第19話 ひとやすみの恋模様
二人で人波に混ざると、空気が一気に変わった。さっきまでの静けさは嘘のように、提灯の赤と黄色が重なり合い、色とりどりの声と匂いが押し寄せてくる。
焼きそばのソースが焦げる匂い、イカ焼きがじゅっと音を立てる匂い、綿菓子の甘い香り。浴衣姿の子どもが走り抜けるたびに、祭りの夜が本格的に始まったことを実感させられる。
「わあ⋯⋯!」
一夏が子どものように声をあげる。目を輝かせながら、右に左にと視線を忙しく動かしていた。
「何から行く?」
僕が尋ねると、一夏は少しだけ考え、屋台の列の中から一つを指さした。
「⋯⋯たこ焼き!」
僕たちはたこ焼きの屋台に並んだ。
鉄板の上で丸い生地がくるくると器用にひっくり返され、湯気と一緒にソースの香ばしい匂いが広がっている。列に並んでいるだけで、もう口の中に唾が溜まる。
「すごいね、あの手さばき」
一夏が感心したように見入る。確かに、金属のピックで一瞬の迷いもなく返される姿は、職人技という言葉がぴったりだった。
「理久もやってみたら?」
「いや、俺がやったら多分全部焦げる」
「ふふっ。⋯⋯でも、ちょっと見てみたいかも」
彼女は笑いながら袖で口元を隠した。その笑顔を見ているだけで、暑さも人混みの息苦しさも忘れてしまいそうになる。
順番が回ってきて、僕たちはたこ焼きを一舟買った。
熱々のそれを屋台横の空いたスペースに移動して、二人で分け合う。
「⋯⋯熱っ!」
一夏が一口食べて舌を出す。
「だから言ったろ。熱いから気をつけろって」
「わかってるけど⋯⋯おいしい!」
彼女は頬を赤くしながら笑い、もう一つ箸を伸ばした。その無邪気さに、僕もつられて笑う。
次に足が止まったのは射的の屋台だった。木の棚に並んだ景品たち――お菓子の詰め合わせ、キーホルダー、そして一番上には大きなぬいぐるみ。
「理久、やってみようよ」
「え、俺が?」
「うん。あれ欲しいな」
一夏が指さしたのは、小さなイルカのぬいぐるみだった。水色の体に愛嬌のある顔が描かれていて、確かに彼女に似合いそうだと思った。
銃を受け取り、狙いを定める。けれど手が少し震えて、弾は景品の下をかすめて外れる。
「惜しい!」と一夏が声を上げ、僕は苦笑する。
二発目。今度こそと力を込めすぎて、弾は逆に逸れてしまった。
「⋯⋯下手だな」
「ちょっと!」
一夏が笑いながら肘で小突いてくる。その笑顔に救われながら、最後の一発を放った。
──コトン。
音を立てて、イルカのぬいぐるみが棚から落ちた。
「やった!」
一夏が声を弾ませ、ぬいぐるみを両手で抱きしめる。その姿は子どものようで、見ている僕の方が嬉しくなった。
さらに進むと、金魚すくいの屋台があった。水面には赤や白の金魚が泳ぎ、紙のポイが次々に破れては子どもたちの笑い声が響いていた。
「私、やってみたい!」
一夏は迷いなく手を挙げた。紙のポイを受け取り、水面に慎重に差し込む。その真剣な表情に、僕は思わず見入ってしまう。
「⋯⋯えいっ!」
小さな金魚が一匹、器用にすくい上げられた。
「すごいな」
「でしょ?」
嬉しそうに笑う一夏。その笑顔を見ていると、金魚なんてどうでもよくなる。僕にとって大切なのは、彼女が楽しんでいること。それだけだった。
屋台をめぐるたびに、一夏は子どものように無邪気に笑った。僕はその笑顔を守りたいと、心の底から思った。
人波に揺られながら歩いていると、ふわりと漂う甘い香りが鼻先をかすめた。
見上げると、夜空を背景に大きな綿菓子がふんわりと浮かんでいる。屋台の兄ちゃんが棒をくるくる回すたびに、白い雲のような綿菓子が膨らんでいく。
「⋯⋯食べたい」
一夏の視線が、もう完全に綿菓子に吸い寄せられていた。
「さっきたこ焼き食べたばっかだろ」
「別腹って知ってる?」
「それ、女子の魔法の言葉だよな⋯⋯」
僕は苦笑しながら財布を取り出し、綿菓子をひとつ注文した。渡されたのは顔より大きな綿菓子。
一夏はそれを両手で大事そうに抱え、嬉しそうに笑った。
「わぁ⋯⋯ふわふわ。食べる?」
そう言って棒をこちらに差し出してくる。僕は少しだけ千切って口に入れた。
じんわりと広がる甘さに、思わず笑ってしまう。
「⋯⋯うまいな」
「でしょ? 理久も子どものころ好きだった?」
「うん。祭りといえばこれだった」
そんな会話をしていると、一夏は大きなひと口をぱくりと食べた。口元や頬に白い繊維がついてしまい、思わず僕は指で示す。
「ついてる」
「え、どこ?」
「ここ」
僕が軽く指で示すと、一夏は照れたように笑いながら舌で拭おうとした。でも取り切れず、結局彼女は「もー」と笑いながら袖で隠した。
その仕草が妙に幼くて、可愛らしくて、胸がきゅっとなった。
夏の夜の空気と、彼女の笑顔。その両方が溶け合って、僕はただ見惚れてしまった。
綿菓子を食べ終え、屋台を一通り巡ったあと、二人は神社の裏手にある少し静かな公園に移動した。祭りの喧騒が少し遠くに聞こえる場所で、ベンチに腰掛ける。
提灯の明かりが届かず、ここは夜の闇が深い。代わりに、木々の隙間から星がちらちらと瞬いていた。
「⋯⋯楽しかったね」
一夏がぽつりと呟く。
「まだ終わってないだろ。花火、これからだ」
「うん、わかってるけど⋯⋯なんかね、こうして座ってると、それだけで十分幸せ」
彼女は夜空を見上げながら言った。その横顔は柔らかく、けれどどこか儚げで。僕は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「俺も⋯⋯同じだよ」
言葉を絞り出すように返すと、一夏は少しだけこちらを見て、にこっと微笑んだ。
少し沈黙が流れた。遠くで祭り
僕は不意に、自分の心臓の音がやけに大きく響いていることに気づいた。
「理久」
「ん?」
「花火、始まったら⋯⋯手、つないでてくれる?」
その言葉に、僕は思わず息をのんだ。
でも視線を向けると、一夏は真剣にこちらを見つめている。冗談じゃない。本心だ。
「⋯⋯ああ。もちろん」
そう答えると、一夏は安心したように小さく頷き、少しだけ僕の肩に寄りかかった。
夏の夜風が、蝉の声とともに通り抜ける。彼女の浴衣の柄が、月明かりに淡く照らされていた。
やがて空に一筋の光が走り、祭りの夜のクライマックスが始まろうとしていた。
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