休憩中③

北条さんの試合は終盤を迎えていた。

彼女から放たれる鋭いショットがライン際を突き、観客席からどよめきと拍手が上がる。


だが北条さん本人は、それを当然のように受け止めていた。

決めてもガッツポーズは見せず、声も控えめ。


「アウトです」「サイド、オーバーです」「40-0フォーティラブ


北条さんの透き通ったセルフジャッジの声が静かに響いていく。

呼吸を整えながら、流れていったボールを目で追い、淡々とベースラインに戻る。


その動作には、ためらいがない。

迷いも誇示もなく、ただ“次”を見ている。

次のポイントへ向かうその背中には、

揺るがない自信と、張りつめた静けさがあった。


白石さんは小さく拍手をしながら、その軌跡をじっと見つめていた。

少し離れた観客席では、星空さんと寺地さんの姿も見える。

星空さんは「がんばれ~」と声援を送りながらも腕を組み、真剣な表情で試合を追う。

隣の寺地さんは時折メモを取りながら何かをぼそぼそ呟いている。

二人の視線は一球も見逃さない。

同じクラブ同士であっても、北条由佳という存在は特別なのだと――

その雰囲気だけで伝わってくる。


「……すごいですね、北条さん」


「うん。迷いがない。ボールを“信じてる”って感じだ。彼女とは昔からの付き合いだけど、とても上手い。すごい参考になるんだ。彼女のバックハンドは」

一ノ瀬が答える。


彼女は少し笑って、「やっぱり軟式と違うんですね」と頷いた。


一ノ瀬は少し間を置いて、白石の横顔を見ながら声の温度を落とす。

「白石さんは、どうして硬式を始めたんだ?」


白石は驚いたようにまばたきして、少し考えるように視線を落とした。

「…人数不足で…クラブが無くなってしまって。ソフトテニス…続けたかったんですけど…なかなか良いところが見つからなくて」


「それで硬式に?」

「はい。近くに今のクラブ――サウスグリーンがあったので、母の勧めで体験だけのつもりだったんです……でも、コーチがとても熱心で、そのまま続けることにしたんです」


SGTHサウスグリーンテニスヒルズだっけ。……楽しい?」

(一ノ瀬の胸に、かすかな既視感がよぎった。訪れたことはないはずなのに、どこかで見たような気がする――)


白石は小さく笑った。

「時々厳しいところもありますけど……ちゃんと熱心に指導してくださるので…不器用な私には合っていると、思います」


彼女はそう言いながら、ふと遠くを見つめる。

言葉の奥に、微かな迷いが混じっているようにも聞こえた。


風が流れ、コートの上を白い砂埃がひとすじ渡っていく。


「……あたたかくなってきましたね」


「さっきより雲は多いけどね…ちょっと飲み物買ってくる」

「はい。どうぞ」


一ノ瀬が人の流れの中に消える。

白石はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

少し風が強くなり、髪が頬にかかる。指で整えて視線を戻すと――

隣の席に、いつの間にか影が落ちていた。


「すみません」


涼やかで、よく通る声。白石は反射的に顔を上げた。


「――あなた、白石さんで間違いないかしら?」


そこに立っていたのは、日差しを背にしたひとりの女性だった。

陽光を受けて淡く輝くブロンドの髪が風に揺れる。

ジャケットの襟元まで整った装いは、まるで雑誌の撮影から抜け出してきたような完成された気品を纏っていた。


その立ち姿には、北条さんのような冷たい鋭さはない。

代わりに、静かな自信と余裕――

成熟した女性特有の“落ち着いた美しさ”があった。


白石は思わず姿勢を正した。

「……はい。そうですけど」


女性は柔らかく微笑んだ。

その笑みの奥には、「自分が何者か」を知る人間だけが纏える、静かな誇りがあった。


「すみません、突然声をかけて。――はじめまして。私は、小暮テニスクラブの小暮……です」


ほんの一瞬、言い淀んだ。

けれどそのまま軽く顎を引き、上品に会釈する。

その仕草には、長い時間をかけて磨かれた品格と落ち着きが宿っていた。


白石は思わず姿勢を正した。

名乗り方にどこか“途中で言葉を飲み込んだ”ような響きを感じながらも、

目の前の女性から目を離せなかった。


春風が二人の間をすり抜ける。

白石が名を聞き返すより早く、その瞳がじっとこちらを見つめた。


「あなたの試合をちょっとだけ観ていました。その上でアドバイスしても良いかしら?」


白石は戸惑いながら、わずかに身を引いた。

「な、なんでしょうか?」


小暮は一歩前に出て、光の中でブロンドの髪をなびかせる。

ほんの一瞬、風の音だけが残った。


「あなた――片手、やめるべきだわ」


先程の微笑みは消え、まるで当然の事実を告げた。

その声には非難でも挑発でもない真剣な眼差し。

“自分の見る目に揺らぎがない”人の、静かな自信があった。


観客席の喧噪が、まるで遠くに引いていくように感じられた。

何かが始まろうとしている――そんな予感だけが、胸の奥で静かに鳴っていた。

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