第二話 甘美な日々と違和感

 美優との出会いから二週間、和人の生活は劇的に変わっていた。


 毎日のように美優から連絡が来る。「今日は新しいレシピを試したの」「鈴木さんの好みに合わせて味付けを変えてみました」そんなメッセージと共に、手料理への招待が届く。

 和人は断る理由を見つけられなかった。いや、断りたくなかった。あんな美しい女性が自分のために料理を作ってくれる。こんな幸せがあるだろうか。


 仕事中でも、ついつい笑みがこぼれているのを和人は何度も感じた。


「鈴木さん、お疲れ様でした」


 定時を過ぎ、同僚の佐藤が声をかけてくる。


「あ、佐藤さん。お疲れ様です」

「最近、残業しなくなりましたね。前は毎日のように遅くまで残ってたのに」


 和人は苦笑いを返す。確かに最近は定時で帰ることが多い。もちろん、美優が待っているからだ。


「ええ、まあ、効率良く仕事するように心がけてるんです」

「彼女でもできたんですか?」


 茶化すようなその言葉に、思わず顔が熱くなる。


「そ、そんなことないよ。――じゃあ、また明日」


 図星を付かれたのを誤魔化し、和人はオフィスを足早に出た。




 美優のマンションに到着すると、いつものように丁寧に準備された食事が待っていた。今日のメニューはハンバーグとグラタン、それに色鮮やかなサラダ。


「いらっしゃい。今日は鈴木さんが前回美味しいっておっしゃってくださった味付けをベースに、少しアレンジを加えてみました」


 美優の笑顔は相変わらず眩しかった。


「ありがとうございます。いつも手の込んだ料理で申し訳ないです」

「とんでもない。鈴木さんの感想を聞くのが私の一番の楽しみなんです」


 微笑む美優を見つめ、和人はフォークを手に取った。まずハンバーグを一口。


「美味しいです」

「どんな風に美味しいですか?」


 いつもの質問が始まった。


「えっと、お肉の旨みがしっかりしていて――」

「旨みはどの辺りで感じますか? 舌の上? それとも喉の奥?」


 和人は戸惑った。そんな細かいことまで考えたことがない。


「舌の、上の方でしょうか……」


 美優は熱心にメモを取る。その集中ぶりは尋常ではない。和人は奇妙な感覚を覚えた。しかし、すぐに次の質問が飛んできて、食べた味へと意識を集中する。


「ソースの甘みはいかがですか? 前より少し砂糖を増やしたんです」

「え、ええ、美味しいです……。その、確かに甘味が以前よりいい具合に増して――」


 食事が進むにつれて、美優の質問はさらに詳細になった。


「グラタンのチーズの溶け具合はどう感じますか? 口の中でどんな風に広がりましたか?」

「飲み込む時の感覚はどうでしたか? 喉を通る時に何か特別な味わいはありましたか?」

「最初の一口と最後の一口で、味の感じ方に変化はありましたか?」


 和人は段々と答えに窮し出した。そんなことまで意識して食べたことがない。でも美優の期待に応えたくて、懸命に感想を絞り出した。


「チーズが、なめらかで、口の中で…とろけるような」

「とろける感覚の持続時間はどのくらいでしたか?」

「持続時間?」


 和人は困惑した。食べ物の味に持続時間なんて考えたことがない。


「あの、そこまでは……」

「そうですね、すみません」


 美優は慌てたように手を振った。


「つい熱中してしまって。でも鈴木さんの感想は本当に参考になるんですよ、ふふっ」


 微笑む彼女に和人は思わず見とれ、美優の執拗なまでの質問攻めについての奇妙さを、一瞬で忘れ去った。




 その夜、和人は自宅で鏡を見詰めていた。なんとなく顔色が悪いように思える。


「疲れているのか……。いや、それとも――」


 食べ馴れない料理の連続で胃が疲れているのかもしれない……


 和人は腹部を押さえる。

 美優の料理は確かに美味しい。それは間違いない。でも最近、味がよく分からなくなってきていた。

 今日のハンバーグも、美味しいことは美味しかった。でもどんな味だったかと問われると、うまく答えられない。全体的にぼんやりとした印象しか残っていないのだ。


「……何かがおかしい。やっぱり、疲れているのか?」


 そう思った時、スマホが鳴った。美優からのメッセージだ。


『今日もありがとうございました。鈴木さんの感想のおかげで、また一歩理想の味に近づけた気がします。明日も新しいメニューでお待ちしています♪』


「はぁ…、明日もか……」


 思わずため息をつきながら、すぐに返信する。もちろん、喜んで、と。



○   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○



 翌日の昼休み、和人は会社の食堂でカレーライスを注文した。しかしスプーンを口に運んだ瞬間、愕然とする。


「味が…しない――」


 いや、全くしないわけではないが、以前のように鮮明に味を感じられない。まるで舌に薄い膜が張ったような感覚だった。


「鈴木さん、大丈夫?」


 隣に座った佐藤が心配そうに見ている。


「あ、はい。ちょっと疲れてるみたいで」

「顔色悪いですよ。ちゃんと食べてます?」


 和人は苦笑いした。毎日美優の手料理を食べているのに、ちゃんと食べていないように見えるとは。


「最近、味覚が少し鈍ってるみたいで。風邪の前兆でしょうか」

「お大事に。あまり無理しちゃダメですよ」


 佐藤はそう言って席を立った。残された和人は、一人、味のしないカレーライスを見つめ、自分の体はどうなってしまったのかと、頭を悩ませた。




 その夜も美優の部屋で夕食をとった。今日のメニューは魚料理とリゾット。いつものように美しく盛り付けられている。


「鈴木さん、今日は体調がすぐれないようですね」


 美優が心配そうに見ている。


「分かりますか?」

「ええ。お顔の色艶が少し……。でも大丈夫、私の料理で元気になっていただきますから」


 美優の笑顔は変わらず美しかった。しかも今夜は、その美しさがより際立って見える。肌の透明感、髪の艶、瞳の輝き。まるで内側から光を放っているように和人は感じた。

 そんな美優に見とれながらも、和人は魚を一口食べた。


「……」


 味はする。確かに美味しい。でも昨日よりもさらにぼんやりとした印象だった。


「いかがですか? 今日は特別な調味料を使ったんです」


 美優の目が期待に輝いている。


「美味しいです。でも、すみません、ちょっと味覚が鈍ってるみたいで、詳しい感想が……」

「それでも構いません。感じたままを教えてください」


 美優の声には今まで以上の熱がこもっていた。まるで和人の衰弱した味覚こそが、彼女の求めていたものであるかのように。


「そう…ですね……、この魚料理は――」


 和人は懸命に感想を絞り出した。美優はその一つ一つを、まるで宝物のようにノートに記録していく。

 そんな彼女を見て、和人の脳裏に一瞬の疑問がよぎった。


 ――美優は本当に料理の腕を上げたいだけなのだろうか?


(どうして、これほどまでに味の感想にこだわるのだろう……)


 しかしその疑問は、美優の眩いばかりの笑顔によって、すぐにかき消されてしまった。


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