県大会2回戦 敗退後

コートを出た白石は、ラケットを握ったまま足を止めていた。

手のひらがまだ震えている。

試合は終わった――けれど、心はまだどこかで続いていた。


「お疲れさま」

振り返ると、一ノ瀬が立っていた。

少し離れた場所から、落ち着いた声でそう言う。

白石は慌てて頭を下げた。

「……ありがとうございます」


「いい試合だったよ」

その一言が、かえって胸に刺さる。

白石はかすかに唇を噛んだ。


「……いい試合、なんて言えません。

 一つも取れなかったんです。途中から、斧中さん……きっと手を抜いてくれてたと思います」


一ノ瀬は少しだけ目を見開いた。

「手を抜く? 斧中が?」

「だって……あの人、ずっと笑ってて。

 私が打ち返せないときも、“大丈夫だよ”って顔をしてました。

 あんなに余裕のある人、初めて見ました」


彼女の声は静かだったが、苦い色が滲んでいた。

(相手が優しく見えると、自分が弱いように思えてしまうのか)

一ノ瀬は胸の奥でそう思いながら、何も言えずにいた。


「……本気でやってたよ、斧中は」

やがて、ゆっくり言葉を選んで口を開く。

「たぶん、斧中は楽しんでただけだ。白石さんのプレーを見て――純粋にさ」


白石はうつむいたまま、答えなかった。

「でも、結果は同じです。試合になりませんでした。

 ……不甲斐なくて、悔しくて、情けないです」


一ノ瀬は息を吐く。

彼女の声が震えるたび、冷たい風がその震えを増幅させるようだった。

(違う。君は十分戦ってた……)

そう言葉に出しかけて、結局、口を閉じた。


無理に慰めても、彼女はきっと信じない。

それどころか、自分を甘やかされたと思って、また責めてしまうだろう。


代わりに、一ノ瀬は柔らかく言った。

「……冷えてきたね」

「え?」

「もうすぐ春なのにさ。風がまだ冬みたいに痛い。手も少しかじかむし」


白石は一瞬きょとんとして、それから小さく微笑んだ。

「……そうですね。汗が止まらないのに、少し肌寒いです」


二人の間に、静かな間が流れた。

別のコートから、ラケットの打球音が響く。

北条由佳と小暮梨花が、試合の準備を始めていた。


白石はコートの方を向いたまま、ぽつりと呟いた。

「北条さん、落ち着いてますね。大人っぽい方ですけど、初対面の私にも気さくに挨拶してくださって……素敵な人だなって思いました」


一ノ瀬は頷く。

「うん。北条さんは、芯が強い。緊張しても表に出さない。

 テニスクラブの娘さんだけど、鼻にかけたりしない。

 見た目は優雅だけど、話すと意外と気さくだよ」


「……小暮さんは、ちょっと怖いですけど」

「小暮さんは……決して悪い人じゃない。不器用なんだ。真っすぐすぎるんだと思う」


白石はその言葉に、ほんの少しだけ表情を和らげた。

風が頬を撫で、タオルの端を揺らす。


「風邪引かないように、気をつけて」

一ノ瀬がタオルを差し出す。

白石は一瞬ためらってから、それを受け取った。

「……すみません」


空を見上げると、雲がゆっくりと厚みを増していた。

陽光が薄れ、光の色が変わっていく。

どこか湿った空気も、肌で感じる。


一ノ瀬はそんな空を見上げながら、隣の白石をそっと見やった。

彼女はまだうつむいたまま、ラケットのグリップを強く握っている。

その姿に、一ノ瀬の胸の奥が、ほんの少しだけざわめいた。


(……やっぱり、自分を責めすぎてるような)


春の風が、冷たく吹き抜けた。

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