該当作なし

やです。

該当作なし

 僕の仕事は、他人の人生に点数をつけ、評価を下すことだ。

 書評家、という肩書きは聞こえがいい。世間は、僕を「文芸界の若き論客」などと呼ぶが、実際の僕の生活は、コンビニ店員と大差ない。いや、コンビニ店員の方がよほど社会の役に立っているかもしれない。彼らは客の喉の渇きを潤し、空腹を満たす。だが、僕はというと、送られてくる原稿を読み、その価値を定規で測るだけの、無機質な作業を繰り返す毎日だ。


 朝九時。僕は、届いたばかりの原稿の束を、机の上に積み上げた。山のようにそびえる紙の塊を前に、僕は一日の始まりを告げる。それは、僕にとっての「いらっしゃいませ」だ。僕は、まず表紙の帯を外し、ページの隅々まで、まるで商品の消費期限を確かめるように、じっくりと目を走らせた。誤字脱字、文法の誤り。それらは、僕にとって、商品のパッケージに付いた傷のようなものだ。小さな傷でも、その商品価値は大きく下がる。


 電車の中でも、僕は原稿を離さなかった。正確には、日課として、新聞の書評欄を赤ペンで添削していた。


 書評家 春樹の読書日記

『虚ろな瞳の詩人たち』

(風社刊 定価1,800円)

  作者は、言葉の選び方を丁寧に

  学んだ痕跡がある。しかしその

  丁寧さが、かえって詩の世界を

  狭めている。

            ×稚拙

  作者は言葉の選び方を

  学んでいるが、その丁寧さが

  かえって詩の世界を狭めている。


 僕は、新聞の見開きページに、僕の赤い訂正を重ねた。新聞社が選んだ「今月の傑作」も、僕の定規にかかれば、たちまち「凡作」へと成り下がる。僕がつけた赤い線は、まるで血液のように鮮やかだった。


 僕はかつて、新人賞の選考で「該当作なし」と書いたことがある。

 投稿された封筒の厚みは、誰かの人生を丸ごと飲み込んだかのように、分厚かった。

 僕はその重みを両手で感じ、選評を書いた。


『該当作なし。

応募作品全体として、既存の文学に依拠し、自身の内面を掘り下げた作品がなかった。

言葉を磨き、読者と向き合うという誠実さが不足している。』


 それは、作者の名前すら記憶に残らないほど、冷たい判定だった。その言葉は、誰かの人生を切り捨てるための刃だった。


 スマートフォンの画面をスクロールする。同業者が書いた書評のX投稿が流れてくる。僕は、その「いいねの数」を秒単位で比較した。一つでも僕の投稿の「いいね」の数が多いと、僕は、その日の午前の仕事を終えたような達成感に浸ることができた。


 僕の人生は、乾いた砂漠だった。どこまでも続く、ただただ平坦な砂の道。僕は、その砂漠を歩くことに慣れきっていた。僕の定規は、この砂漠を歩くための、唯一の羅針盤だった。


 原稿の束をかき分けるたび、紙の縁が指先をわずかに削った。コピー用紙二百枚。そのうちの一枚が、僕の生活をひっくり返すとは思えなかった。


 それは、タイトルも作者名もない、無署名の原稿だった。紙は薄く、文字は鉛筆で書かれており、所々擦れて読みにくい。書評家として、僕はまず「体裁」を評価する。この時点で、この原稿は「該当作なし」と判定されるべきものだった。


 しかし、僕はページをめくる手を止められなかった。その原稿は、物語の体裁をなしていなかった。登場人物も、筋書きも、結末もない。ただ、風景や感情の断片だけが、脈絡なく綴られていた。


 僕は、その意味不明な文字の羅列を、まるでパズルのピースを探すように、じっと目で追った。そして、僕はその一文に、決定的に胸を射抜かれた。


「誰も評価しない、私の影が、月に一度だけ虹色に輝く」


 行末の鉛筆は途中で芯が折れたらしく、単語の輪郭が毛羽立っている。その行頭には、微かな鉛筆の消し跡が残っていた。それは、作者が一度、この言葉を消そうとした痕跡のように見えた。


 僕の頭の中では、ただ一つの言葉が、まるで故障したレコードのように繰り返されていた。「該当作なし」。この原稿は、僕の評価システムを、そして僕自身の存在を、揺るがす最初の異物だった。


 その翌日、僕は編集長に呼び出された。藤沢は、僕の酷評が若手作家を追い詰めたという噂を耳にしていた。彼の顔には、いつもの嘲笑的な響きではなく、ただ純粋な困惑が滲んでいた。


