休憩中⑤
※この回には心理的な圧力を想起させる描写が含まれます。気分がすぐれないときは無理せずお読みください。
---
北条の試合が終わり、拍手が遠ざかっていく。
観客の波が散っても、白石はまだベンチに座っていた。
風が頬をかすめ、ラケットのフレームがかすかに鳴る。
何かを思い出すように、彼女の肩がわずかに動いた。
「――荷物番……!」
立ち上がった白石の声が、空気を切る。
通路の先で一ノ瀬が振り返った。
「どうしたの、白石さん」
「わ、私……先輩たちに荷物、任されてたんです。試合してたから……忘れちゃって…!」
声が上ずる。
一ノ瀬が言葉を探す間もなく、白石はバッグを掴み、走り出した。
---
白石の足音が遠ざかる。
北条は腕を組み、視線でその背中を追った。
静かな空気が流れ、彼女は小さく息をつく。
「私は…
「……ちょっと覗いてくる」
「…何かあったら教えて」
「わかった」
一ノ瀬は短く答え、ゆっくりと立ち上がった。
足元の砂が、わずかに音を立てた。
---
会場内の喧騒のすぐ外側とは思えないほど、その場は静かだった。
木陰に数多のバッグが並んでいる。
その上に立つ先輩たちが、冷たい影を落としていた。
「…白石さぁ…なに勝手に持ち場を離れてんだよ」
「どこ行ってたの?すっぽかしてさ。何か盗まれたらどうするつもりだったんだよ?」
白石は息を整え、かすかに首を下げた。
「すみません……自分の試合が重なってて……」
風がベンチをすり抜け、ラケットのストリングスが震える。
「試合?自分の試合時間くらい把握しなさい」
「相変わらず自己管理がなってないよね」
「“試合はまだ先です”って言ってたの、あなたでしょ」
「えっ……さっき先輩がお昼からって――」
「何?人のせいにするの?引き受けたことすらまともにできない癖に」
白石の肩がかすかに揺れた。
返す言葉はなかった。
冷えた空気が、彼女の頬を撫でていく。
ベンチの金属部分が、薄い光を反射する。
誰も、そこに座ろうとはしなかった。
先輩のひとりが声を落とした。先程よりも顔つきが柔らかい。
「白石さん…朝の場所取りも、任せてあげたの、覚えてる?」
「はい……」
「白石さん。あなたのおかげで助かってるの。源嵜ヘッドコーチも“白石は気が利いてえらい、お前達も見習え”ってせっかく褒めてるのに」
「……はい」
「そんな真面目なあなただから、私たちはお願いしてるの。だから、もう困らたりしないでよ」
笑顔でそう言いながら、先輩たちは視線を交わし合う。
(白石、真剣になってやんの)
(シーッ、聞こえるって)
後ろにいた別の先輩が、くすくすと笑いをこぼした。本人には聞こえないように。
「……わかりました」
小さく頷いた白石の横で、先輩たちの笑みが深くなる。
けれども、その場に漂う空気は、どこまでも冷たかった。
---
――数時間前の朝のこと。
霜の残るフェンス沿い。
白石はタオルを首にかけ、冷えた指先をこすり合わせながら、ブルーシートの端を押さえていた。
風が吹くたび、シートがばさりと音を立てる。
少し離れた場所から、くぐもった笑い声が上がった。
――場所取りやりますって言ったから頼んだのに、こんな寒いところかよ…
――やりますっていうか、あんたがやらせたんでしょw
――別に喜んでたしいいじゃない。ね?
――そうそう、今日も楽させてもらたいし
小さな笑いが続いた。
白石には聞こえず、シートを押さえ直す。
白い息が、淡く空にほどけていった。
リーダー格の先輩が近づく。
「白石はえらいねぇ〜。朝からご苦労さま」
「いえ……すみません、良い場所取れなくて」
「……ねえ、ここの荷物番お願いできる?」
「えっと、私、試合時間を――」
「朝から大変だったでしょ? 少し休んでなさい」
「今日の試合、お昼からだよね? それまでに戻ってくるから。お願い」
白石が小さく頷くと、先輩は満足げに微笑み、温かい飲み物を手に談笑しながら去っていった。
早起きをした疲れか、それとも緊張から解放されたのか。
数分後、白石の意識は遠のき、まぶたがゆっくりと閉じた。
その場に残されたのは、白石と風の音だけ。
霜を踏む靴底の下で、ざくりと乾いた音がした。
遠くで流れる試合のアナウンスが、薄くかすれて届いていたが、今の彼女には届いていなかった。
---
「ねぇ、白石」
現実に戻る。
「このこと、コーチにも報告しておくね。最近ちょっと気が緩んでるみたいだし」
白石は小さく頷いた。
風が足元の砂をさらっていった。
落ちた影が、わずかに揺れる。
その背中が遠ざかると、空気が一段と冷たくなった。
---
「白石さん!」
通路の奥から、鋭い声が響いた。
静まり返った空気を破るように。
白石が顔を上げると、一ノ瀬がこちらへ駆けてくるのが見えた。
彼の足音だけが、風の中でくっきりと響いた。
冷たい空気が、肌にまとわりつく。
それでも――その声だけは、ほんの少しあたたかかった。
「彼女は試合だったんだぞ。危うく棄権するところだったんだ」
一ノ瀬の声が低く響いた。
「仲間なら、起こしてあげるべきだろ。……何を考えてる」
先輩たちは顔を見合わせ、凍りついたように沈黙した。
空気がぴんと張り詰める。
普段関わることのない全国区の選手が、顔をしかめている様子に選手達は慌てているようにも見えた。
「そんなつもりはないですよ〜」
「一ノ瀬さんの誤解ですよ〜ただ、私達は白石さんに荷物の見張りをお願いしてたんです」
ゲストや格上の人には物腰が柔らかくなる。クラブメイトのみでは決して受けることのない柔和、白石は無意識に安堵する。
「じゃあ試合時間を怠ったのは、あなたたちのほうじゃないのか?……まさか、わざとじゃ…ないよな?」
一ノ瀬の視線が冷たく突き刺さる。
その静けさに耐えきれず、先輩のひとりがしおらしくうつむいた。
「ち、違いますよ、一ノ瀬さん。」
「でも、そう捉えられても仕方ないですよね。」
「すみません〜以後気をつけますぅ〜」
「…そうしてくれ」
短く返した一ノ瀬の声は、氷のように冷たかった。
先輩たちは慌ててバッグを持ち上げ、足早にその場を立ち去った。
靴音が遠ざかり、再び風の音だけが残る。
最後に振り返った先輩のひとりが、冷たく笑った。
「お互い気をつけましょうね…特に白石さんはいつもぼんやりしてるんだから」
白石は何も言わず、ただ小さく頭を下げた。
その瞬間、髪が風に揺れ、陽の光をわずかに反射した。
一ノ瀬は黙ってその姿を見つめていた。
手の中の拳をゆっくりとほどいていくが、一ノ瀬の表情は固いままだった。
――なんだろあの人達…なんか気味が悪いな…
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます