第35話 お邪魔だったみたいだね
法隆寺を見終わった良樹たちは、参道に立ち並ぶ土産物屋へと足を運んだ。法隆寺は定番の観光地だけに人が多い。当然彼ら以外の班もたくさん見に来ているし、他の学校の修学旅行生たちもいるし、もちろん一般の観光客も大勢いる。
色とりどりのキーホルダー、木刀、そして仏像のミニチュア。修学旅行の熱気に浮かされた生徒たちの、楽しげな声が店内に響き渡っている。
「あ、川島くんだ。ヤッホー」
そこには楽し気な表情の渡辺がいた。
「川島くんもお土産選びに来たの?」
「あ、うん。他のみんなが見たいって言うし……」
「ねぇねぇ、せっかくだからさ、何かお揃いのもの買わない? お守りとかキーホルダーとか、何でもいいんだけど」
「ああ、いいな。どれにしようか」
「そうだなぁ、男の子が持ってても恥ずかしくないのにしなきゃだし……」
おかしい、と良樹は思った。
(あんなに楽しかった渡辺との会話が、今は全然頭に入ってこない……)
昨日からもう、良樹は頭がグチャグチャだった。
結局良樹と渡辺は、お揃いで色違いのキーホルダーを買った。だが良樹は、選んでる時の会話が全然記憶にない。
(上の空だったんだな、俺)
渡辺がどんな顔をしていたか、それすら覚えていないくらいだった。
「じゃあ、また後でね。今日こそは遊びに来てくれるでしょ?」
「もちろん行くよ。絶対行くから待っててくれよな」
そう答えはしたものの、昨日と違って全然気持ちが弾まない。それが彼のイライラになおのこと拍車をかけた。
渡辺は自分の班の連中と一緒に移動して行った。志保たちは、まだ土産を選んでいる。
良樹は喧騒の中心で、一人立ち尽くしていた。身体はここにあるのに、彼の心はどこか遠い場所を彷徨っているようだった。
美咲に突きつけられた、ナイフのような言葉。
藤原によって引き出された、志保の、あの眩しい笑顔。
その全てが、彼の頭の中で、ぐちゃぐちゃに渦を巻いていた。
(……なんなんだよ、一体)
苛立ち紛れに視線を上げたその時、彼は見てしまった。店の奥で、3つの影が笑い合っているその光景を。
美咲と藤原。そしてその二人に挟まれるようにして、少しだけはにかむように微笑んでいる志保。
「あ、これ可愛い! 鹿の角が生えてる」
「本当だ。でも、こっちの大仏様の螺髪をモチーフにしたやつも、面白いよね」
「なにそれ、ただのブツブツじゃん! 藤原、センスなーい!」
穏やかな藤原の声と、快活な美咲の声。そしてその間で、くすくすと、楽しそうに喉を鳴らす志保の笑い声。
そこは、完璧なまでに調和の取れた世界だった。温かく穏やかで、そして自分の入り込む隙間が一ミリもない、完璧な三角形だ。
その光景を見た瞬間、良樹の心臓を、これまで感じたことのない激しい焦燥感が鷲掴みにした。
(……なに笑ってんだよ。俺がこんなにグチャグチャになってるのに、なんでお前らはそんなに楽しそうなんだよ)
そして、何よりも。
(――なんで、お前は、俺じゃないやつの隣で、そんな顔して笑ってんだよ。志保)
彼は、考えるより先にもう動いていた。まるでその完璧な三角形のど真ん中に、楔を打ち込むように。
「――志保」
努めて普段通りの、ぶっきらぼうな声を出す。三人が驚いて、一斉にこちらを振り返った。
「母さんから、親戚に配る用の八つ橋頼まれてなかったか? さっさと、選んじまおうぜ」
それは、あまりにも唐突で強引な割り込みだった。美咲の目が、一瞬で氷のように冷たくなる。
藤原が、困ったように良樹と志保の顔を、交互に見比べる。
そして、志保は。
「……え? あ、うん。でも……それは、帰る前に選ぼうって……」
その件は、荷物になるから最終日に選んで買おうと事前に相談していたのに……。
彼女は、明らかに戸惑っていた。良樹の、そのあまりにも自分勝手な乱入に。そして、そんな彼に、なぜか逆らうことができない弱い自分に。
良樹は、そんな彼女の葛藤に、畳み掛ける。
「いいから、行くぞ。どうせ暇だろ?」
そう言って、彼は志保の腕を掴もうとした。
春までなら当たり前だったはずのその行為。しかし、志保の身体が、すっと半歩だけ後ろに引かれた。
「……ごめん、よしくん」
それは小さな、しかし刃物のように鋭い拒絶だった。
「今、藤原くんたちと見てるから……頼まれてたお土産は、後でちゃんと選ぶから」
彼女は良樹の目を、真っ直ぐには見ていなかった。しかしその声には、震えながらも決して揺らぐことのない、確かな彼女の意志が宿っていた。
良樹の、伸ばされた手は、行き場をなくし宙を掻いた。
(……断られた? 志保に? 俺が?)