「お前、本当にこの作品、駄目だと思ったのか?」


 若手作家がXで自殺未遂を起こしたと知った。幸い命に別状はなかったが、作家のSNSには「底辺の書評家が」「お前は才能を殺した」といった誹謗中傷が溢れかえった。


 僕は、辞職願を提出した日、編集部の最上階から街を見下ろした。ガラス張りのビル、緻密な碁盤の目のように区切られた道路。それは、僕がこれまで築いてきた砂の王国の領土だった。


 社屋を出た直後、僕は、強烈な耳鳴りに襲われた。

 耳鳴りが、世界を飲み込む。

 音が、消える。

 僕は、ただ、そこにいた。

 ただ、いた。

 ただ。


 駅のゴミ箱の前で、僕は、財布から全てのカード類を取り出した。クレジットカード、ポイントカード、そして、僕の名刺。「書評家 春樹」と書かれた名刺は、僕の誇りだった。しかし、今の僕にとっては、ただの空虚な肩書きにすぎない。僕は、それらをまとめてゴミ箱に捨てた。


 その時、耳鳴りは止み、世界は再び音を取り戻した。だが、その音は、僕が知っている音とは違っていた。それは、僕が書評家として聞いていた、定規で測られた音ではなかった。


 僕は、その音に導かれるように、電車に乗って、都内の下町へと向かった。Googleマップを開く。地図は真っ白で、僕の現在地は表示されない。画面には、ただ「圏外」とだけ表示されていた。僕は、道に迷うことを恐れなくなった。


 僕はただ、曲がり、戻り、立ち止まる。路地の壁には、「立入禁止」と書かれたプレートが風にカタカタと音を立てていた。その音は、僕の心を揺さぶり、僕がこれまでどれだけ、安全な場所だけを歩いてきたのかを、教えてくれた。


 やがて、僕は、目的のアパートを見つけた。それは、再開発から取り残された、木造の古い建物だった。アパートの入り口には、埃をかぶった表札が、かすかに傾いていた。


 僕は、あの「該当作なし」のアパートの一室に住むことにした。


 僕は、この部屋で、ただ、生きていた。誰かに評価されるためでもなく、誰かの期待に応えるためでもなく、ただ、自分自身のために。


 この部屋にいても、時々、定規の幻影が頭をよぎる。それは、僕の人生の羅針盤だった。幻影は、僕に、この部屋は評価される場所ではないと囁き続けていた。


 ある日、僕は、部屋の隅に置かれた、埃をかぶった段ボール箱を見つけた。それは、この部屋の前の住人が残していったものだった。僕は、その箱を開けることにした。


 箱の中には、古い写真、書きかけの手紙、そして、一枚の楽譜が入っていた。楽譜には、タイトルも、作者の名前もない。ただ、不揃いな音符が、脈絡なく並んでいた。


 僕は、その楽譜をじっと見つめた。それは、かつて僕が読んだ、「該当作なし」の原稿と、どこか似ていた。


 僕は、大学の軽音サークルで、鍵盤をかじっていた。誰かの真似ではなく、ただ自分だけの音を探していたあの頃。だが、いつしか僕は、その音を、世間の評価という定規で測るようになった。


 僕は、部屋の隅に置かれた、古いアップライトピアノに座った。指が、鍵盤に触れる。その指先から、音符が、静かに、しかし力強く響いていく。僕は、その楽譜に、僕自身の音を重ねてみた。


 その時、隣の部屋から、サックスの音が聞こえてきた。それは、楽譜にない、自由な即興演奏だった。僕の奏でるピアノの音に、隣のサックスが、そっと応えてくれた。


 そして、その日の午後、僕は若手作家に会いに行った。Zoomを使った医療面会アプリ。画面に映る彼の顔は、痩せ細り、まるで僕の酷評が彼の命を吸い取ったかのように見えた。


「死んでしまえばよかったのに」


 彼は、かすれた声で言った。

 僕は何も答えられなかった。ただ、僕の胸の奥で、かすかに何かが軋んだ。それは、痛みだった。


 その夜、僕は部屋で、再びピアノに向かった。手紙の断片に書かれた「影の色」という言葉を思い出し、その楽譜を丁寧にノートに書き写した。そして、そのノートの表紙に、僕は、こう書いた。


「該当作なし」


 それは、誰にも評価されることのない、僕だけの物語の始まりだった。

 それは、誰にも見つけられない、しかし確かにここにある影の色だった。


 僕が部屋の窓を開けると、早朝の路地に、薄い虹が、一瞬だけかかった。虹は、ほんの一瞬だけ、壁に揺れた。僕が手を伸ばす前に、もう消えていた。


 僕は、そっとピアノの鍵盤に触れた。その指先から、かすかに血が滲み、白い鍵盤に、赤い染みが、静かに広がっていった。


 そして、その翌日。隣の部屋は、突然空き室になった。僕が聴いていたジャズの音は、もう二度と聞こえてくることはなかった。


 僕の人生は、乾いた砂漠だった。

 オアシスはまだ、蒸発の音を立てている。

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