第三話 恐怖の真実

 美優との出会いから一ヶ月が経った。和人の身体は明らかに異変をきたしていた。


 朝、洗面台で歯を磨きながら鏡を見る。頬はこけ、目の下にはくっきりとクマができている。体重も五キロは落ちただろう。しかし一番恐ろしいのは、鏡に映った自分の輪郭がぼんやりとしていることだった。


 ――まるで焦点が合っていない写真のようだ


 自分の存在感が薄れている、そんな感覚を覚え始めていた。



 会社でも、


「風邪が長引いてるみたいですね」


 同僚の佐藤に心配される。


「ええ、なかなか治らなくて」

「病院は行きました? 本当に心配になるくらい痩せてますよ」


 和人は曖昧に微笑んだ。病院に行くことは考えていた。でも美優に心配をかけたくない。それに彼女の手料理を食べていれば、きっと体調も良くなるはずだ――そう信じたかった……




 その日の夕方も、いつものように美優のマンションを訪れた。インターホンを押すと、美優の明るい声が響く。


「いらっしゃい! 今日は特別なメニューを用意したの」


 ドアを開けた美優を見て、和人は息を呑んだ。一ヶ月前に出会った時よりも、さらに美しくなっている。肌は陶器のように滑らかで、髪は絹糸のような艶を放っている。まるで女神のような神々しさだった。


「鈴木さん、どうかしました?」

「あ、いえ、美優さんがあまりに美しくて、見とれてしまいました……」

「ふふふ……」


 心から嬉しそうに笑う美優。その笑顔を見ていると、自分の体調の悪さも忘れる。


 部屋に入ると、今日もテーブルには豪華な料理が並んでいた。しかし和人には、それらがすべて同じようなモノクロの色彩に見えた。味覚だけでなく、視覚にも異常が現れ始めているようだ……


「今日は体調はいかがですか?」


 美優が心配そうに尋ねる。そんな彼女に、和人は作り笑いを浮かべた。


「少し疲れが取れなくて。でも美優さんの料理を食べれば元気になります」


 そう言って食事に手を付ける。でも実際には、もう何を食べても味がよく分からなくなっていた。それでも美優を失望させたくなくて、精一杯感想を述べていく。


「実は今日の料理には、滋養強壮に良いと言われる特別な食材を使ったんですよ」


 美優はいつものようにメモ帳を取り出す。


「どんな食材ですか?」

「企業秘密です。――でも鈴木さんにはきっと効果があると思います。さあ、召し上がって」


 和人はフォークを手に取った。しかし手に力が入らない。フォークが震えている。


「大丈夫?」


 美優が立ち上がろうとした瞬間だった。和人の手からフォークが滑り落ち、床に音を立てて落ちた。


「すみません、ちょっとトイレを」


 和人は慌てて立ち上がった。しかし足元がふらつき、テーブルに手をついてしまう。それでも、どうにかトイレへと向かい、そこでどうにか息を整える。しかし、体調は戻らない。そこで、部屋に戻り、その事を美優に正直に告げると、


「そこのソファーで休んでください。何かのど越しのよいスープでも用意しますから」


 とキッチンへと消えていった。


「……スープね」


 この状態でも料理か、と和人はため息をつく。ソファに座り込んだまま、ぼんやりと部屋を見回した。すると、本棚の隙間から何かが落ちているのに気づいた。近づいてみると、それは一冊の手帳だった。

 好奇心に駆られて手に取る。表紙には「調理記録」と書かれている。料理のレシピ帳だろうか?


 パラパラとページをめくってみた。しかし、そこに書かれていたのは料理のレシピではなかった。


『佐伯健太郎(28歳・商社勤務)

初回:甘味への反応良好。生気の流出率15%

2週目:塩分で効果促進。流出率35%

3週目:うま味での仕上げ。流出率65%

最終:透明化完了。美味』


 和人の手が震えた。ページをめくる。


『田所雄一(35歳・公務員)

初回:酸味に敏感。生気の流出率20%

2週目:辛味で促進。流出率40%

3週目:複合調味で加速。流出率70%

最終:透明化完了。非常に美味』


 心臓が早鐘を打った。さらにページをめくる。写真が貼られているページがあった。


 最初の写真では普通の男性が笑顔で写っている。しかし次の写真では同じ男性の輪郭がぼやけている。その次では、さらに薄くなり、最後の写真では、ほとんど透明になっていた。背景の壁紙が男性の身体を透けて見えている。


「嘘…だろう……」


 和人は震え声でつぶやいた。さらにページを進める。そして、自分の名前を見つけた。


『鈴木和人(32歳・会社員)

初回:正直な反応で理想的。生気の流出率18%

2週目:味覚鈍化確認。流出率42%

3週目:視覚異常開始。流出率68%

現在進行中。予想よりも早いペースで衰弱。今までで最も効率的な対象』


 写真も貼られていた。コンビニで初めて会った時の和人。そして一週間後、二週間後――確実に薄くなっている自分の姿がそこにあった。


「ああぁ……」


 声にならない悲鳴が口から漏れた。手から滑り落ちた手帳が、鈍い音を立てて床に転がる。


(なんなんだ、これは――!? いったい彼女は、美優さんは何者なんだ!)


 頭の中で疑問が駆け巡る。頭が割れるように痛む。


「あら、鈴木さん、どうしたの?」


 天使のように優しげな声に慌てて振り返ると、美優が、湯気の立つ深皿を手に立っていた。その顔は、かつてないほど若々しく、美しく輝いている。だが、今の和人には、その輝きが、恐ろしく感じた。


「あ、美優さん。その……」


 そこで、床に落ちた手帳を一瞥した彼女は、全てを悟ったように、しかし全く動じることなく、ゆっくりと微笑む。


「……見てしまったのね」


 その声は、何の感情も含まれていない冷たいものだった。


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