第12話 未来への筆、旅立ちの決意

永禄十年(一五六七年)の冬。甲府の武田館は、深い静寂に包まれていた。信虎の死後、館全体が、重く、張り詰めた空気に満ちている。雪は音もなく降り積もり、すべての音を吸い込んでいくかのようだ。千代は、信虎が最期を過ごした書院で、大井夫人とともに、遺された品々を整理していた。


部屋には、信虎が愛用していた伽羅の香が、微かに残っている。それは、信虎の冷徹な理と、穏やかな人柄を象徴するような、深く、静かな香りだった。千代は、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。その香りは、信虎がまだこの部屋にいるかのような、錯覚を千代に与えた。


「殿は、まこと、遠い旅にお出かけになられましたな」


大井夫人が、静かに呟いた。その声は、雪の静寂に溶け込むかのように、か細く響いた。大井夫人の手には、信虎が愛用していた筆が握られている。その筆は、信虎の生涯を綴るために、数えきれないほどの文字を記してきた。しかし、今は、その筆が記す未来は、信玄に託された。


千代の胸には、ぽっかりと穴が開いたような、深い喪失感が広がっていた。信虎という巨大な存在が消えた今、この国の未来は、いかにして描かれていくのだろうか。千代は、この唐突な旅立ちに、深い戸惑いを覚えていた。まるで、船を漕ぎ出そうとした途端に、航海を導く星が、空から消えてしまったかのようだ。私の知る美は、自然の摂理に従い、季節の移ろいを愛でる心だった。それは、磨き上げられた石のような、揺るぎない美意識だった。だが、信虎様という星が消えた今、この石は、どこへ向かえば良いのだろう。


千代は、信虎の机の上に、一冊の古びた奥日記を見つけた。それは、信虎が、この奥で過ごした日々を、静かに綴ったものだった。千代は、その日記を、震える手で開いた。紙は、信虎の温かさを宿しているかのように、微かに温かかった。


その日の夜、千代は自室に戻り、奥日記の最後の頁を開いた。そこには、大井夫人の筆跡で、信虎の最期の言葉が記されていた。千代は、その言葉を、何度も、何度も読み返した。


信虎様は、この日記を、私に託された。この日記には、信虎様がこの奥で、何を思い、何を成そうとしたのかが記されている。そして、その終着点は、私たちがこれから歩むべき未来を示している。


千代の心は、深い戸惑いと、信虎の legacy の重みに、押しつぶされそうになっていた。私は、この巨大な遺志を、本当に受け継ぐことができるのだろうか。私の京の文化は、信虎様の「天下布武」のための道具にすぎなかったのではないか。美しく咲き誇る花を、ただの飾り物として使うかのように、私の文化を利用したのではないか。


千代は、心の奥底で、静かな反発の炎を燃やし始めた。信虎様の描く平和のためには、この反発の炎を、消さねばならないのか。


いや、違う。この炎は、消すべきものではない。この反発こそが、私の心の中にある、譲れぬ美意識の証だ。信虎様がこの異国の品々を道具として利用するならば、私もまた、この炎を道具として使う。京の雅が持つ静謐な美と、南蛮の品々が持つ華やかな美を、一つに融和させる。京の文化が、甲斐という地で、南蛮の文化と出会い、新しい美を生み出す。それは、故郷の文化を、甲斐という地に根付かせる、私にしかできない使命だ。私の心の中で、反発の炎は、静かな決意の光へと変わった。その光は、遠い海の向こうを照らし、未来の扉を開く、小さな松明となった。


千代は、自らの手で、奥日記の最後の頁に、筆を走らせた。その筆跡は、大井夫人のそれとは違う、力強く、そして、どこか希望に満ちたものだった。


「海の向こうには、日の本とは異なる文化と人々がいる。その理を理解することこそが、信虎様の目指す『和合』の道なのだろうか」


そう記し、千代は自らの探求心が、信虎の「理」と重なり合うことを感じていた。異国の香りは、彼女の心に、遠い海の向こうへの憧憬と、自身の使命を静かに燃え上がらせていた。


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奥日記:未来への筆、旅立ちの決意


永禄十年(一五六七年)、師走二十五日、雪積もる夜


深々と雪が降る、静かな夜でございます。


殿(との)は、遠い旅にお出かけになられました。日の本の戦は、すべて終わったと、殿は仰せられました。武田の兵が動かずとも、世は殿の御心に帰しました。英傑と謳われる方々も、皆、殿の御心に応え、それぞれの任を果たしておられます。この平和は、まこと、殿が築き上げたものでございます。


晴信様(信玄)が、新たな殿となられました。日ごと、政(まつりごと)に励んでおられます。先日、晴信様は、殿(信虎様)が遺された「政の要諦」の書を、深く読み込んでおられました。その眼差しは、父から子へ、託された重き御心を示しておりました。


奥では、千代様(若狭武田の姫)が、幼い姫君たちに、南蛮の星図を教えておられます。あの子らもまた、いずれは武田の縁を各地に繋ぐ、新たな役目を担うのでしょう。わたくしの胸には、深く、そして確かに、殿が築きし「戦なき天下」の、確かな胎動が響いてまいります。この平和が、永劫に続くことを、心より願うばかりでございます。


都の空は、この甲斐の空と同じ色。されど、その先に広がる海は、我らが見ぬもの──。

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