第45話 煌めく涙と輝く白い歯



 杖を腰のホルスターに仕舞い込む。軽い音を立てて収まった感触に、わずかな安心を覚える。だが、ハンドガンはまだ手から離せなかった。

 掌に汗が滲み、じっとりとした感触を残している。自然に手が震えるかと思ったが、不思議とそうはならなかった。


 その銃を持つ私の手を、レオナルドがそっと包むように触れた。厚い掌は熱を持ち、包み込む力は穏やかでありながら揺るぎない。


「……大丈夫か?」

「あ、うん。……敵だし、殺してるわけじゃないし」


 自分の口から出た言葉は、思っていたより落ち着いて聞こえた。


 いつかそういう状況になるかもしれない──こういう展開は、日本からこの異世界に転移した時から想定済みだった。

 日本の平和な日常では絶対に直面しないだろう出来事。刃や弾丸を向けられることも、誰かを倒すことも。理屈では理解していた。


 まぁその覚悟もあくまで想像上のものであって、実際に事が起きた時にどう思うかは別だということもわかっていたが……。実際に血を見て、息を荒げて、死を近くに感じて……その時、自分がどう反応するのか。正直、わからなかった。


 けれど今、私は確かに呼吸を整えて立っている。

 手は震えていないし、吐き気もない。自分の心は思っていたよりも冷静だ。身体はまだ緊張で硬いが、心は意外にも揺れていない。

 相手は明確に敵だし、殺してるわけじゃないし、直接的にぶん殴ったりしたわけじゃないし……、何より。


「私、"人間はいいけど動物が辛い目に遭う方がしんどいタイプのオタク"だから……。魔獣を倒せとか言われた方が抵抗ある……。人間の敵が痛い思いするのは別にいいけど……」

「そうか……」




 そうしてふたりで並び、街道へ戻る。木々の間を抜けると、視界が開ける。夕暮れが夜へ変わろうとする空の下、戦いの名残が街道に広がっていた。

 倒れた敵、転がる武器、黒いマント。だが同時に、仲間の姿も見える。


「あっ! あかり嬢! よくぞご無事で!」

「ふくだんちょ〜〜! すみません〜〜!」

「お二人ともお怪我は!?」

「問題ない。俺もあかりも無傷だ」


 三人の騎士が駆け寄ってくる。彼らは第三騎士団の団員──レオナルドの部下だ。

 息を切らし、鎧に泥や返り血をつけながら、必死の顔で私たちに駆け寄ってくる。その姿に、胸が少し痛む。

 彼らは馬車を守りきれず私を危険に晒してしまったことを自責していたが、追手を撃退したと聞くや否や、声を上げて盛り上がった。わっと歓声が上がり、「さすがだ」「お二人のお力で!」と素直に盛り上がっていく。


 彼らは実直で、感情が表に出やすい。悔しさも喜びも、包み隠さず声にする。ヴァレスティ家の騎士たちはもう少し厳格な雰囲気があったが……平民が主だという第三騎士団ならではの雰囲気だろうか。


 私は思わず肩の力を抜いて笑った。無事に戻ってこられたことを喜んでくれる人がいる。その事実が、戦闘の緊張を遠ざけてくれる。


 笑顔を見せる団員たちを眺めながら、私は胸の奥で小さく息をついた。

 戦いは終わったけれど、次の幕はもう上がり始めている。


 騎士たちが怪我を負った刺客たちにポーションを振りかけていた。とはいえ、彼らが使っているのはあくまで「死なせない程度に回復させる」やり方らしい。

 深手で出血していた者は血が止まり、意識を失っていた者は呼吸が落ち着く。けれども完全に治るわけではない。


 一方で、私とレオナルドは捕縛作業に回った。地面に倒れている刺客に猿轡を嵌め、通販で買った手錠を両手両足にガシャガシャと嵌めていく。

 コスプレ用のチャチなやつじゃない。しっかりした造りで重量感があり、素手で壊すのはまず無理だ。

 鍵はすべてアイテムボックスに放り込んである。私以外の誰も取り出せない。奪われる心配がないと分かっているのは心強い。


 ヴァレスティの兵士さんは、拘束の済んだ者からずるずると引きずっては街道脇に並べていった。何やら分類して転がしているようだ。素人目にはわからないが、何か違いがあるらしい。


 辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。先程までの戦闘の喧噪が嘘のように、森の中には虫の音だけが響く。けれど、まだやるべきことは残っている。

 私はアイテムボックスからLEDランタンをいくつも取り出し、地面に置いたり、木の枝に引っ掛けたりして光源を確保した。白い光がぽつぽつと林を照らすと、騎士たちが「あかる〜い」とはしゃいだ。


