第34話 暴発

 修学旅行の二日目午前中。良樹たちの目的地は法隆寺だった。

 バスに乗り込んでも良樹は誰とも話さず、志保が美咲や藤原と話しているのを尻目に、一人で窓の外を睨みつけていた。

 法隆寺の境内は、東大寺の喧騒とは違って静かで落ち着いた空気が流れていた。それが今の良樹には余計に息苦しい。

「この五重塔は、日本に現存する最古の木造建築なんだ。すごいよね。千年以上も前に、こんなものが作られていたなんて」

 藤原は、しおりを片手に穏やかな声で志保に話しかけている。志保も、さっきまでの怯えた表情はどこへやら、少しだけ興味深そうな顔で藤原の説明に耳を傾けていた。

「へえ……そうなんだ。たしか釘とかは使ってないんだよね?」

「うん。その後の修理とかで使ってはいるらしいけど、もともとは組み木だけで、これだけの建物を支えているんだって。昔の人の知恵と技術ってホントにスゴイよね」

 二人の間で、穏やかな会話が紡がれていく。自分の知らない世界。自分の入り込めない空気。朝食の時と同じ光景が、また良樹の目の前で繰り広げられている。

 カチン、と頭の中で何かがキレる音がした。

(なんでだよ。なんでお前は、俺じゃない奴とそんな風に話すんだよ)

 そう思った時には、もう体が動いていた。

「なあ、なあ! 見ろよ、あそこの柱!」

 良樹は、わざと二人の会話に割り込むように大声を上げた。指差した先には、観光客が列を作って触っている柱がある。

「あの柱の傷、聖徳太子がつけた爪痕らしいぜ! すげえよな!」

「……川島、それ違うから」

 隣にいた美咲が、心底呆れたという顔で良樹を睨む。

「うるせえ!  夢があんだろ、夢が!」

 彼の幼稚な行動に、藤原は少し困ったように眉を下げ、志保は俯いてしまった。また、あの怯えたような顔に戻ってしまった。

(違う、俺はそんな顔が見たいわけじゃないんだよ……)

 焦りが、徐々に苛立ちへと変わっていく。


 良樹たち一行は、法隆寺の長い回廊を静かに歩いていた。千年の時を経た木の柱が、等間隔に影を落としている。

「……すごいね。なんだかここの空気、澄んでる気がする」

 志保が、ぽつりと呟いた。

「うん。昔の人たちも、きっと、同じ空気を感じてたんだろうね」

 その声に藤原が優しく応えた。

 静かな空間に、二人の穏やかな声だけが響く。

 それは誰にも邪魔をされてはいけない、あまりにも美しく、そして儚い時間に思えた。二人の空気を読んでいる美咲は、もちろん声をかけたりする無粋な真似はしない。だが……。

「なあ、腹へらねえか?  俺、もう腹ペコなんだけど」

 良樹のあまりにも場違いで、しかも大きな声が、その神聖な空気を粉々に打ち砕いた。

 志保の肩が、ビクリと大きく跳ねた。

「……川島。まだお昼ご飯まで一時間以上あるわよ」

 美咲が殺意を込めたような声で、そう囁く。

「だって腹へったんだから、しょうがねえだろ!  なあ志保、お前も腹へったよな?」

 彼はそう言って、志保に強引に同意を求めた。

 それは、お前は藤原じゃなくて俺の側にいるんだよな? という、良樹の身勝手で幼稚なまでの確認作業だった。

「……え、あ、私は……まだ、大丈夫かな」

 志保は困ったように俯いたまま、そう答えるのが、精一杯だった。

(……ちっ)

 良樹は、内心で大きく舌打ちした。焦りがどんどん苛立ちへと変わっていき、さらに焦りを誘う。

(どうしてだ。どうして、うまくいかないんだよ……)

 この息の詰まるような空気を、彼はどうにかして壊してしまいたかった。


 夢殿へと向かう途中、藤原が再び志保に話しかけた。

「この先の資料館に、国宝の仏像が安置されてるんだ。教科書にも載ってた、あの……」

 その瞬間、良樹は考えるより先に動いていた。

「そんなもんより、あっちに面白いもんあるぜ!」

 彼は藤原の言葉を遮ると、志保のか細い腕を、ぐいっと掴んだ。

「えっ、よしくん!?」

 驚く志保を構わず、良樹はそのまま歩き出す。どこへ行くかなんて、あてはない。ただ、この二人を引き離したかっただけだった。

「こっちだ、こっち!」

「ちょ、ちょっと、よしくん、痛い……!」

 志保のか細い声が、良樹を我に返らせた。ハッとして見ると、彼は志保の腕を、痣にでもなりそうなほど強く握りしめていた。そして志保は、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「……あ、わ、悪い……」

 良樹は、まるで火傷でもしたかのように、慌ててその腕を離した。その時だった。背後から地を這うような、静かな、しかしマグマのような怒りを孕んだ声がした。

「――いい加減にしなさいよ、川島」

 振り返ると、そこには、能面のような無表情の美咲が立っていた。

「……なんだよ」

「いいから、ちょっとこっち来なさいよ」

 美咲は良樹を引きずるようにして志保たちから離れた。


 「アンタさ、自分が今、何やってるかわかってるの?」

「俺は……別に、何も」

「そうよね。やっぱり何もわかってないのよね」

 美咲の目は、体育館裏で良樹をひっぱたいた時とは比べ物にならないくらい冷たく、そして鋭かった。

「ずっと見てたけど、アンタが今やってるのはね、ただのやつ当たり。小さな子供の癇癪と一緒よ」

「……っ!」

「自分の思い通りにならないからって、引っ搔き回して周りを困らせて。挙句の果てには一番傷つけちゃいけないコを泣かせてる。それが今アンタのやってることよ」

 美咲は、遠く後ろで俯いている志保を顎で示した。

「違う?」

「なんだよ。俺が志保を泣かせてるってのかよ?」

「そうよ。志保が、アンタのせいでどれだけ我慢してると思ってるのよ。どれだけ自分の気持ちを押し殺して、アンタのカノジョの前でもアンタの家族の前でも笑おうとしてるか……そんなことアンタは気にもしてないだろうけど、私は全部知ってるんだからね!」

「…………」

「それなのに、まったくアンタときたら……!」

 美咲の声が、震えている。

「悔しいんだよね。いつも一緒にいた自分だけの志保が、違う男の子と仲良くしてるのが許せないのよね。でも、私言ったよね? 志保が取られちゃってもいいのって。そしたらアンタなんて答えたか覚えてる? 志保は志保で勝手にすればいいって、そう言ったよね? その通りになっただけなのに、いまさら嫉妬とか恥ずかしくないの?」

 良樹はその時の会話を思い出してした。確かにそうだ、自分は、確かにそう言った……。

「ハッキリ言うけど、あの子の隣りにいるのは、別にアンタじゃなくったっていいんだからね。むしろ今のアンタよりも藤原の方が、ずっと志保にはお似合いよ」

「俺は、別に……そんなつもりじゃ……」

「いい? これ以上あの子を苦しめるんだったら、アタシがアンタをぶっ飛ばすからね! あの子を傷つけるヤツは、誰であっても私が絶対に許さないんだから!」

 それは、もはや脅しではなかった。親友を傷つける者に対する、明確な殺意にも似た本気の警告だった。

 良樹は何も言い返せなかった。ただ、自分の手のひらに残っている志保の腕の感触と、目の前にいる志保の親友の本気の怒りの間で、立ち尽くすことしかできなかった。

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