良樹は頭が真っ白になった。周りの喧騒が遠くに聞こえる。
美咲の嘲るような視線。
藤原の痛ましげな視線。
そして志保の「ごめんなさい」とはっきり書いてある、しかし決してこちらへは踏み込んでこない、その瞳。
その三方向からの声なき視線に、良樹はまるで公開処刑にでも遭っているかのような、耐え難い屈辱を感じていた。
「どうしたの、川島。一人でボーッとして」
そう声をかけてきたのは市原だった。
「別にボーッとしてたわけじゃねえよ。みんなまだ土産見てるから、待ってるだけだし」
良樹はそれだけ答えた。その答えを聞いて市原は「また何かあったの?」と尋ねた。
「またって、どーゆー意味だよ」
「どーゆー意味って、さっき江藤さんに引っ張られて離れたとこで話し込んでただろ? なんか怒られてるみたいに見えたから、また川島がなんかやらかしたのかなって思ってさ」
こんな軽口、今までの彼らならなんてことないハズだった。なのに良樹はひどく腹を立てた。
「…………うるせえよ」
じゃれあうような「うるせえ」じゃない。良樹は自分でもわかった。俺は怒ってるんだ、と。それが口調にモロ出てしまっていた。
「まあ、そう言うなよ。何があったか知らないけどさ、でも槙原さん、さっき泣きそうだったように見えたよ。ちゃんと謝った方がいいんじゃないの?」
市原が言ってることは正論だ。だが、正論だからこそ良樹は腹を立てたのかもしれない。
「何も知らないくせに、お前に何がわかるんだよ!」
良樹はついつい怒りをぶつけてしまった。市原なら冗談めかして言い返してくれると、心のどこかで思っていたのかもしれない。
「わかるよ。親友だからね。でも、親友だからこそ言わせてもらうよ」
「何をだよ」
「ねえ川島、オマエ、なにやってんの?」
「あぁ!? 何がだよ!」
「何が、じゃないよ。自分でわかんないの?」
市原は美咲と同じように良樹を見据えていた。
「僕はオマエと別れる時の渡辺さんを、今そこで見てたよ。オマエのやってることが、周りのみんなを傷つけてるってことがわかんないの?」
「うるせえ! お前に何がわかるんだよ!」
「わかるさ。みんなわかってる。オマエだけがわかってないんだよ。川島、オマエが本当に見なきゃいけないのは誰なの? オマエが槙原さんのことでムキになってるのは見てればわかるよ。藤原に取られたみたいで気分悪いんだよな。そうだろ?」
「なんだと……ッ! この野郎!」
美咲と同じことを市原にも言われた良樹は、怒りに任せて思わずその胸ぐらを掴んで睨みつけてしまった。市原は胸ぐらを掴まれたまま冷静に、しかし心の奥底に怒りを宿した目で睨み返す。
「川島! オマエはカノジョを不安にさせて、槇原さんを悲しませて、一体何がしたいんだよ!」
「うるせえよ!」
良樹の世界から音が消える。目の前の親友の冷たい瞳。遠巻きに見ている野次馬たちの顔。その全てがまるでモノクロフィルムのように色を失い、スローモーションのように流れていった。聞こえるのは、頭の中に直接響いてくる、声にならない声だけだった。
――うるせえ! お前に何がわかるんだよ! 俺の気持ちの、何が!
その叫びを、市原は嘲笑うかのように、心の中で一蹴した。
――わかるさ川島。オマエが、自分の気持ちから逃げている、ただの臆病者だってことぐらいね。
臆病者だ? ふざけるな。俺はただ渡辺を好きになっただけだ! それがそんなに悪いのかよ!
その言い分に、今度は別の声が、氷のように冷たく割り込んできた。
――悪くないよ、川島くん。でも、だったらどうしてあなたは今、そんなに必死なの? 私じゃない、別の誰かのことでそんなに怒っているの?
渡辺……! 違う、俺は、俺はただ……俺と志保は家族なんだよ! 兄妹みたいなもんなんだ! だから、心配するのは当たり前だろ!
良樹のその自分自身に言い聞かせるような言葉を、すぐそばにいた瞳が粉々に打ち砕いた。
――うん。そう言ってくれればよかったのに、よしくん。最初から、ずっとそう言ってくれていれば……そしたら私も……。
何を言ってやがる。俺は、ずっとそう言ってただろ! なのに、なんでお前はそんな顔をするんだよ! なんで俺じゃない奴の前で、あんな風に笑うんだよ!
剥き出しになった良樹の本音。それを待っていたかのように、静かだったはずの男の声が彼の心に突き刺さった。
――それは、君が彼女を笑わせなかったからじゃないのかな、川島くん。
藤原! オマエには、オマエにだけは、言われたくねえよ! オマエは、なんなんだよ! 志保の、なんなんだよ!
その最後の問いには誰も答えてくれなかった。ただ現実の世界で、志保が何かを振り払うかのように、小さく首を横に振ったのが見えた。
その瞳には、怯えよりも諦めに近い、強い拒絶の色が浮かんでいた。そんなこと、志保が自分を拒絶するなんて、今まで一度だってなかった。
(そうだよ。いつだってアイツは「よしくん」「よしくん」って……)
良樹は、ドクン、と心臓が嫌な音を立てて締め付けられる気がした。
まるで呪縛が解けたかのように、良樹はハッと我に返った。市原の胸ぐらを掴んでいた自分の手が、急にひどく熱く感じる。彼は、まるでそれを振り払うように、乱暴に手を離した。
「……ちっくしょうが……!」
悪態をつき、誰の顔も見ず、良樹はその場から離れようとした。市原の冷めた視線も、藤原の痛ましげな視線も、江藤の憐れんだような視線も、もうどうでもよかった。
ただ、志保のあの拒絶の瞳だけは脳裏から離れない。 俺が守ってやる、そう誓ったはずの志保に、今の彼は心の底から拒絶されていた。その事実だけが、どうしようもない痛みとなって胸に突き刺さる。
そんな良樹の眼に、1人の女の子が写った。
(えっ!? なんでここに?)
渡辺だった。同じ班のメンバーと移動したはずの渡辺が、なぜかまだそこにいたのだ。
(全部、見られたのか?)
それは彼女の様子を見れば一目でわかった。
「……ごめん。お邪魔だったみたいだね」
渡辺は確かにそう言った。
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