第33話 疑念

 翌朝、良樹は最悪の寝覚めと共に食堂へ向かった。結局昨夜はほとんど眠れなかった。

 目を閉じると、布団の中の熱気と腕の中にいた志保の感触が蘇ってきて、そのたびに心臓がうるさく鳴る。

(俺、一体どうしちまったんだろう。なんでこんなに志保のことばかり考えているんだろう)

 食堂のテーブルに着くと、同じ班のメンバーたちも次々と集まってくる。その中には当然志保もいた。

(志保は昨夜寝られたのかな……もしかしたら、俺だけがこんな気持ちなのか?)

 目が合った瞬間、志保は気まずそうにサッと視線を逸らした。その態度に良樹の胸がチクリと痛んだ。

(やっぱり昨日のこと気にしてるのかな。当たり前か。もしかしたら、志保はイヤだったのかもしれないし……)

 気まずい沈黙が流れる中、爽やかな声がそれを打ち破った。

「みんな、おはよう」

 藤原だった。

「おはよう、槙原さん、江藤さん……昨日は、大変だったね。あのあと大丈夫だった?」

 彼は、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。しかしその声には、明らかに昨夜の騒動を気遣う響きがあった。

「あ、う、うん。藤原くんこそ、ごめんね。なんか、色々巻き込んじゃって」

 志保は藤原の問いに、少し上ずった声で答えた。顔が、ほんのり赤い。

 それは、まるで二人だけに通じる秘密の会話のようだった。その光景を見た瞬間、良樹の腹の底で何かが黒く渦巻いた。

(なんだよ藤原のヤツ……昨日のこと、なんでオマエが知ってるみてえに話してんだよ)

 もちろん藤原は先に脱出していたので、そのあと良樹と志保に何があったかなど知りはしない。ただ昨晩のドタバタ騒ぎに触れて志保と美咲を気遣っただけだ。

 だが良樹はそう受け取らない。理不尽な感情が湧き上がってくるのを、彼は自分でわからないし、止めることもできなかった。

(俺とは目を合わせようともしないくせに、藤原とは普通に話すのかよ)

(なんで、そんな赤い顔してんだよ……)

 志保のそのぎこちない態度は、良樹の目には全く違う意味に映ってしまっていた。

 彼は志保のその様子が、昨夜自分と布団の中にいたことで眠れなかったせいだとは夢にも思わない。ただ自分の知らない昨夜を二人が共有して、特別な空気を醸し出していると勝手に勘違いし、勝手にイラついているのだった。

(……いや、もしかして藤原の前だから緊張してんのか?) 

 そう思った瞬間、彼はイラ立ちに任せて、持っていた箸を食器トレイの上に、カタン! と少しだけ強く置いてしまった。向かいに座っていた美咲が、訝しげな顔で良樹を見る。

 やってから、マズい、とは思ったがどうしようもなかった。

 志保もその音にビクッと肩を揺らした。そして不安そうな瞳で、一瞬だけ良樹を見た。その瞳に何を言えばいいのかわからなくて、良樹はまた、そっぽを向くことしかできなかった。

(俺たちはクラスメートで同じ班だ。だから志保と藤原が話すのだって別に普通のことだ。なのに、なんで俺はこんなにイライラしてんだ……?)

 良樹にはわからない。ただ、胸の奥が焼けつくように熱い気がした。

 昨夜腕の中に感じた、志保の柔らかさと心臓の音。その感触が、まだ自分の身体にこびりついていて離れない。

 その熱を今、目の前で藤原が、いともたやすく奪おうとしている。そんな妄想にも似た暴力的な感覚が良樹にはあった。


 ――春の球技大会の後も、こんな感じだったっけ?


 彼は不意に思い出した。

 あの時、渡辺にもう惹かれ始めていた自分は、志保が誰と話していても何も感じなかったはずだ。

 なのに今は、藤原がただ志保の名前を呼んだだけで、腹の底が黒く煮えくり返るのだ。

(……何が、違うんだよ。あの時と、今と)


 朝食を終えた市原は、美咲を見つけると急ぎ足で歩み寄った。もちろん彼女から話を聞きたかったからだ。

「あ、市原じゃん。おはよう」

「おはよう。昨夜はどうだった? 上手くいった?」

「それがさあ、聞いてよ。上手くいったはいったんだけどさぁ……」

 美咲は楽しくて仕方がないといった口調で、昨晩あった出来事の顛末を市原に話した。

「へぇ、そんなことがあったんだ」

「もう、ふたりともホント真っ赤になっちゃって、反応がウブでおもしろかったよ。市原にも見せたかったなぁ」

 美咲はケラケラと可笑しそうに笑った。

 話を聞く限りでは、計画は成功したようだなと市原は思った。ただし、予期せぬアクシデントがあったらしい。

(まあ、目的は果たせたわけだし、アクシデントは些細なことか……)

 彼の脳裏には、昨夜渡辺が見せた、あの泣き出しそうな顔が浮かんでいた。

(……ホントにこれで、よかったのかな?)

 いまさらながら湧き上がる、わずかな罪悪感。昨日の自分は感情的になり過ぎていたのではないかという不安。

「なに浮かない顔してんのよ。計画は大成功だったでしょ?」

「……そうだね。でも、ちょっとやりすぎたかもしれないなって」

「やりすぎ?  何がよ。それより、問題はこれからなんだからね」

「これから? どういうこと?」

「見てなさいよ、市原。これからあの3人に何が起こっていくか」

「……どういうこと?」

「いい? 昨夜の一件で、川島は間違いなくまた志保を意識し始めるよ。そして焦りだすの。藤原に志保を取られちゃう、ってね。そうなった時、藤原がどう動くと思う?」

「……」

「そうなったら藤原は、もう今みたいにただの優しい人じゃいられないよ。川島の嫉妬を、真正面から受け止めることになるんだから。どう? 面白くなってきたと思わない?」

 まるでチェスの盤面を見つめるかのような、その冷徹で、しかしどこか楽しげな美咲の瞳。

(えっ!? 江藤さんって、そんな性格だったの?)

 市原は、目の前の少女のその底知れない恐ろしさに、背筋が寒くなるのを感じていた。

「アタシはね、市原。志保が幸せになれるなら、ぶっちゃけ相手が誰でもかまわないのよ」

「相手が今の川島でも?」

「今の川島じゃ全然ダメね。話にならないもの。でももし昨日のことがキッカケになって、アイツが自分の本当の気持ちに気づいたっていうなら、それで志保を大切にしてくれるなら、アタシは喜んで背中を押すよ」

「藤原くんに対しても不満があるわけ?」

「今は無いけど、でもアイツだって、いざ付き合ってみたらただ優しいだけの男かもしれないじゃない? そんな男に志保は、やっぱり任せられないもん」

 もちろん志保の気持ちが第一だけどね、と付け加えることを美咲は忘れない。

(ちょっと行き過ぎな気もするけど、江藤さんの槇原さん想いは前からだしな)

 それにしても、と市原は思う。自分はもしかしたら、とんでもないことをしてしまったのではないかと。

(どうやら自分は、江藤さんのことを見誤っていたらしいぞ)

 渡辺が傷つきさえしなければよかったのに、自分の計画したことが結果的にまた違う火種を起こしてしまったのではないかという不安が、急に頭をもたげてきた。それは決して彼の本意ではないのだが……。

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