第38話 地獄の五人掛けテーブル

 昼食の後、一行は藤原が事前に調べておいた、人気の甘味処へと足を運んでいた。この後は京都駅に集合して東京へ戻る予定だった。

「わ、美味しそう! 私はこれにしようかな」

「あ、でも抹茶パフェも美味しそうじゃない? でもこっちもいいなぁ」

 美咲と志保が、メニューを覗き込み声を弾ませる。良樹を除けば、店内は穏やかで和らいだ空気に包まれていた。

 しかしその空気は、店の入り口に現れた一人の影によって、再び凍りついた。

「――あ」

 良樹が思わず声を発した。渡辺だった。彼女も自分の班の友人たちと、偶然同じ店に入ってきたのだ。

 彼らのいる店は京都でも有名な店なので、当然彼ら以外にも多くのグループが訪れる予定を組んでいた。だから渡辺たちがこの店を訪れること自体には何ら不思議なことはないのだが、まさかこのタイミングで? という驚きはあった。

 目が合う良樹と渡辺。だが良樹は昨夜のこともあってどうしていいかわからず、気まずそうに視線を逸らしてしまった。

 その、あまりにも分かりやすい彼の仕草を見て、渡辺の胸には昨日の土産物屋での光景が鮮やかに蘇った。

 親友の胸ぐらを掴む、見たこともない顔。でも彼をそこまでさせるのは、私じゃない。

(……わかってる)

 彼女はわかっているのだ。もう無理なのかもしれないと。

 彼の心の中心には、自分ではない別の誰かが、どうしようもなく居座っている。わかっている。

(……でも)

 それでも、と渡辺は思う。

(やっぱり、別れたくない……)

 初めて心の底から好きになった人。それをこんな形で手放したくない。もっと良樹と同じ時間を過ごしたい。一緒にいたい。彼女は心からそう思っている。

 渡辺は一瞬だけ唇を、ぎゅっと、強く噛み締めた。そして次の瞬間、彼女は完璧なカノジョの笑顔を、その顔に貼り付けていた。

「あ、川島くん! 奇遇だね!」

 渡辺は何くわぬ顔で、良樹のテーブルへと歩み寄った。

「ねえ、そこの席。川島くんの隣り、空いてるよね?  私もこっちで食べちゃダメかな?」

 そのあまりにも無邪気で、しかし有無を言わせぬ割り込みに、美咲の眉はピクリと動き、志保は息を飲み、藤原は静かに目を伏せた。

 良樹は断れなかった。断る権利など、彼にはもうどこにもなかったからだ。

「……お、おう。いいぜ」

 良樹はそう答えるのが、精一杯だった。

 渡辺は、「やったあ!」と子供のようにはしゃぐと、良樹の隣りに素早く腰かけた。

 こうして、修学旅行の最終日の昼下がり。京都の甘味処に地獄の五人掛けテーブルが、静かに完成したのだった。


「昨夜はゴメンね。せっかく部屋まで来てくれたのに」

「いや、それは別にいいんだけど……もう体調の方は大丈夫なのか?」

「うん。一晩寝たら治ったみたい。どうしたんだろうね。疲れてたのかなぁ?」

 渡辺はそう言って悪戯っぽく笑いながら、テーブルの下で良樹の手をそっと握った。 良樹の肩がビクリと跳ねる。

「……でも良かった。川島くんと一緒にいると、やっぱり元気になるね」

 良樹に向けられた甘えるような声。しかし彼女の瞳は、テーブルの向かいに座る志保へと向けられていた。

 志保は、二人が手を握っていることに気づいていた。渡辺の笑顔が自分に向けられた無言の主張であることも、痛いほど理解していた。

「そういえばさ」

 今度は、渡辺が志保に話しかけた。

「槇原さんって、川島くんのことを誰よりもよく知ってるんだよね?」

 それはあまりにも唐突な、しかし断定的な問いかけだった。

 志保が「え……」と戸惑っていると、渡辺はさらに続けた。

「じゃあさ、教えてほしいな。彼が今、一番私にしてほしいことって、なんだと思う? 幼馴染の槇原さんなら、わかるでしょ?」

「ちょっと! 渡辺さん!」

 美咲が思わず声を上げた。なぜ今そんなナイーブ過ぎることを尋ねるのか。

「……あれ? ごめん、私、何か変なこと聞いちゃったかな?」

 渡辺は、心底不思議そうにパチパチと数回まばたきをしてみせた。 そして、困ったように眉を下げて、小さく首を傾げた。

 その瞳は、一切笑っていなかった。



 「わ、美味しそう! 槇原さん、それ、何?」

 渡辺は、完璧な笑顔で志保に話しかけた。

「え、あ、これは……抹茶の、あんみつ……」

「へえ、いいなあ。私もそれにすればよかったかな。川島くんのは何?」

「……俺は、ぜんざい」

「ぜんざい? あはは、川島くん、あんこ好きなんだ。意外と、おじいちゃんみたいだね」

 軽口。じゃれあい。それはどこからどう見ても、仲の良いカップルの微笑ましい会話のはずだった。

 しかしそのテーブルを支配していたのは、刃物のように冷たく、張り詰めた沈黙だった。

 美咲は一口もパフェに手を付けず、ただ腕を組んで目の前の茶番を冷たい目で見つめている。

 藤原は自分のぜんざいの器の中を、まるでそこに深淵でもあるかのように、静かに見つめ続けている。

 そして志保は、渡辺から話しかけられるたびに「う、うん」と小さな声で頷くだけで、その顔は青ざめてさえいた。

(……なんで、こんなことに)

