第11話 星の導き、海への憧憬

永禄八年(一五六五年)の夜。甲府の武田館は、深い静寂に包まれていた。奥の一室で、千代は一人、蝋燭の灯りの下、南蛮船がもたらした星図を広げていた。紙は、日の本の和紙とは違う、ざらりと乾いた手触りだった。そこに描かれた夜空は、千代の知る天の川とはまるで違う、奇妙な線と記号に満ちている。千代は、その地図に描かれた、日の本が世界の果てではなく、巨大な海のほんの一点に過ぎないという事実に、胸の奥がざわつくのを感じていた。


障子の向こうから、微かに潮の香りが漂ってくる。それは、信虎の密命を受け、清水港から呼び寄せられた密航者たちの匂いだ。彼らは、南蛮船の水夫から得た、まだ誰も知らない海の向こうの物語を、千代に伝えるために来ていた。千代は、彼らの話を静かに聞いていた。彼らが語る声は、荒々しく、どこか粗野な響きを持っていたが、その言葉には、千代の心を揺さぶる、生々しい熱気が宿っていた。


「海の向こうには、黄金でできた国があるとよぉ」


密航者の一人が、目を輝かせながら語った。その男の頬には、潮風に焼かれた深い皺が刻まれている。千代は、彼の言葉を、信虎が語る経済論と重ね合わせて聞いていた。黄金の国。それは、武田が持つ金山を、さらに豊かにする可能性を秘めている。


「しかし、海は荒れ狂う。この地図に描かれた星に導かれなければ、生きては帰れませぬ」


別の男が、千代が広げた星図を指差した。その指先は、太く、そして深い傷跡に覆われていた。千代は、男の指先から、海の荒々しい息吹を感じた。嵐の夜、船が波に翻弄され、乗組員たちが恐怖に震える様子が、千代の脳裏に鮮明に浮かんだ。


密航者たちの話は、千代の心に、深い戸惑いをもたらした。彼女がこれまで学んできた世界は、京の雅と、武田の理で成り立っていた。それは、庭の石のように、揺るぎなく、秩序に満ちた世界だった。だが、彼らが語る世界は、荒れ狂う海のように、予測不能で、混沌としている。私は、この混沌を、受け入れて良いのだろうか。


千代は、密航者たちが持ち込んだ、海の向こうの物語に、心を奪われていた。彼らが語る異国の王や、奇妙な獣、そして見たこともない花々の話は、千代の好奇心を強く刺激した。千代は、彼らの話を、まるで物語の続きを求めるかのように、熱心に聞き入った。その声は、京の雅な言葉とは違う、どこか素朴で、人の心の奥底に直接響くような響きを持っていた。


「その国は、どのくらいの大きさなのですか」


千代が、恐る恐る尋ねた。


「さぁて……。しかし、我が故郷よりも、遙かに広うございます」


男は、そう言って豪快に笑った。千代は、その笑い声の中に、海の広大さと、人々の探求心の深さを感じ取った。


その日の夜、千代は信虎を訪ねた。書院には、信虎が夜更けまで書き物をしている姿があった。千代は、信虎に、南蛮船がもたらした星図と、密航者たちが語る海の向こうの物語について語り始めた。


「殿は、この海の向こうに、何をお求めなのですか」


千代の問いに、信虎は筆を止め、静かに千代の顔を見つめた。信虎の瞳の奥には、千代には見えぬ、遥か遠い未来の光が宿っているようだった。


「千代よ。人は、己の知らぬものに恐れを抱く。だが、その恐れを乗り越えた先にこそ、真の知がある。海は、ただの道ではない。それは、この日の本を、世界と結ぶ、知の道なのだ」


信虎の言葉は、千代の心に、静かな決意の光を灯した。このままでは、私は、京という小さな箱庭に閉じ込められたままだ。京の雅を愛する心は、私にとって何よりも大切なものだ。しかし、その雅を守るためには、私は、この混沌とした海を、知る必要がある。


それは、私の心の中にある、譲れぬ美意識への反発だった。私の愛する京の文化、故郷の美は、信虎様の「天下布武」のための道具にすぎないというのか。まるで、美しく咲き誇る花を、ただの飾り物として使うかのようだ。この違和感は、私の心の奥底に、静かな反発の炎を燃やし始めた。信虎様の描く平和のためには、この反発の炎を、消さねばならないのか。


いや、違う。この炎は、消すべきものではない。この反発こそが、私の心の中にある、譲れぬ美意識の証だ。信虎様がこの異国の品々を道具として利用するならば、私もまた、この炎を道具として使う。京の雅が持つ静謐な美と、南蛮の品々が持つ華やかな美を、一つに融和させる。京の文化が、甲斐という地で、南蛮の文化と出会い、新しい美を生み出す。それは、故郷の文化を、甲斐という地に根付かせる、私にしかできない使命だ。私の心の中で、反発の炎は、静かな決意の光へと変わった。その光は、遠い海の向こうを照らし、未来の扉を開く、小さな松明となった。


千代は、信虎の言葉を胸に、自室に戻った。再び星図を広げ、夜空を見上げた。


「わたくしは、この海を渡る……」


千代は、そう呟いた。その声は、誰にも届かなかったが、その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。


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奥日記:星の導き、海への憧憬


永禄八年(一五六五年)、霜月二十日、秋風の夜


奥にも、いよいよ異国の風が吹き込んできております。先日、殿(との)の御書院で、南蛮の宣教師なる方々がお目見えになったとか。奥の者たちは、その肌の色、衣の形に、皆、驚きを隠せぬようでした。


わたくしには、彼らが何を語り合ったのか、言葉は分かりませぬ。しかし、あの場に満ちる、殿の御心と、異国の「理」との衝突を、わたくしは、肌で感じておりました。遠くから聞こえる宣教師の声は、まるで別の国の神が、日の本に語りかけているかのようでした。


殿の御顔には、いつものように感情はございません。ただ、静かに、遠くを見つめておられるだけ。しかし、その瞳の奥には、新たな問いが宿っているように見えます。この日の本が、海の向こうの異国と、いかなる線を結んでいくのか。わたくしには、まだ、見当もつきませぬ。

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