第16話 桶狭間の計、そして再会
永禄三年(一五六〇年)、初夏。尾張の地は、張り詰めた空気に包まれていた。駿河の海道一の弓取り、今川義元が、二万五千もの大軍を率いて、京への上洛を企図し、尾張へと侵攻してきたのだ。織田家には、寄せ集めの兵がわずかに二千。誰もが、今川の大軍を前に、絶望の色を隠せないでいた。しかし、信長だけは、その目に狂気にも似た光を宿していた。
「面白い。これほどまでに絶望的な状況は、滅多にない。だが、これこそ、俺の火を燃え上がらせる絶好の舞台だ」
信長は、信虎の元で学んだ「理」を、この戦に適用しようとした。今川軍の慢心、そして、義元が本陣から離れ、少数の兵で桶狭間の地にいるという情報を、影書院の密使を通じて得ていた。それは、信長にとって、まさに神からの贈り物だった。
信長は、夜陰に紛れ、今川軍の本陣へと奇襲をかけた。
「者ども! 天下を獲るぞ!」
信長の叫び声が、夜の闇を切り裂く。
今川義元は、まさかの奇襲に動揺し、その首は、信長の家臣、毛利新助の手によって、呆気なく討ち取られた。
「勝った…勝ったぞ!」
信長は、歓喜の叫び声を上げた。桶狭間の丘の上に立ち、燃え盛る今川軍の本陣を前に、信長は確信していた。この勝利は、自らの武運と才覚によるものだと。信長の名は、一夜にして、日の本中に轟くこととなった。
「殿の采配は、まさに鬼神のごとし!」
「殿は、我々を信じておられた!これぞ、天下を獲る才覚よ!」
家臣たちは、信長を称え、その眼差しには、絶対的な畏敬の念が宿っていた。前田利家や柴田勝家といった古参の家臣たちも、信長の神懸かった采配を前に、ただひれ伏すばかりだった。信長は、その歓声と称賛を浴び、自らの武と才覚に酔いしれていた。
しかし、その歓喜は、長くは続かなかった。
数日後、信長の元に、一人の男が訪れた。男は、信虎の密使を名乗り、信虎からの書状を差し出した。書状には、信長が桶狭間の戦で勝利したことへの祝辞が記されていた。しかし、その書状の最後の一文に、信長は息をのんだ。
「信長よ、火が消えぬよう、水路は整えておいたぞ」
信長は、その言葉の意味を、一瞬にして理解した。彼が奇襲を成功させることができたのは、偶然ではなかった。今川義元が本陣から離れたという情報、そして、桶狭間の地へと義元の本隊を誘導するための、信虎の密使による情報操作。すべては、信虎が事前に仕組んだ、「理」による計略だったのだ。
信長の心臓は、激しく脈打った。その衝撃は、全身を駆け巡り、冷や汗が背中を伝う。手のひらが、書状を握りしめるあまり、わずかに震えていた。視界が、一瞬にして滲み、目の前の文字が歪んで見えた。桶狭間の勝利は、自らの才覚によるものではなかった。自分は、信虎の「理」によって、手のひらの上で踊らされていたのだ。信長の内に燃え盛っていた歓喜の炎は、一瞬にして、冷たい水にかけられたかのように、音もなく鎮火した。
「馬鹿な…」
信長は、書状を握りしめ、声にならない声で呟いた。信長は、天下を武で統一したいという衝動に駆られ、信虎の「理」に反発していた。だが、その「武」すらも、信虎の「理」の内に組み込まれていた。信長は、信虎の比類なき知略の前に、自分の存在が、あまりにもちっぽけなものに感じられた。
(わしは、あの男(信虎)の手のひらの上で踊っていただけか)
信長の心に、深い焦燥が湧き上がった。このままでは、自分は信虎の道具でしかない。信長は、信虎の「理」から、どうにかして、自らの「火」という衝動を解放しなければならないと、強く、強く感じていた。
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奥日記:桶狭間の日、静かなる策謀
永禄三年(一五六〇年)、皐月二十四日、晴天ながら風強し
今朝の台所は、まるで雀の群れのようでした。うちのこと幼馴染みの、今は信長様でしたか、あの尾張の若君が上洛するだの、せぬだの、女中たちが楽しげに話しておりましたの。
「今川の殿が大軍で京を目指すらしい」だとか、「尾張の若は、それに歯向かうつもりだとか」だとか、まるで他人事のように申しておりました。
ですが、お昼過ぎ。急に早馬が城へ駆け込んできて──今川の殿を、あの信長様が討ち取ったのですって。桶狭間とかいう、ちいさな丘のあたりで、まさか、と皆が騒いでおりました。
その報せを聞いた侍女たちが、一瞬、息を呑み、そして互いの顔を見合わせておりました。
でも不思議なんですのよ。
この間まで「上洛しよう」とか申していた今川の殿が、まるで何かに急かされるように、急に兵を動かしたと思ったら、あの尾張の若が、なぜか“偶然”その桶狭間という丘にいたなんて。
わたくし、先月、殿が御書院で一人、計尺(はかり)で筆を引いておられるのを、見かけましたの。その筆先、いま思えば──地図の、今川の名の上で、止まっていた気がいたしますのよ。殿の目には、まるで未来が見えているよう。神の目としか思えませぬ。
殿の御顔には、いつものように感情はございません。ただ、静かに頷かれただけ。
しかし、わたくしにはわかります。この静かなる采配こそが、戦の火の手を上げるよりも、恐ろしき力を持つことを。殿は、また一つ、大きな「点」を動かし、我らが見えぬ「線」を描かれたのでしょう。
けれど、その知らせを聞いた信長様の目は──歓喜の炎が消え、静かな、しかし、より強く燃え盛る炎の揺らめきでした。
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