第37話 初めて独りになった夜
(……部屋にいづれぇ)
京都に移動しても、良樹はホテルの部屋で一人悶々としていた。クラスメイトらは淡々とテレビを見ている。めちゃくちゃ重苦しい沈黙が室内を支配する。
おそらくみんな今日の事を知っているのだろう。なのに、誰も何も言わないのが逆に息苦しくて仕方がない。
すがるような思いで良樹は渡辺のいる部屋の前に立ち、ノックをした、だが、顔を出したのは違う女の子だった。
(このコ、確か法隆寺で渡辺と一緒の班だったような)
良樹の顔を見たとたん、彼女は表情をスッと曇らせた。
「あ……川島くん」
彼女は、ひどく言いにくそうな、同情するような目で良樹を見た。
「ごめんね。渡辺さん、なんだかちょっと気分が悪くなっちゃったみたいで……もう休むから、今日は帰ってほしい、って」
「え……? いや、でも、俺……」
何か言おうとしても、言葉にならなかった。約束したんだ、と喉まで出かかったが、彼女の悲しそうな瞳を見て、良樹はそれを飲み込んだ。
「本当にごめんね」
そう言って、彼女は静かに自分の部屋のドアを閉めた。良樹は、ただ廊下に立ち尽くすことしかできなかった。
ホテルの乾燥した空気の中、どこか遠くの部屋から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。それが、やけに耳に響いた。
(気分が悪い? ……ウソだ)
すぐにわかった。これは、ただの口実だ。本当の理由は昼間の、あの土産物屋での一件だ。
良樹は思い出す。あの時の渡辺の顔を。
それは驚きと、戸惑いと、そして悲しみがごちゃ混ぜになったような、見たことのない顔だった。おそらく全てを見ていたのだと、あの時すぐに気がついた。
(俺はあいつを怖がらせたんだ。不安にさせたんだ。だから、会いたくないんだ……)
昨日までは、あんなに楽しそうに笑ってくれていたのに。自分のせいで全部台無しにしてしまった。
(俺が、台無しにしちまったんだ……)
鉛のように重い足を引きずって、良樹は自分の部屋に戻った。襖を開けても中の空気は全然変わっていない。誰も「どうしたんだ?」などと聞いてこない。
彼は黙って自分の布団に潜り込んだ。目を閉じると、今日の出来事が嫌というほど鮮明に蘇ってきた。
江藤の、殺意にも似た冷たい目。
市原の、親友に向けるとは思えない、軽蔑したような瞳。
渡辺の、悲しそうな、失望したような顔。
そして、何より脳裏に焼き付いて離れないのは……自分の手を振り払おうとした、志保の怯えた瞳。良樹を、心の底から拒絶していた、あの目だ。
昨日の夜は、布団の中に残る志保の感触のせいで眠れなかった。
でも今夜は違う。自分の犯した過ちの重さが、冷たい石みたいに胸の上に乗っかって、息ができない。
(親友も、カノジョも、そして、一番守らなきゃいけなかったはずの志保も……俺が全部傷つけたのか? 俺が全部壊しちまったのか?)
もう言い訳なんて何も思いつかなかった。ただ、どうしようもない孤独と後悔だけが良樹の心を締め付けていた。
友達が良樹に断りを入れている声が聞こえた。部屋から足音が遠ざかっていく。
(……帰ってくれたんだ……)
渡辺は、布団の中でぎゅっと目を閉じた。
気分が悪いなんて、嘘だった。本当は、ただ怖かったのだ。彼女は今の良樹にどんな顔をして会えばいいのか、全くわからなかった。
昼間の土産物屋での光景が、彼女の目に焼き付いて離れない。
親友の胸ぐらを掴む、見たこともないほど怒りに満ちた良樹のあの顔が。自分と話している時には決して見せない、彼のむき出しの感情が。
(彼を本気で怒らせるのも、本気で焦らせるのも、私じゃないんだな)
あの時、渡辺はそう気づいてしまった。そして、今夜ここに来てほしくないと思ってしまった。
カレシが部屋に来てくれるはずの夜なのに、それなのにちっとも嬉しくない。むしろホッとしているなんて、こんなのもう恋人じゃないだろう。
(川島くんの心には槇原さんしかいない。だったら私はただのお邪魔虫じゃん)
ならば別れた方がいいのか。別れて志保のもとに良樹を返せばいいのか。
(でも、やっぱりそれはイヤだよ……だって好きなんだもん)
昨日までは本当に楽しかった。良樹の隣にいるだけで世界が輝いて見えた。でも……。
(私は川島くんとの物語のヒロインにはなれそうにない。ううん、きっと最初から彼の物語のヒロインは槇原さんだけだったんだ……)
渡辺は良樹とお揃いで買ったキーホルダーを、そっと握りしめた。
(でも、だからって楽しかった思い出までウソにしたくないよ……)
だから、これ以上彼の嫌なところを見たくない。彼を嫌いになってしまいたくない。
(別れたくない。別れたくないよ……私はどうすればいいの? 誰か教えてよ)
布団の中で彼女は、ポツリとそう呟いた。
志保は眠ることができず、そっと布団を抜け出していた。隣で眠る美咲の穏やかな寝息を聞いていると、今日の出来事で頭がいっぱいの自分が、なんだか一人だけ取り残されたような気持ちだった。
(なんだか、今日あった出来事がウソみたい……)
何か、温かいものでも飲んだら眠れるかもしれない。そう思って、志保は廊下の突き当りにある自動販売機へと向かった。
煌々と明かりが灯る休憩スペース、そこには先客がいた。
「……槙原さん?」
そこにいたのは、藤原だった。彼は少し驚いたように目を見開いた後、すぐに心配そうな、優しい表情になった。
「どうしたの、こんな時間に。眠れないの?」
「あ、藤原、くん……うん、ちょっと、目が覚めちゃって」
彼の顔を見た途端、志保は昼間のことをまた思い出してしまった。
あの時何も聞かずに、ただそばにいてくれた人。その優しさを思い出したら、また少し泣きたくなってしまった。
藤原は、そんな彼女の表情から全てを察してくれたようだった。彼はやっぱり何も聞かない。今日の出来事のことも、良樹のことも、一言も口にしなかった。ただ、静かに自動販売機にお金を入れると、ボタンを押した。ガコン、と音を立てて落ちてきたのは、温かいココアの缶。
カシュ、と小さな音を立てて彼がプルタブを開けると、ふわりと甘いココアの香りが漂った。
「はい。甘いものを飲むと、少し気持ちが落ち着くよ」
そう言って、彼はそれを志保の両手にそっと握らせた。じんわりと伝わってくる温かさに、志保の強張っていた指先と、そして心の奥が、少しだけ解けていくような気がした。
「……ありがとう」
「気にしないで。槇原さん……無理に笑わなくていいんだからね」
藤原はそう言って、初めて少しだけ困ったように笑った。
「自分が辛い時に、無理して周りに気を遣う必要はないんだよ。槙原さんは、もっと自分の気持ちを大切にしていいと思うよ」
その言葉で、ずっと胸につかえていた何かがストンと落ちていくような気がした。
――そうか。私は、ずっと我慢していたんだ。よしくんの前でも、薫子さんたちの前でも、美咲ちゃんの前でさえも。
「……うん」
志保は、頷くのが精一杯だった。
二人で並んで、休憩スペースの椅子に座った。何も話さなかったけれど、志保はその沈黙を少しも苦しく感じなかった。ただ、隣に誰かがいてくれる温かさと、手の中のココアの温かさが、凍えていた自分の心をゆっくりと溶かしてくれている。そんな気がした。
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