第36話 宣戦布告

(どうしたの? 何に怒ってるの、川島くん……。私にはそんな顔、一度も見せたことないよね?)

 同じ班のコが土産屋に忘れ物をしたので、渡辺は一緒に店まで取りに戻った。そして良樹が市原の胸ぐらを掴んで、今にも殴りかかりそうになっている場面に出くわしてしまった。

 良樹の顔は渡辺が一度も見たことのない、怒りと、焦燥と、そしてどこか助けを求めるような子供じみた表情をしていた。

(え? なんで? 二人って親友じゃなかったの?)

 彼女の頭の中を無数の疑問符が渦巻いた。目の前で起きている状況を上手く理解できない。

(いったい何があったの?)

 断片的に「カノジョを不安にさせて、槇原さんを悲しませて」という市原の声が聞こえてきた。

(それって私にも関係してるってこと?)

 たしかに土産物屋では良樹が上の空だったから少し悲しかったけれど、だからといって腹を立てたというほどでもない。

 ハラハラしながら見守っていると、店から志保たちが出てきた。おそらく表の騒ぎに気づいたのだろう。それはまさに飛び出してきたという感じだった。

 良樹は市原の胸ぐらを掴んでいた手を乱暴に離したが、その時渡辺は見てしまった。手を離す前に、志保が本当に悲しそうな表情で小さく首を横に振っていたのを。

(……どうして?)

 気づきたくなかった。だが、彼女の心の中で、パズルの最後のピースがカチリと音を立ててハマった気がした。

 良樹を本気で怒らせるのも、本気で焦らせるのも、自分じゃない……ずっと前から、そうだったのではないか?

 二人の間には自分の知らない、長い長い時間の積み重ねがある。もちろんそれは彼女も重々承知していた。

 けれど彼女は、それを超えることは出来るのだと考えていた。

(過去なんて、上書きしちゃえばいいじゃん)

 長い年月の積み重ねを超える現在を築いていけばいいのだと、そう考えていた。

 だが、この喧嘩の原因すらもその歴史の中に根差しているのかもしれない。少なくとも彼女にはそう思えた。

(この二人の間に、私が入り込む余地はあるの?)

 それは、もはや自分がどれだけ努力しても決して手に入れることのできない、上書きすることなど到底できない二人だけの聖域なんじゃないのだろうか?


 ――アンタがいま手にしているものは、志保が何年もかけて大切に大切に育んできたものなんだからね。


 以前美咲に言われたその言葉が、ふと頭に浮かんだ。


 ――アンタがどんなに頑張ったって、川島にとっての本当の特別には絶対になれないよ。


 美咲はそうも言っていた。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。


 ――川島くんといると楽しい。一緒にいる時間は本当に幸せだなって思う。

 

 それは渡辺の偽りない本心だ。けれど、自分は結局あの二人の物語の『登場人物』にはなれても、良樹にとっての『主人公』にはなれないんじゃないのだろうか?

 目の前で繰り広げられた光景。親友の胸ぐらを掴むほど感情的になっている良樹。志保のあの悲しそうな、でもどこか良樹を理解しているような瞳。渡辺は、自分では到底かなわない絆がそこに見えた気がした。

(もし川島くんに泣いたり喚いたりしたら、どうなるんだろう?)

 そんな想いが、ふと頭をよぎった。でもそれはきっと、自分が物語をややこしくする邪魔者になるだけだと、すぐに考え直した。

(それはちょっと……イヤだなぁ……)

 だから、彼女は笑った。精一杯優しく、大好きな良樹のカノジョを演じるために。

「……ごめん。お邪魔だったみたいだね」

 ついそう言ってしまった。本当は言いたいことがたくさんあるのだ。私のことも見てよ、そう本当は言いたかった。

 でも、その言葉は良樹には届かない気がする。いや、そもそも最初から届いていなかったのかもしれない。

 良樹に背を向けて彼女は歩き出した。握りしめたお揃いのキーホルダーが、手のひらに食い込んで痛い。

 班のみんなが、心配そうにこちらを見ていた。

(……ああ、そっか。まだ終わってないんだっけ。修学旅行)

 渡辺は、一度だけ深く深く息を吸った。唇をぎゅっと噛み締め、こみ上げてくる何かを必死に喉の奥に押し戻す。

 そして、今までで一番完璧な笑顔を作って、みんなの元へと駆け寄った。

「ごっめーん!  ねぇねぇ、次どこ行くんだっけ?  私、お腹すいちゃったなー!」

「さっきお昼食べたばっかじゃん」

「そうだけど、なんか食べたいんだもん!」

 けたたましいほどの明るい声。その声が、自分のものではないみたいに遠くに聞こえた。

 手のひらの痛みだけが、これが現実なのだと彼女に教えている。

 握りしめたキーホルダー。これは良樹とお揃いのものだけれど、彼を好きだったという、ただそれだけの思い出の品になってしまうかもしれない。それでも……。

(初めてのカレシとお揃いだもん。手放せないよ、絶対……)


 志保はもう、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。

(どうしよう。よしくんが、私のせいでみんなを傷つけてる……)

 志保は、渡辺の笑顔が忘れられなかった。きっと全部気づいてしまったんだと、直感的に思った。

(私がよしくんの隣にいようとすることが、渡辺さんを悲しませているんだ。どうしよう。どうしたらいいいの……わからないよ)

 美咲が「行こ」と手を引いてくれた。その温かさに縋るように志保はその場を離れた。

 彼女は、もう良樹の顔を見ることができなかった。

 もちろん拒絶したいわけじゃない。でも自分がいると良樹がおかしくなってしまう。自分がいると、みんなが傷つく。自分の想いが、みんなを傷つけていく。

(どうすればよかったんだろう……)

