9話 石都の影、眠らぬ記録庫

 川沿いの街道を三日ほど進んだのち、一行の視界に白い石の街が現れた。谷底に広がる古都――アシェル。塔と橋が重なり合い、河川をまたぐ幾重ものアーチが都市を縫うように張り巡らされている。橋のアーチは縫い針のように細く高く、どの橋にも古い祈りの文様が彫られている。かつて繁栄を誇った学問と交易の都。その名残を残す荘厳さは、遠目にはまだ健在だった。


 しかし、門をくぐった途端に空気の色は変わった。市場の露店では干物が異様な速さで傷み、果物の皮に黒い斑点が浮かんでいる。路地裏の石畳には白い線が走り、縫い目のように見える筋が闇の奥で光を吸っていた。人々は口を噤み、すれ違いざまに視線を逸らす。街は生きているはずなのに、息を詰めているようだった。


「……空気が淀んでる」ミアが小声で言う。袖をつまむ指が冷たい。

「瘴気だな」ガイルが短く答え、盾の縁を指で撫でた。

「この匂い、港の腐魚よりたちが悪いね」ヴァルドが鼻をしかめる。

「ええ。鼓動が街に染み込んでる……」エリナは低く祈りの節を紡ぎ、周囲に薄い光を落とした。


「まずは分院だ」ガイルが短く言う。

「祈りと記録をたどる」


 分院は丘の中腹にあった。石造りの高い門に教会の紋章――盾と巻物の印が掲げられている。扉を守る修道司は目の下に深い隈を宿し、疲れ切った顔で彼らを迎えた。エリナが聖印を示すと、彼はほっとしたように肩を落とし、静かに言った。


「……あなたがたが来るのを、待っていました」


 分院の奥には記録庫がある。厚い扉を開けると、紙と革の匂いが一行を包んだ。棚は天井まで伸び、光は薄い。ほこりの粒が高窓からの光を縫うように漂っていた。修道司は幾つかの巻物と古い羊皮紙を机に広げる。


「縫い目の記録を」エリナが言う。

「河畔の断層と、橋脚下の“拍”について」


 修道司は頷き、幾つかの巻物と帳面を抱えてきた。広げられた羊皮紙には、街の下に走る白い線がびっしりと描かれている。折り返しながら集まり、また散る細線。その結び目のひとつに、墨で丸が付けられていた。

「ここが“縫い石”。瘴気の中心です。夜ごとに河霧が濃くなり、兵がひとり……触れて倒れました」修道司の声は震えていた。


「封じの試みは?」ガイルが問う。


「臨時の封印を幾度か。けれど、持続しません。……そして昨日、橋の下で見張りの兵が一人、霧に触れて倒れました」修道司は言葉を飲み込む。

「助けは呼んだ。だが、それでも」


 カイは地図の丸を見つめた。そこから細い線がいくつも延び、丘の書庫、古い神殿跡、廃井戸、税務院の地下倉――街の要に重なるように流れている。目を落とすと、小瓶の粗布の下で微かな軋み。拍が街の拍と触れ合い、半拍だけずれる。


 目の端で、白いものが揺れた。視線を上げる。高窓の光の縁に、髪の一本ほど細い白い線が走っては消える。世界の皮膚の継ぎ目。ここではそれが、石と水の上にあからさまに出ていた。


「夜になる前に、橋を見よう」ヴァルドが巻物を閉じる。

「日が落ちると、縫い目の声は大きくなる」


 書庫を出る前、修道司が机の引き出しから小さな包みを出した。粗い麻布に包まれた、金属の欠片。鍵の歯のような形だ。

「“針歯”と呼ばれます。封印窩を開く鍵の片割れ。これしか残っていません」


 カイが手に取ると、胸の奥で心臓がずきりと脈打った。同時に小瓶の中から軋みが返る。音はわずかだが、拍が街の脈と重なっていた。

 ――赤い空。黒い雨。誰かの声。

「未来を……生きろ」

 視界が一瞬揺らぎ、知らない戦場が差し込む。思わず机を掴むと、ミアが袖を引いた。

「大丈夫?」

「……ああ」カイは短く答えたが、胸の奥はまだざわめいていた。


「夜になる前に大橋の下を見よう」ガイルが提案する。

「そうだな。瘴の影は夜に強まる。今ならまだ、目が利く」ヴァルドが刃を弄びながら笑う。

ミルトは苦笑を浮かべた。

「“あとで”の損を減らすためにも、早い方がいい」

リサンドラは肩を回し、銛を軽く振った。

「なら、私の縄を貸してやる。橋脚は風が強い。落ちたら魚の餌だぞ」


 午後の光が傾き始めた頃、一行は大橋の袂に立った。白石のアーチは河をまたぎ、蔭には冷たい風が渦を巻く。橋脚の足元には、黒い苔のようなものが付着していた。人々は橋を避けるように渡り、行き交う足音はどこか早い。


「下へ降りられる導線は……あそこだ」ガイルが欄干の影にある鎖梯子を示す。管理用の梯子は錆び、いくつかの段は半ば朽ちている。川面は夕陽を集めて銀に光り、その下で黒い筋が流れに逆らって揺れている――縫い目の拍。


 降りる前に、エリナが小瓶に触れて祈りの節を刻む。光が薄い膜になって、皆の皮膚に沿う。

「これで、最初の一撃は和らげられる。……行こう」

胸の鼓動は、すでに川底の暗い拍と重なりつつあった。

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