第10話 見えざる手、奥の戦略
永禄八年(一五六五年)の秋。甲府の武田館の奥は、表向きは穏やかな空気に満ちていた。しかし、その静けさの裏では、微かなざわめきが常に響いている。それは、武田の奥が、単なる後宮ではなく、信虎の天下布武を支える、高度な情報中枢として機能している証だった。千代は、大井夫人とともに、奥の運営を本格的に担い始めていた。
その日の午後、奥の広間では、定期的な報告会が開かれていた。奥女中たちが、各地を巡る歩き巫女から集めた情報を持ち寄るのだ。部屋には、伽羅の香が静かに焚かれ、柔らかな陽光が、磨き上げられた床に、静かな光の帯を描いていた。その光景は、京の雅な集いに酷似していたが、交わされる言葉の重みは、まるで違った。
「駿河の今川殿の奥では、姫君たちが京の文化を学ぶことになり、その費用で金山が傾いているとの噂にございます」
若く、緊張した面持ちの奥女中が、静かに報告した。その声は、どこか遠い他国の出来事を語るかのように、淡々と響く。しかし、その言葉の裏には、信虎の緻密な計略が隠されていることを、千代は既に知っていた。文化を広めることで、相手国の財力を静かに削っていく。それは、刀を抜かずに敵を弱らせる、信虎の得意とする策だった。
「ほかに、何かございますか」
大井夫人が、穏やかな声で促した。彼女の瞳は、まるで静かな水面のように、報告をする女中を見つめている。
「……はい。越後の謙信様は、未だ関東管領の任を疑い、武士の義を重んじておられるとか。関東の民は、武田の理ではなく、謙信様の武を信じる者も多いと、歩き巫女たちは囁いております」
その言葉に、奥の女性たちの間に、微かなざわめきが広がった。
「武士の義と、殿の理……どちらが正しいのかしら」
「殿の治める国に戦はない。それが何よりの正しさではないか」
奥女中たちの意見は、大きく二つに分かれた。一方には、信虎が築いた揺るぎない平和を信じる者たち。もう一方には、武士の義という、千代が京で学んだ清らかな思想を重んじる者たちがいた。千代の心は、両者の間で揺れ動いた。
千代は、大井夫人と協力し、奥を情報分析と戦略立案の中枢へと進化させていった。奥の女性たちは、単なる情報収集だけでなく、その情報が持つ意味を読み解く術を学んだ。大井夫人は、京の文化や雅を愛しながらも、その美しさの裏に潜む人の心を深く理解していた。彼女は、京の雅を単なる飾り物ではなく、人心を掌握し、外交を円滑に進めるための武器として捉えていた。
千代は、その大井夫人の姿から、多くのことを学んだ。彼女は、自らが京で学んだ和歌や茶の湯、礼儀作法が、この武田の奥で、外交官としての役割を果たすための重要な素養となることを理解した。かつては、ただ風雅を楽しむためだけに学んだそれらが、今や、国の行く末を左右するほどの重みを持つようになった。
この日、千代は自らの内に、ある違和感を覚えた。
私の愛する京の文化、故郷の美は、信虎様の「天下布武」のための道具にすぎないというのか。まるで、美しく咲き誇る花を、ただの飾り物として使うかのようだ。この違和感は、私の心の奥底に、静かな反発の炎を燃やし始めた。私は、この炎を、どうすれば良いのだろう。信虎様の描く平和のためには、この反発の炎を、消さねばならないのか。
千代は、報告会が終わった後も、一人、広間に残っていた。静かに香炉から立ち上る煙を見つめる。その煙は、まるで京の五重塔から立ち上る線香の煙のようだった。あの頃、私は、ただただ美を愛でることしか知らなかった。和歌に心を寄せ、花に心を震わせ、琴の音色に心を癒されていた。しかし、今、この奥で私がしていることは、美を愛でることではない。美を使い、人を操り、国を動かすことだ。
それは、私の心を深く、そして確実に蝕んでいく。私の愛する京の文化は、果たしてこの甲斐という地で、その美を保てるのだろうか。
「……違う」
千代は、小さく呟いた。
「この炎は、消すべきものではない」
この反発こそが、私の心の中にある、譲れぬ美意識の証だ。信虎様がこの異国の品々を道具として利用するならば、私もまた、この炎を道具として使う。京の雅が持つ静謐な美と、南蛮の品々が持つ華やかな美を、一つに融和させる。京の文化が、甲斐という地で、南蛮の文化と出会い、新しい美を生み出す。それは、故郷の文化を、甲斐という地に根付かせる、私にしかできない使命だ。私の心の中で、反発の炎は、静かな決意の光へと変わった。その光は、遠い海の向こうを照らし、未来の扉を開く、小さな松明となった。
千代は、その夜、奥日記を広げ、筆を執った。
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奥日記:見えざる手、奥の戦略
永禄八年(一五六五年)、霜月五日、晴れ渡る空
奥にも、風の気配が満ちております。近頃、殿(との)の御側には、見慣れぬ若き者たちが姿を見せるようになりました。皆、鋭い目をしております。尾張や駿河からの不穏な動きが、政庁に報告されているとか。京の都の騒がしさは、こちらにも伝わってまいります。
殿は、変わらず静かに書を読み、庭の石を眺めておられます。しかし、その瞳の奥には、かつて見たこともないほどに、大きなうねりが宿っているように見えます。まるで、見えぬ嵐をその身に感じ、来るべき波濤に備えておられるかのようです。そのお姿は、恐ろしささえ感じさせます。
わたくしには、何が起こるのか、まこと恐ろしゅうございます。けれども、殿が静かに動き出されたならば、それはきっと、この国の、いや、この日の本の未来のためなのでしょう。そう信じて、わたくしは、ただ、奥の戸を固く閉ざし、静かに祈るばかりでございます。
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(奥日記:後日の追記)
天文十二年(一五四三年)、師走二十五日、雪の舞う日
今日、若狭武田の姫、千代様が甲斐へとおいでになられました。まだ十六、七歳と聞きましたが、その御身から放たれる清らかな気品は、わたくしなど、到底及ばぬものがございます。殿は、よほどこの縁組を喜んでおられるご様子。千代様は、奥に入られるや否や、庭の梅の木を眺め、静かに和歌を詠まれました。殿もまた、その御歌に深く耳を傾けておられました。わたくしは、この奥が、ただの姫君の住まう場ではなく、殿が思い描く「天下を繋ぐ柱」となるのだと、改めて確信いたしました。千代様は、きっと、この甲斐の奥に、新たな息吹をもたらしてくださるでしょう。
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