 良樹は、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じていた。

 隣に、カノジョがいる。

 目の前に、幼馴染がいる。

 それは春までの彼が、あるいは夢見ていたかもしれない最高のシチュエーションのはずだった。

 なのに今は……まるで2つの全く異なる極地の氷塊に両脇から挟まれ、体温を、魂を、吸い取られていくような絶対零度の空間にいるかのようだった。

「――あ、そうだ。川島くん」

 渡辺が思い出したように声を上げ、自分のバッグを良樹に見せた。

「見て。昨日お揃いで買ったキーホルダー、早速カバンにつけちゃった。可愛いでしょ?」

 志保の肩が、ピクリと小さく、しかしハッキリと震えた。そしてそのキーホルダーから目を背けるようにして、ギュッと両手を膝の上で握り締めた。

 その小さな小さな反応を、テーブルに座る良樹以外の全員が見逃さなかった。

 美咲の瞳に、静かな怒りの炎が宿る。

 藤原の伏せられた目には、痛切なまでの痛みが走る。

 そして渡辺は、その全てを確認した上で、さらに追い打ちをかけるように言った。

「川島くんも、ちゃんとつけてる?」

 その悪魔のような問いかけに、 良樹は言葉に詰まった。昨日買ったキーホルダーは、まだカバンの奥底にしまい込んだままだ。

「……あ、いや、まだ……」

「そっか。じゃあ、今、つけなよ。ほら、カバン、貸して?」

 有無を言わせぬ、その笑顔。それは、もはやカノジョの甘えなどではない。目の前の最大の恋敵である志保に対して叩きつける「彼は私のものよ」という明確な、そして容赦のない宣言だ。

 良樹は、どうすることもできなかった。ただ金縛りにあったように動けないまま、この静かで美しい地獄のテーブルの上で、これから繰り広げられるであろうさらなる惨劇を予感するしかなかった。

 (どうする……。どうすればいいんだ……!)

 渡辺の期待と、有無を言わせぬ圧力が隣りから。

 志保の声にならない悲痛な気配が目の前から。

 そして、志保の隣りにいる美咲の、氷のように冷たい軽蔑の視線が突き刺さる。

 逃げ場など、どこにもない。永遠のようにも感じられる数秒の沈黙。店の外の喧騒だけが、やけに遠くに聞こえていた。

 渡辺の完璧な笑顔が、ほんの少しだけ歪み始めた、その時だった。

「――ごめん、渡辺さん」

 その、あまりにも静かで穏やかな声に、テーブルの全員がハッと息を飲んだ。

 声の主は、藤原だった。

 彼は、それまでずっと俯いていた顔を、ゆっくりと上げた。

「そのキーホルダー、すごく可愛いね。川島くんらしい、良いチョイスだと思うよ」

 その、あまりにも場違いで、あまりにも大人びた、完璧な賞賛の言葉。渡辺も、美咲も、そして良樹さえも、一瞬藤原が何を言っているのか理解できなかった。

 藤原は続ける。その声は、どこまでも穏やかだった。

「でもそろそろ、京都駅に向かわないと、集合時間に間に合わなくなるんじゃないかな?  先生たち時間に厳しいから、遅れたら怒られちゃうよ。ほら。グループの人たちも待ってるみたいだし」

 カラン、と志保があんみつのスプーンを皿の上に落とした。

 その小さな音が、まるで、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた合図のようだった。

 渡辺の完璧な笑顔が、能面のように崩れ落ちた。

「……そうだね」

 その声には、もう、何の感情も乗っていなかった。

 美咲は、信じられないという顔で藤原を見ていた。

(……こいつ、すごい)

 藤原は、今にも爆発させようとしていたこの地獄のような状況を、たった二言三言で、いともたやすく無力化してしまった。彼女は、藤原にある種の畏怖すら感じていた。

 志保は、ただ呆然と藤原の横顔を見つめていた。

 (……助けて、くれたんだ)

 良樹をでもなく、渡辺をでもなく、そして、自分をでもない。この、どうしようもない空間そのものから、全員を救い出してくれた。

 そのあまりにもスマートで、あまりにも優しい救済に、彼女は言葉を失っていた。

 そして良樹は、助かったと思ったのと同時に、自分が何もできなかったことがひどく情けなかった。

 そして、この状況をいともたやすく全てを解決してしまった藤原という男に対する、どうしようもない敗北感に打ちのめされていた。

「……みんな、行こうか」

 藤原が静かに立ち上がると、それに続くように、誰も何も言わないまま全員が次々に席を立つ。

 地獄の五人掛けテーブルは、こうして、終わりを告げた。

 後に残ったのは、ほとんど手付かずのままの甘味と、そして決して元には戻らない、五人の壊れてしまった関係性だけだった。

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