第17話 京の奉行、新たな舞台
永禄八年(一五六五年)、京。
信長は、信虎の命により、荒廃した京の奉行として、都の復興を任された。桶狭間の戦いが、自らの才覚ではなく、信虎の「理」による計略であったことを知って以来、信長は、武力による天下統一という衝動を、一時的に封印していた。信虎の「理」が、武よりも恐ろしい力を持つことを、信長は肌で感じ取っていたからだ。
信長が京の地に降り立ったとき、都は見るも無残な姿を晒していた。家々の壁は崩れ、瓦礫の山が道を塞ぎ、焦げ付いた土の匂いが鼻をつく。かつて雅やかな調べが響いた御所は、屋根瓦が剥がれ落ち、雨風に晒され、その威厳を失っていた。空き家には、戦乱で住処を失った者たちが身を寄せ、あるいは盗賊の巣窟と化し、夜には不穏な人影が徘徊していた。京の民の顔には、飢えと疲弊、そして明日に希望を持てない絶望が深く刻まれていた。
信長は、武力で彼らを一掃するのではなく、信虎の「理」に倣い、論理的な方法で秩序を回復しようとした。彼は、まず「楽市楽座」を京に導入し、商いを活性化させた。
「商いは、人の心と心を繋ぐもの。活気ある商いは、人々の心を豊かにし、争いをなくす」
信長の言葉は、京の町人に深い感銘を与えた。信虎が甲府で築き上げた「虎判金」の流通を京にも広め、経済的な安定をもたらした。人々は、信長の奇抜な発想と、その行動力に驚きながらも、彼の改革が、日々の暮らしを確実に豊かにしていくのを実感していた。
信長は、治安の回復と並行して、文化の復興にも力を注いだ。戦乱で焼失した寺社や御所の再建を指揮し、都に散逸していた名物茶器や書物を、再び京へと集めた。信長は、茶の湯を深く愛し、茶の湯を通じて、公家や有力大名との交流を深めた。それは、信虎が甲斐で築き上げた「文化同化政策」の京における具現化だった。
ある日、信長は、再建された御所の庭で、一人、静かに茶を点てていた。そこに、信虎の使者が現れ、信虎からの書状を差し出した。信長は、書状を開き、信虎の言葉を静かに読んだ。
「信長よ、火は、すべてを焼き尽くすだけではない。火は、新たなものを生み出す、創造の力でもある。そなたの火を、この京の地で、未来を照らす灯火とせよ」
信長は、信虎の言葉に、深い感銘を受けた。信虎は、信長の内に燃える「火」を、決して否定していなかった。むしろ、その「火」を、武力ではなく、政(まつりごと)という形で発揮することを促していたのだ。
信長は、自らの内に秘めた「天下を武で統一したい」という衝動と、信虎の「理」による平和な世を築くという理念が、決して相容れないものではなく、互いを補完し合う関係にあることを悟った。彼は、自らの「火」を、破壊ではなく、創造のために使うことを決意した。
(俺の火が、京の瓦礫を焼き払い、人々の心を灯す…だが、この火はいつか制御を失うやもしれぬ。この熱は、人の心を熱狂させるが、同時に、すべてを焼き尽くす狂気にもなりうるのだ)
信長の胸に、一抹の不安がよぎった。信虎の「理」の元で、自身の「火」は秩序を保っている。しかし、もし信虎の「理」という楔がなければ、この炎は、再び制御不能な狂気へと戻ってしまうかもしれない。
京の町に、信長の改革を称賛する声が響き渡る。
「あの織田の若殿は、乱暴者と聞いていたが、民を深く思う、慈悲深いお方だ」
「武田様が築かれた平和を、この織田様が、さらに確固たるものとしてくださる」
信長は、民の声を聞き、信虎の「理」が持つ普遍的な力に気づき始めた。武力で支配するよりも、民の心を掴むことの方が、遥かに強固な支配の礎となることを、信長は、この京の地で学んでいた。
信長は、自らの「火」という炎で、信虎の「理」という秩序を、より強固なものへと変えていく。それは、信長が、武力と文治を融合させ、新たな時代を創り出す、最初の物語であった。
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奥日記:京の光
永禄八年(一五六五年)、霜月五日、晴れ渡る空
本日、殿(との)が京よりお戻りになられました。御所の者が伝えたところによれば、殿は、将軍様をお救いになられ、朝廷より「天下の政所の主」という、大役を任じられたとのこと。まことに、信じられぬことでございます。
京は、戦の火が収まり、静けさを取り戻したと聞きました。殿が京に入られて以来、信長様が復興に尽力され、家康様が財を整え、謙信様が北の守りを固めておられるとか。日の本全体が、殿の御手の内に収まりゆく。その背後にあった長年の苦労を思えば、わたくしは、ただ、胸が熱くなるばかりでございます。殿の御心が、いかに深きものか。わたくしには、この京の光が、殿の築き上げる「戦なき天下」の、始まりの光に見えまする。
京の人々は「織田殿の目には炎が宿っている」と噂しておりました。その炎は、京の荒廃を焼き尽くす炎か、それとも京の未来を照らす炎か。わたくしには、見当もつきませぬ。
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