 最初から自分が、ただの家族でいられれば、こんなことにはならなかったのだろうか。良樹のことを好きにならなければ、他の人を傷つけたりしなくて済んだのだろうか。

(どうして私は、よしくんを好きになってしまったんだろう……)

 志保は、もはや自分の恋心すら自ら否定するほど追い込まれていた。

 

 ――ごめんなさい、よしくん。

 

 ――ごめんなさい、渡辺さん。


 ただ心の中で二人に謝り続けることしかできなかった。



 土産物屋からバス停へ向かう良樹の足取りは、鉛のように重かった。江藤は彼を完全に無視し、志保は一度も自分の事を見ようとしない。

 気まずいなんてレベルのものじゃない。良樹の周りだけ、空気がごっそりとえぐり取られたようだった。

 バスに乗り込むと、彼は一番後ろの空いている席に一人で座った。窓の外を流れていく景色を睨みつけても、頭にこびりついて離れないのは、渡辺の悲しそうな笑顔と志保の拒絶の瞳だ。

(俺は、どうすればよかったんだよ……)

 答えなんて出るはずもなかった。どれだけ考えても、自分の行動が全て裏目に出ていることしかわからない。後悔と苛立ちが胸の中で渦を巻いて、吐き気がした。


 ――うるせえ! うるせえ! うるせえ!


 良樹の心の奥の奥で、子供のような自分が泣きながら叫んでいた。


 ――なんで俺ばっかり、こんなに責められなきゃなんねえんだよ!


 ――俺だって、初めて女の子のこと、本気で好きになったんだよ!


 ――カノジョができたらどうすればいいかなんて、誰も教えてくれなかったじゃねえか!

 

 ――だから、わかんねえんだよ! どうすりゃいいのか、どうすりゃよかったのか、なんて!

 

 ――誰か、頼むから誰か教えてくれよ!


 その誰にも届かない声にならない無様な叫びは、後悔と苛立ちが渦を巻く胸の中で、虚しく消えていった。


 不意に、良樹の隣に誰かが座った。藤原だった。

 いつもの人好きのする笑顔は消え、静かで、底の知れないほど真剣な目をしている。

「川島くん、少しだけいいかな」

 断る理由も、権利も良樹にはない。無言で頷くしかなかった。

「キミが槙原さんをどう思っているのか、それは僕が口を出すことじゃないよ。幼馴染だとか、家族みたいだとか、キミにはキミの言い分があるんだろう。それはわかってる」

 淡々とした口調。それは江藤や市原のような熱を持った怒りとは違う、もっと冷たくて、鋭い刃物のような響きがあった。

「でもさ、どんな理由があっても、槇原さんをあんな顔にさせていい理由にはならないよ。川島くんのやっていることは、自分の感情をぶつけているだけだ。彼女の気持ちを無視した、ただの暴力だよ」

「……っ」

 暴力。その言葉が、良樹の胸に突き刺さった。

(そうだ、俺は志保を傷つけたんだ)

 それは暴力だと、そう言われると自分の罪が一段と重くなった気がした。

「はっきり言うよ。僕は槙原さんが好きだ。本気でね」

 その告白は、あまりにも静かで、だからこそ揺るぎない覚悟がこもっているのがわかった。

 良樹の腹の底で渦巻いていた黒い感情が、嫉妬が、藤原のその一言の前ではひどく陳腐で、みっともないものに思えた。

「僕は、彼女に笑っていてほしい。君のように、自分の感情で彼女を振り回して泣かせるようなことは絶対にしない」

 藤原の目は、もう良樹を見ていなかった。その視線の先には、少し前方の席で、窓の外をぼんやりと眺めている志保の後ろ姿がある。

 藤原のその瞳は、ひどく優しく見えた。良樹が、いつの間にか志保に対して向けられなくなっていた優しさだ。

「だから……もう彼女の隣にいるな、とは言わない。それは僕が決めることじゃないからね」

 藤原は一度言葉を切り、そして、今度は宣告するように視線を戻した。

「でも、もしキミがこれからも彼女を傷つけるようなら、僕が全力で彼女を守る。いいかい、川島くん」


 ――君に、槙原さんは任せられない。


 それは、恋敵としての明確な宣戦布告だ。

 江藤にも市原にも言われた。でも、藤原から告げられたその言葉は、決定的に違った。

(コイツは、本気で志保を奪いに来てるんだ……)

 だが、良樹は何も言い返せなかった。

 ふざけるな、と殴りかかることも、お前には関係ない、と吠えることもできなかった。なぜなら、藤原の言っていることが、全て事実だからだ。

 自分は志保を傷つけ、悲しませた。そして藤原は志保を守ると言っている。どちらが志保の隣に立つべきかなんて、考えるまでもない。

「まず僕は、彼女の話をちゃんと聞くことから始めるよ。きっとキミは、今までそんなこと一度もしてこなかっただろう?」

 藤原はそれだけ言うと、静かに良樹のそばを離れて志保と美咲のところへと戻っていった。バスのエンジン音だけが、やけに大きく聞こえる。

 良樹は初めて心の底から理解したのかもしれない。このままでは、本当に志保は自分の知らないどこかへ行ってしまう。自分の手の届かない、藤原のようなやつの隣で、笑うようになってしまうんだと。

 その想像が、どうしようもない恐怖となって、彼の心臓を冷たく握りつぶした。

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