11話 街が息を吹き返す

 夜が明ける前、橋の腹の唸りはほとんど消えていた。川面は薄い靄だけを載せ、東の空は卵の白身みたいな色でほどけていく。宿の窓から外を見下ろすと、早起きの水売りが桶を担いで橋を渡り、パン焼きの煙が低く伸びた。アシェルはまだ冷えているが、息をしている。昨日まで胸の上に置かれていた重い布が、一枚だけ剥がれたような――そんな軽さが街全体に宿っていた。


 階下では、ミルトが安物の帳簿に◎をつけている。

「橋の封印、ひとまず成功。――“あとで”、相場が戻る」

「戻るまでは早歩きだろうな」ヴァルドがパンの端を噛み、笑う。

「人の心は帳尻より先に走る」

 ガイルは黙って剣の縁を指でなぞり、リサンドラは椅子の背にもたれて欠伸をひとつ。

「潮の匂いが薄い内陸も悪くないね。縄の結び目がきゅっと乾く」


 ミアはカイの袖を軽くつまみ、「眠れた?」と目だけで問う。

「少し」カイは答え、粗布に包んだ小瓶に触れた。昨夜掬い込んだ“芽”は瓶の中で安定している。拍は弱く、彼の心臓とは合っていない。ずれている――その事実が、今朝の重力だった。


 分院の鐘が朝を告げる。彼らは礼拝の列を横切らず、記録庫へ向かった。修道司は待っていたかのように立ち上がり、深く頭を下げる。

「おかげで、夜の巡回が無事に終えられました。……ありがとう」


 机上には昨夜の報告がすでにまとめられ、封印の座の素描と拍の測定が記されていた。エリナが紙片を手にとる。

「座の拍、沈静……ただし、周辺の細い“針目”が増加…」

「増加?」ミルトが眉を上げる。

「封じで大きな口は閉じました。…けれど、溢れようとする圧が細い縫い目へ回り込んでいるようです。……芽吹きの周期が、港より速い…」エリナの声は低い。

「この街は“結び目”が多い。道と橋と水が重なり合う場所は、綴じが甘い」


「封印は、同時に“繕い”でもあるってことだな」ヴァルドが指で空中へ一本の線を描く。

「縫い目を締めれば、別のところがよじれる」

「それでも締める。他に術はない」ガイルの言葉は石のように短い。


 修道司が机の引き出しから封の付いた小箱を出した。

「封印札です。橋の座はこれで当面保てます。……ただ、街の“内側”にも黒点がいくつか。井戸、古神殿の礎石、税務院の地下倉。どれも“水と石”が交わる場所です」

 羊皮紙の地図に、墨の黒点が三つ並ぶ。川筋に沿った古井戸、丘の神殿跡、その陰に隠れる税務院の地下。細い針目が三者を縫うようにつながっている。


「順路は?」カイが問う。

「井戸から神殿跡を経て、税務院へ」エリナが即答する。

「水脈の流れに沿えば、拍の増幅を逆から抑えられる。……それに、井戸は市壁に近い。最悪、外へ逃がすための“余白”がある」


 修道司がためらいがちに付け加える。「税務院には、強硬な役人がいます。街の混乱を“管理”しようとして……封鎖を理由に、市井の井戸まで縄をかけた。人々は水を買うしかなく、昨夜の騒ぎで列は長くなり、喧嘩も」

 ミルトが舌打ちしかけて飲み込む。「水を売る方が楽だが、街は干上がる」


 出立前に、エリナは修道司に小瓶を二本預けた。海から、そして橋から掬った瘴の核。封印棚に並ぶと、黒はただの丸い影に見える。

「扱いは慎重に。膜が薄くなれば、“音”が出ます」

「音?」

「鼓動に似た、いびつな拍です。人の胸と呼応する――」そこでエリナは言葉を濁し、カイと目が合って、ごく僅かに首を振った。

「……大丈夫。今は、静か」



 井戸は城壁に寄った古い区画にあった。石積みの縁は磨耗し、外側に“これより汲むべからず”の札が打ち付けられている。縄は乱暴に結ばれ、桶が三つ倒れていた。通りの向こうで、女が肩を怒らせて役人と言い合っている。


「汲ませてよ! 子どもが熱で――」

「命令だ。今日の配水は正午から。文句は上へ言え」

 ガイルが一歩出かけた肩を、ヴァルドが軽く掴む。

「喧嘩は“あとで”。今は底を見る」


 縁に寄ると、井戸の口から冷たい空気が上がってきた。鉄の粉を舌に乗せたような味。ミアが袖を握る。

「……橋と同じ匂い」

 リサンドラが腰の縄を確認し、鉤を縁にかける。

「降りるのは二人。狭い」

「俺とカイ」ガイルが即答する。

「下で支える腕がいる」

「祈りは上から通す。拍の波を読める位置が必要」エリナは縁の外に祭布を敷き、低く節を刻み始めた。

「光は?」ミルトが訊く。

「最低限。黒布で覆って漏らさない」ヴァルドが準備を手際よく整える。


 縄を伝い、井戸の内壁に足を突っ張りながら降りる。石が湿って指に冷たい。数歩ごとに、カイの胸が井戸の拍に触れて半拍ずれる。底近く、石の継ぎ目の一つが薄く白く光っている。針目だ。水ではなく、冷たい空気の筋がそこから吹き、壁の苔を乾かしている。


「ここだ」カイが囁く。

 ガイルが膝を曲げ、肩でカイの足を支えた。片側へ体を流し、空気の筋に小瓶の口を合わせる。上からエリナの祈りが降ってきて、呼吸の拍を一拍だけ遅らせる。――間。瓶口が流れの“目”を掬い、黒い露がひとしずく落ちた。生まれかけの芽。海や橋のような暴れはない。だが、回数が多ければ、同じ重さになる。


