第2話 気がつけば、ゲームの世界に
「すず、起きろよ。もう朝だぞ」
優しい声が聞こえて、紗希は薄っすらと目を開けた。見慣れない天井、見慣れない部屋。そして―――
「え?」
目の前に、見たことのある顔があった。いや、正確には「見たことがある」というより「知っている」顔。藤井涼介だった。ゲームの中の主人公その人が、紗希を見下ろしている。
「やっと起きたか。心配したぞ」
涼介は安堵の表情を浮かべながら、紗希の額に手を当てた。
「熱はないみたいだな。でも昨日は随分うなされてたぞ?悪い夢でも見たのか?」
「え、え、えええええ?!」
紗希は飛び起きた。慌てて周りを見回すと、そこは確実に藤井鈴の部屋だった。ゲームで何度も見た、可愛らしい家具に囲まれた部屋。
「おい、どうした?顔が真っ青だぞ」
涼介が心配そうに紗希の肩に手を置く。その感触は確実に現実のもので、紗希はパニックに陥った。
「あ、あの、お兄ちゃん...?」
「なんだ?『お兄ちゃん』なんて、久しぶりに呼ばれたな」
涼介は少し照れたような笑顔を見せる。その表情は、ゲームで見た通りの優しいものだった。
(まさか...転生?そんなバカな)
紗希は自分の体を見下ろした。昨夜まで着ていたパジャマではなく、見覚えのある水色のナイトドレス。鏡を見ると、そこには藤井鈴の顔があった。
「う、嘘でしょ...」
「すず?本当に大丈夫か?」
涼介の心配そうな声が、紗希の混乱に追い打ちをかけた。彼の優しさは、ゲームで見た通り――いや、それ以上に暖かく感じられた。
「だ、大丈夫です。ちょっとぼーっとしてただけで」
「そうか。なら良いんだが...」
涼介は立ち上がりながら、紗希に微笑みかけた。
「朝食の用意ができたから、着替えたら降りておいで。母さんが心配してるから」
「は、はい」
涼介が部屋を出て行った後、紗希は一人残された。静寂の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
(本当に転生したんだ...)
現実を受け入れるのに時間がかかった。でも、この暖かな感覚、涼介の優しさ、全てが本物だった。ゲームの世界が現実になったのではなく、自分がゲームの世界に入り込んだのだ。
着替えを済ませて階下に降りると、藤井家の両親が朝食の準備をしていた。彼らも、ゲームで見た通りの優しそうな夫婦だった。
「鈴ちゃん、おはよう。体調はどう?」
「おはようございます。もう大丈夫です」
母親の心配そうな声に、紗希は自然と「鈴」として答えていた。不思議なことに、この家族の一員として振る舞うことに違和感がなかった。
「涼介も心配してたのよ。朝からずっと鈴ちゃんの部屋の前をうろうろしてて」
「母さん、それは言わなくてもいいだろ」
涼介が頬を赤らめながら抗議する。その仕草が可愛らしくて、紗希は思わず見とれてしまった。
(この人が...お兄ちゃん)
現実世界では修輔に対して感じていた複雑な感情が、涼介に対してはもっとストレートに感じられた。彼の優しさ、気遣い、全てが紗希の心に響いた。
朝食を食べながら、涼介が話しかけてくる。
「そうそう、今日詩織さんと会う約束があるんだ。すず、一緒に来るか?」
紗希の手が止まった。詩織――あの桜木詩織と会うのか。
「し、詩織さんって...?」
「ほら、前に話した子だよ。最近友達になったって」
涼介の表情が、話題を詩織に変えた途端に明るくなった。その変化は、現実世界の修輔とあまりにも似ていて、紗希の胸に痛みが走った。
(また...また同じことが起こるの?)