「どれが親玉かな?」


 私は並べられた捕虜の列を見渡しながら呟く。


「さて……。だが、見覚えはある」


 レオナルドは低く答える。だがその目は確かに、誰かを射抜いていた。

 兵士さんの手でフードやマスクを剥がされて顔を晒されている中から一人、レオナルドが選ぶ。

 ランタンの光を反射する赤い瞳が、硬い視線でこちらを睨み返してきた。精悍で傷だらけの男だ。以前の襲撃で目にした顔なのだろう。周囲の空気が少しだけ張り詰める。


「猿轡、外しますか?」


 騎士の一人が問うと、私は思わず口を挟んだ。


「あ、でも、奥歯に仕込んだ毒で自害、とかされない?」

「あぁ〜、そういう……。確かに」


 次の瞬間、その騎士はためらいなく捕虜の口へ手を突っ込んだ。

 私は思わず「えっ」と声を上げる。噛まれたらどうするんだ、と肝を冷やしたが、成人男性の手を丸ごと突っ込まれては顎を閉じることはできないらしい。

 男は呻き声を上げ、必死に首を振るが、騎士の腕力には抗えなかった。


「あ、取れました〜!」

「ワァ……」


 誇らしげに掲げられた指先に、白い小さな粒が摘まれていた。……奥歯を引っこ抜いたらしい。

 別の騎士が「おいバカ、あかり嬢の前でやるな!」と叱り、歯を抜いた本人は「あ、すませ……」とションモリした。


「別にいいよ……。ペンチとか要る?」

「わ、助かります!」

「あんま抜きすぎるなよ。話が聞こえづらくなる」

「は〜い」


 騎士の忠告に素直な返事が返ってくる。次の瞬間、白い歯がまた一つランタンの光に煌めいた。


 こうして男は奥歯を数本、そして舌を噛み切れないように前歯までいくつか抜かれる羽目になった。血が滲む口を開けさせられた彼は、今や濁った息を荒げている。かわいそ……。


 歯を抜かれた男が、血の混じった唾を吐き捨てるようにしてこちらを睨みつける。その眼差しは獣のようにぎらついていて、痛みに顔を歪めてなお、屈服の色を見せる気はないらしかった。


 闇の中、LEDランタンが放つ人工的な白光が、男の汗ばんだ顔を照らしている。血と汗と唾液が頬を伝い、光を反射して不気味に光った。


「クッ──」

「『くっ、殺せ!』って言う!?」

「…………」


 私が思わず茶々を入れると、だが、返ってきたのは沈黙だけ。男はただ睨みを強めただけで、何も言わない。その目は「ふざけるな」とでも言いたげで、逆にこちらがちょっと楽しくなってしまう。


「言わんのか〜い」


 肩をすくめておどけて見せたら、案の定、憎悪の視線を倍増させて睨まれた。痛みと屈辱が混じった、獣のような目。けれどその鋭さも、歯を抜かれ猿轡を掛けられているせいで、どこか滑稽に見える。


「さて──」


 低い声でレオナルドが口を開く。その声音だけで場の空気が引き締まった。


「色々聞かせてもらおうか」

「ハッ、何も話すことなど──」

「えいっ」


 ぷしゅっ。


「グ、ぁあ……ッ!」


 軽快な音と共に、霧のようなものが男の顔にかかった。

 男は途端に叫び声をあげ、拘束されたまま後ろにのけぞり、地面に転がってのたうち回った。涙が一気に噴き出し、鼻水と混ざって顔を濡らす。まるで全身を火で炙られているかのように、身をよじり続けた。


 好奇心半分で覗き込んできた騎士の一人が私に尋ねる。


「それ何すか?」

「催涙スプレー。めっちゃ辛い成分が入ってるの。目と鼻と喉に直撃するやつ」

「痛そ〜……」


 顔をしかめた騎士が男に視線を戻す。その表情は哀れみ半分、諦め半分といったところだ。


「素直にならないと、またぶっかけられるぞ」


 別の騎士が冷たく脅すと、男は悔しげに歯を食いしばった。だが、数本の歯を抜かれたせいで、食いしばる音さえ不格好に聞こえる。

 男は呼吸を荒げ、涙と涎を垂らしながら必死に息を整えようとしている。だが、憎悪のこもった視線だけは崩れない。


 レオナルドが一歩進み出た。

 月明かりを背に立つその姿は、沈黙の威圧そのものだった。


「お前の主は国王陛下だな」


 その問いに、男は一瞬だけ目を細め──そして、鼻で笑った。

 血と泥にまみれた顔は痛みと疲労で歪んでいるはずなのに、その笑みだけは妙に挑発的で、敵意の光を失っていなかった。


「お前が一番よくわかってるだろう?」


 吐き捨てたその声音には、敗北してなお相手を小馬鹿にするような、どこか勝者の余裕すら漂っていた。

 レオナルドの瞳が、僅かに鋭さを増す。


「けど、それがどうした? たまたま騎士団副団長様と、平民の商人の女が乗る馬車が野盗に襲われただけの話だ。取るに足らない。どこにでもある話だ」


 確かに、体裁だけ整えれば、そういう話にすり替えることはできるだろう。今までレオナルドが受けてきた迫害も、公に国王を咎められるだけの罪にはならなかった。

 権力が情報を握ってしまえば、人々はそれに流される。世界はそう簡単に変わらない。


 だが、騎士の一人が低く笑った。


「そうはならないんだなぁ、これが」

「はぁ?」

「お前たちは、王子が乗る馬車を襲ったんだ」


 静かながら重い声で告げられる。男の顔に一瞬、困惑が浮かんだ。

 男が呆れたような声を出す。唇の端に血を滲ませながら、吐き捨てるように。


「その男は王家の血筋を持つが、血筋だけだ。籍はない。そもそも王子じゃないだろ……」

「いるんだよ」


 別の騎士が静かに言い切った。


「ここに。王子殿下が」

「……は?」


 男の目が、信じられないものを見るように見開かれる。完全に虚を突かれた表情だった。理解が追いつかないといった様子だ。


「……王子が城に居るのは確認している。この時間で王都からこんなところまで……来ているわけがない」


 男が、まるで自分に言い聞かせるように呟く。そう確信していながらも、困惑を隠せない声音で。


 ──その時。

 街道の向こうから、重低音が響いた。


 大地を揺らすような轟音が間断なく続き、夜の闇を押し分けるように迫ってくる。地面に置いていたLEDランタンがわずかに震え、光が脈打つように揺れた。


 地の奥から這い上がってくるようなその音は、ただの馬の蹄ではない。騎士たちでさえ、思わず息を止めるほどの威圧感をまとっていた。


 闇を切り裂き、確かに何かが近づいてきていた。



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