「一つ」カイが蓋を閉める。

「上へ」ガイルが縄を引き、二人は交互に足場を変えて上がった。

 縁に乗り上げると、通りの揉め声は収まっていた。ミルトがいつの間にか役人に薄い紙を渡し、「“あとで”正式な許可を取ったことにする」という口上で列を動かしていた。ヴァルドが背後で、背伸びのきく位置に彼を置き、リサンドラが遠巻きの野次を冗談で和らげる。小さな綻びには、小さな縫い針が効く。


「次、神殿跡」エリナが地図を指す。丘の斜面に石段が走り、崩れた柱が並ぶ。

 途中、ミアが囁く。

「……あなたの呼吸、さっき、井戸でまた重なりかけた」

「分かるのか」

「ずれるたび、あなたの指が少し暖かくなるから」彼女は微笑み、袖をつまんだ。



 神殿跡は街を見下ろす高みだった。礎石が露わになり、草の間に古い碑文の破片が埋もれている。風は乾いて、橋下の寒気とは違う匂いを運んでいた。

「ここは“乾いた縫い目”のようです」エリナが告げる。

「水ではなく、言葉と誓いで綴じられた場所。……誓いがほつれると、瘴はそこからも滲む」


 礎石のひとつに、白い細筋が走っていた。祈りの刻印の途切れ目で、削り跡は新しい。誰かが近頃、ここを穿ったのだろう。

「誰が?」リサンドラが眉を寄せる。

「“誰か”というより、何かが”」ヴァルドが指先で埃を払う。

「役人が封鎖を強めるほど、人は近道を探す。祈りの石を外して抜け道を……って筋書きは、街にいくらでもある」


 唇を引き結んだエリナが、祈りの節を深くする。薄い光が筋に沿って吸い込まれ、遠くで橋の座が応えて震えた。街じゅうの縫い目が互いに糸電話のようにつながっているのが、胸で分かる。

 カイは瓶をそっと傾け、礎石の“目”に合わせる。ここでも、黒い露は小さな粒で落ちた。二つ、三つ。

「小さいけれど、数が多い……」エリナが息を吐く。

「……やっぱり、芽吹きが早い」


 ふいに、丘の下手から短い笛の音が聞こえた。合図――昨夜、リサンドラが用いた軽い警告の音色。カイたちは身を伏せ、石の陰へ滑る。石段の下から、税務院の印をつけた外套の男たちが現れた。手には封鎖札、腰には短剣。

「神殿跡の“管理”だと?」ヴァルドの口の端が上がる。

「喧嘩は“あとで”」ミルトが袖を引く。


 男たちは礎石の列を点検し、ひときわ大きな石の隙間に札を打ち付けた。封じるための札ではない。通行を禁じる、役所の札だ。

「道が塞がれる」リサンドラが低く言う。

「塞げば別の縫い目が裂ける。今は関わるな」ガイルが判断し、彼らは石の影を伝って丘を下った。



 日が傾く頃、分院に戻る。小瓶は一本増え、祈り札は二枚減っていた。修道司は報告を聞きながら頷き、地図の黒点の輪郭を薄く塗り直す。

「井戸と神殿……拍が下がっています。橋の座も安定。――ただ、税務院地下は、夜に動くでしょう」


「理由?」

「書類も金庫も、冷たい。夜の方が“音”が伝わりやすい。……それに、あそこは昔、罪人の地下道につながっていた。塞いだはずの壁の裏がどうなっているか、誰も確かめていない」


 エリナが地図を閉じる。

「今夜は休みを短く取って、日付が変わってから行く」

「また夜か」リサンドラが肩を鳴らし、笑った。

「夜の方が静かで好きだよ。見張りの足音も、よく聞こえる」


 別れ際、修道司が躊躇いがちに尋ねた。

「……あなた方は、どうしてここまで“拍”を読めるのです? 教会の封印師でも、こんなにうまく合わせられない」

 エリナは言葉を探し、視線が一瞬だけカイに触れた。

「――縫い目の研究と、現地での経験が合わさっているのです」

 修道司はそれ以上問わなかった。問いの先に何があるかを、彼自身も勘づいているのかもしれない。


 分院を出て、石畳に影が伸びる。ミアが歩調を合わせ、袖を指でつまんだ。

「ねえ」

「ん?」

「あなたの呼吸、今は合ってない」

「……ああ」

「なら、大丈夫」彼女は微笑む。

「合いそうになったら、また袖を引くから」


 街は息をする。露店の明かりが一つ、また一つ灯り、橋の上を渡る足音は、昨夜よりゆっくりだ。帳尻を合わせるように戻っていく速度は、生活の速度だ。彼らは短い夕餉を取り、各々の道具を点検し、仮眠を割り振った。夜半過ぎ、税務院の地下へ――縫い目の次の口を、縫い止めに行く。


 その頃、書庫の屋上。仮面の男は膝に板を置き、細い筆で線を引いていた。オルディス。

 港、橋、井戸、神殿――観測の線は前の巡りと僅かに違う角度で重なり合い、差異は増えている。“英雄枠”と“幼馴染”の入れ替わりが、拍の遷移に微妙な影を落とす。彼は筆を置き、東の白みを見た。介入の時はまだ来ていない。けれど、次の“口”は深い。

(底に眠るのは、記憶か、罪か)

 仮面の裏の目が細くなる。風が地図の端をめくり、街の呼吸がそこに一瞬だけ写った。


 夜が落ちる。石都の針目は静かに光り、足音の上に、遠い拍が薄く重なった。

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