰻のように長い体、目はなく、口だけが縦に割れている。そこから垂れた黒い水が石を白く痩せさせた。
「来るぞ」ガイルが盾を前に出す。金属の縁が低く唸り、影の頭をはね上げる。ヴァルドの刃が背を掠め、黒が裂けた。
「数が増える前に片づける」ヴァルドが薄く笑い、踊り場の外縁を滑る。二体目の喉を逆手で縫い留め、返す手で三体目の顎を閉じさせた。
「合図玉!」ミルトが指で弾く。布に包んだ音玉が踊り場で転がり、小さく白い閃光と鈍い衝撃が広がった。水の内臓を叩くような低音。影が一瞬、身を縮める。
「今!」ガイルの肩に力が走り、盾と体当たりで一体を川へ押し戻した。
梁の下で、リサンドラが歯を食いしばる。
「……抜ける!」
石板がわずかに浮いた瞬間、別の影が梁の影から跳ねた。黒い口が彼女の肩を狙って開く。
「左!」カイの声と体が同時に動いた。
霧の流れが生む薄い筋――瘴の薄さが線になって視界に現れる。そこへ半歩ずらして刃を差し入れ、影の軌道を撫でるように裂いた。黒がはじけ、飛沫が外へ散る。リサンドラの肩を狙った牙は踊り場の外の空を噛んだ。
「助かった」リサンドラは石板を引き抜き、身を返す。
「借りは“あとで”たっぷり返すから」
「その“あとで”は先払いで頼む」ミルトがへらりと笑う。
石板を受け取ったエリナが、二片の針歯を封印窩へ合わせた。欠けと欠けがぴたりと重なり、微かな音とともに窪みの中央が沈む。光の輪がふくらみ、石の奥から冷たい風が吹き返した。
「開いた。座が出る」
窪みの底に、器のような窪が現れた。瘴核を収める“座”。だが、まだ空だ。
その時、橋の裏を伝って低い拍が近づいた。踊り場の影が薄く震え、欄干の向こう――石の合わせ目の奥から、黒い泡が生まれては弾ける気配。
「……芽だ」エリナが目を細める。
「核の“芽”が、橋の腹で形になりかけてる」
「今夜のうちに芽吹くなら、今やるしかない」ガイルが短く言う。
橋腹の隙間は狭い。ヴァルドが袖から細身の刃を抜いた。
「“縫い止め”を貸せ。石目を傷めずに道を開く」
ミルトは灯りを黒布で包み、最低限の光だけを漏らした。
「音も光も最小で。魚が寄る」
「索の支点は私が見る」リサンドラが踊り場の杭を検め、結び目を二重にした。
「エリナは座を維持して」ガイルが配置を整える。
「ミアは――」
「カイの肘を支える」ミアが言い切る。指先の温度は高くないのに、確かだ。
ロープで体を支え、橋の裏へ身を滑らせる。石と石の合わせ目に、冷たい拍が吹きつけていた。ヴァルドが“縫い止め”で細い溝を切り、ミルトが黒布を押し込んで光を殺す。狭い空隙の奥に、黒曜石の欠片のようなものが脈打っているのが見えた。まだ球ではない。トロリとした塊が、拍に合わせて形を変えては戻る。
カイは瓶の蓋を半ば緩め、息を整えた。胸の鼓動が、黒の拍と合いそうで合わない。半拍ずれるたびに、遠い鐘が耳の裏で鳴る。
「……今、祈りを一度だけ深くする。拍が一拍、遅れる」エリナの声が糸のように届く。
薄い光が空隙へ滑り込む。黒の縁に小さな“間”が生まれる。
ミアの指が肘を支え、ガイルの掌が足首に重みをかける。リサンドラの合図紐が指に絡み、上の風の変化を伝えた。ヴァルドは刃先を奥へ向け、寄る影を静かに牽制する。ミルトは息を殺し、音玉に触れたまま固まっている。
その一拍で、カイは瓶口を滑らせた。黒は抵抗した。形のないものが形ある器を嫌って暴れる。だが生まれ切っていない“芽”は、まだ重心を持たない。瓶の縁が表面張力を破り、ひとかたまりが吸い込まれる。冷たい音もしない吸い込み。指先に震えが返る。
「――入った」
蓋を閉める一瞬、胸の奥の拍が核の拍に重なりかけた。赤い空と黒い雨、誰かの笑いが揺らいで、すぐ遠のく。ミアの指が少し強くなった。現実へ戻る力に、乱れが落ち着く。
踊り場に戻ると、エリナの祈りはもう一段下へ落ち、封印の座に薄い光の膜が張り直された。川風が一度だけ強く吹き、霧の匂いが後ろへ退く。欄干の上では、リサンドラが索を巻き取りながら短く笛を鳴らした――上は異常なし、の合図。
「ひとまず、今夜は持つでしょう」エリナが息を吐いた。
「座は私の札で暫時閉じられます。明日の朝、分院に引き継げば本封印ができるはずです。」
「影の群れは引いた。今のうちに上がるぞ」ガイルが周囲を見回し、撤収の合図を出す。
ヴァルドは最後に踊り場の外縁へ視線を滑らせ、黒の泡がもう生まれていないことを確かめた。ミルトは音玉を回収し、火薬の湿りを点検する。
「“あとで”湿気取りを買おう。高くても泣かない」
「高かったら泣けばいい。泣くのはただだ」ヴァルドが肩を竦め、リサンドラが吹き出す。
鎖梯子を上がると、橋上の空気はわずかに軽かった。行き交う人影はまだ少なく、露店の火は低いが、誰かが足を止めて川面を覗いた。風が変わったのを、街じゅうの皮膚が覚えている。
分院へ戻ると、修道司は瓶を受け取って胸に抱え、深く頭を下げた。
「――街が、今夜を越せます」
彼の声には、眠りを待つ者の震えと、小さな光があった。
短い報告と札の受け渡しを済ませ、外へ出る。城壁の上に、白い糸のような線が一筋だけ走り、すぐに消えた。世界の皮膚はまだ綻んでいる。だが今は、縫い目の口をひとつ押さえた。
「明日の朝、書庫で次の黒点を確かめましょう」エリナが言う。
「井戸か、神殿跡か」ガイルが顎に手を当てる。
「川沿いの税務院の地下も気になる」ミルトが帳面に丸をつける。
「どこへでも行く。今は眠れ」リサンドラが欠伸を噛み、索を肩に回した。
ミアはカイの袖をつまむ。「……大丈夫?」
「大丈夫だ」カイは胸の奥に耳を澄ます。小瓶の拍と自分の心臓は、もう合っていない。少しずれている。その“ずれ”が、今夜の重力だった。
石都の夜は青く冷え、橋の腹の唸りは薄く遠のいていた。
明け方、風向きが変わる。
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