第18話 夏の序章、二人の夜
祭りの日が決まってからというもの、僕の日々はどこか落ち着きを失っていた。
学校に行けば、教室のあちこちから「屋台がどうだ」「花火が何発上がるらしい」といった話題が耳に飛び込んでくる。そのたびに僕の胸の奥は小さく波打った。これまでなら聞き流していただろう。けれど、今年は違う。僕は彼女と一緒に行くのだ。
放課後、図書館で彼女と約束を交わした日のことを何度も思い出す。机に頬杖をついて「浴衣着ていこうかな」と照れくさそうに笑った彼女の横顔が、何度思い返しても胸を締めつけた。
祭りの前日。
浴衣姿の彼女と並んで歩く姿を想像するだけで、体温が少し上がる気がした。勉強に集中しようと机に向かうが、ノートの上に並ぶ文字は意味を持たない記号の羅列にしか見えない。
僕は立ち上がってクローゼットを開き、着ていく服を何度も確認した。ネットで調べた「無難な夏祭りコーデ」という言葉を頼りに、薄いグレーのシャツと紺のショートパンツを選んだ。鏡の前に立っては袖をまくり、また戻し、ボタンを一つ開けたり閉めたり。気づけば同じ動作を繰り返していた。
窓の外からは、もう眠った街に夏の虫の声が響いていた。静けさの中で自分の心臓の音ばかりが耳に残り、布団に入ってもなかなか眠れない。
「明日、ちゃんと笑えるかな」
そんな不安を抱いたまま、浅い眠りを繰り返し、夜を越えた。
当日。
朝から雲ひとつない青空が広がり、日差しは肌を刺すように照りつけていた。昼過ぎには空気の熱気に息苦しささえ感じる。僕は何度も洗面所で顔を洗い、シャツを着直し、髪を手で撫でつけては整えた。
出かける時間が近づくにつれ、心臓は早鐘を打ち、手のひらはじっとりと汗ばんでいく。時計の針が一分進むごとに、胸の奥の緊張も一段階強まっていった。
玄関を出た瞬間、むわっとした熱気に包まれる。蝉の声が全身に降り注ぎ、夏の空気が容赦なく押し寄せてきた。それでも足取りは軽く、気づけば歩幅は普段より早かった。
駅前は、すでに人でにぎわっていた。
浴衣姿の家族連れ、手をつなぐカップル、屋台の準備をする人々。漂ってくるのは焼きそばの香ばしい匂いと、かき氷のシロップの甘い香り。
僕は人波の中に立ちながら、そわそわとポケットの中で手を動かした。携帯を取り出して時間を確認しても、約束の時刻まではまだ少しある。
ふと耳に届いたのは、近くを通り過ぎる女子たちの弾んだ声だった。
「浴衣似合ってたよねー」
「髪も可愛かった!」
彼女たちの話す「浴衣」という単語に、胸がどきりと高鳴った。一夏も今、その浴衣姿で来るのだろう。想像するだけで息が詰まりそうになる。
やがて、人混みの向こうにふわりと淡い色が揺れた。
目を凝らすと、そこには一夏の姿があった。白地に淡い藍色の花模様が広がる浴衣。歩くたびに揺れる裾、少し不慣れそうに草履を鳴らす足取り。普段は肩にかかっている髪は高く結い上げられ、耳元で小さな簪が涼やかにきらめいていた。
僕は言葉を失った。
その姿はまるで祭りの光景よりも鮮やかで、胸の奥に一瞬で焼きついた。人々のざわめきも、頭上で鳴く蝉の声も、すべて遠のいていく。
「⋯⋯理久」
彼女が僕を見つけ、柔らかく笑みを浮かべて名前を呼んだ。その声で、ようやく現実に引き戻される。
「⋯⋯すごく、似合ってる」
絞り出した言葉は、それだけだった。けれど、それ以上の言葉は見つからなかった。
一夏は少し照れたように視線を落とし、頬をほんのり赤らめた。
「ありがとう⋯⋯。理久も、今日もかっこいいよ」
ほんの一言で、胸の奥に熱が広がった。花火はまだ上がっていないのに、僕の中ではすでに大きな音が鳴り響いていた。
彼女と並んで歩き出したものの、すぐに屋台の並ぶ通りへは向かわず、駅前の片隅にあるベンチでひと息つくことになった。祭りの会場へ続く道はすでに人でいっぱいで、ざわめきと熱気が渦を巻いていたからだ。
ベンチに腰を下ろした一夏は、うちわでぱたぱたと風を送っている。浴衣の襟元からのぞく首筋が汗に濡れて、街灯に照らされて艶めいて見えた。僕は視線を逸らそうとして、結局はまた彼女の横顔を追ってしまう。
「すごい人だね。こんなに賑やかだなんて思わなかった」
一夏が楽しそうに言う。
「うん。⋯⋯でも、こうやって少し休んでから行くのも悪くない」
僕はそう答えながら、自分でも気づかないうちに笑っていた。
人波の向こうからは、太鼓の音が低く響いてくる。まだ花火も始まっていないのに、夜の空気は祭りの色に染まっていた。彼女はその音に耳を傾けるように目を細め、静かに呟いた。
「なんだか、不思議だね。こうして理久と並んで祭りに来るなんて、少し前の私には想像もできなかった」
僕は言葉を飲み込んだ。余命を口にすることはなかったが、彼女の言葉の奥にはその影が潜んでいるように感じられた。けれど、彼女の笑顔は確かにここにあった。
「⋯⋯行こうか」
やがて立ち上がった一夏が、浴衣の裾を整えて僕を見上げる。
「うん」
僕も立ち上がり、彼女と並んで歩き出した。目の前に広がる提灯の灯りが、これから始まる夜を鮮やかに照らしていた。
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