現実世界でも、ゲームの世界でも、大切な人は詩織に夢中になる。それが運命だとでも言うのだろうか。
「あ、あの、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「詩織さんって、どんな人なんですか?」
涼介の目が輝いた。修輔が詩織について語る時と、全く同じ表情だった。
「詩織さんは本当に素晴らしい人なんだ。優しくて、上品で、困ってる人を見かけるとすぐに手を差し伸べるような...まさに理想的な女性だよ」
紗希の胸が締め付けられた。現実世界での修輔の言葉と、あまりにも似ていた。
「そ、そうなんですか...」
「ああ。すずも会えば分かると思うよ。きっと詩織さんのことを好きになる」
(好きになるわけないじゃない)
紗希は心の中で叫んだ。詩織のことなんて、好きになれるはずがない。現実世界でも、ゲームの世界でも、彼女は紗希から大切なものを奪っていく存在なのだから。
でも、涼介の嬉しそうな顔を見ていると、否定的なことは言えなかった。
「分かりました。お会いしてみたいです」
「そうか!じゃあ今日の午後、一緒に行こう」
涼介は本当に嬉しそうだった。その笑顔が、紗希の心をさらに複雑にした。優しい兄として慕いたい気持ちと、一人の男性として惹かれる気持ち。そして、詩織への嫉妬心。
全てが入り混じって、紗希は自分の感情を整理できずにいた。
---
午後、待ち合わせ場所の公園に向かう途中、紗希は涼介に話しかけた。
「お兄ちゃんは、詩織さんのこと...好きなんですか?」
涼介は立ち止まって、少し考え込んだ。
「好きかどうか...まだ分からないな。でも、特別な存在だとは思う」
「特別...」
「ああ。詩織さんと話していると、心が落ち着くんだ。まるで、ずっと探していたものを見つけたような...そんな感覚かな」
その言葉は、紗希の心に深く刺さった。修輔も、同じようなことを言っていた。詩織という存在が、男性にとって特別な魅力を持っているのは確かなようだった。
公園に着くと、桜の木の下に一人の少女が立っていた。ピンクの髪、大きな瞳、上品な佇まい――桜木詩織その人だった。
「涼介さん!」
詩織は涼介を見つけると、嬉しそうに手を振った。その笑顔は、まさにゲームで見た通りの可憐さだった。
「詩織さん、お疲れさま。こちらは妹の鈴です」
「初めまして、鈴さん。涼介さんからよくお話を伺っています」
詩織は丁寧にお辞儀をした。その仕草すら完璧で、紗希は思わず圧倒されてしまった。
「は、初めまして...」
「鈴さんも可愛らしい方ですね。涼介さんに似てらっしゃいます」
詩織の優しい言葉に、紗希は戸惑った。敵意を向けられるどころか、純粋な好意を示されているのが分かった。
三人で公園を散歩しながら、紗希は詩織と涼介のやり取りを観察していた。詩織の話し方は確かに上品で、内容も気遣いに満ちていた。涼介も、詩織と話している時は本当に楽しそうだった。
(完璧すぎる...)
紗希は心の中でため息をついた。詩織には、文句をつけるところが見当たらなかった。容姿も性格も、まさに理想的な女性。こんな人がいたら、誰だって惹かれてしまうだろう。
「あ、そうそう。鈴さんは何か趣味はおありですか?」
詩織に話しかけられて、紗希ははっとした。
「趣味...ですか?」
「ええ。涼介さんから、とても活発で素敵な妹さんだと伺っていたので」
涼介が自分のことを「素敵」だと言ってくれていたのか。その事実に、紗希の胸が少し暖かくなった。
「特に...これといって」
「そんなことないだろ。すずは料理が上手だし、歌も歌えるし」
涼介がフォローしてくれる。その優しさが、紗希にはとても嬉しかった。
「まあ!それは素晴らしいですね。私、お料理は全然駄目なんです」
詩織は困ったような笑顔を浮かべた。その表情すら可愛らしくて、紗希は自分の敗北感を噛みしめた。
完璧でない部分すら魅力的に見せる。それが詩織という人の才能なのかもしれなかった。
散歩の途中、詩織が転びそうになった時、涼介がすぐに支えた。
「ありがとうございます。涼介さんがいてくださって...」
詩織は頬を赤らめながら、涼介を見上げた。その瞬間、二人の間に特別な空気が流れるのを、紗希は敏感に感じ取った。
(やっぱり...お兄ちゃんも詩織さんに...)
嫉妬心が、紗希の胸の奥で燃え上がった。現実世界でも、ゲームの世界でも、結局は同じことが起こるのだ。自分が大切に思う人は、詩織に惹かれていく。
それが運命なら、紗希は運命に逆らってみせる。
(絶対に...絶対に諦めない)
紗希は心の中で誓った。今度こそ、大切な人を詩織に取られるわけにはいかない。たとえ兄妹という立場でも、何か方法があるはずだ。
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