第20話 夏よ、終わるな
遠くの山を揺らすような低い音が響いた。地の底から突き上げるようなその衝撃に、思わず僕は肩を震わせる。
次の瞬間、夜空にひとつ、赤い花が咲いた。
光は大きく広がり、散りゆく火花がまるで流星のように落ちていく。
「わぁ⋯⋯!」
一夏の声が弾んだ。浴衣の袖がふわりと揺れ、顔を上げるその瞳に、鮮やかな赤と金が映り込む。驚きと喜びをそのまま映した瞳は、星よりも強くきらめいていた。
続けざまに青、緑、紫。色とりどりの火花が夜空を飾っていく。
光が弾けるたびに、一夏は小さく拍手をしたり、子どものように歓声をあげたりした。僕はそれを隣で眺めているだけで、胸の奥が不思議に温かくなった。
「ねえ、理久」
花火の轟音に負けないように、彼女が少し大きな声で呼ぶ。
「うん?」
「こういうのってさ、やっぱり写真じゃ全然だめだよね」
「写真?」
「そう。写真だと、ただの光の絵にしかならない。でも、本物は⋯⋯音も匂いも、胸に響く感じも、全部ここでしか味わえない」
一夏はそう言って、空を見上げたまま笑った。
「だから、今日来てよかった。⋯⋯理久と一緒に」
胸の奥に熱いものがこみ上げた。返事をしようとしたけれど、言葉が喉につかえて出てこない。ただ、彼女の笑顔を見つめることしかできなかった。
空に咲いては散る光の花。
暗闇に沈む彼女の輪郭は、次の火花が弾けるたびに浮かび上がる。その一瞬ごとの表情が、焼きつくように僕の目に残っていく。
やがて、夜空いっぱいに仕掛け花火が広がった。
金色の尾を引きながら、いくつもの光が流れ落ちていく。星屑をばらまいたように輝く光の雨。その下で一夏は両手を伸ばし、まるで掴もうとするように空へ指を伸ばした。
「ね、天の川みたいじゃない?」
「⋯⋯ああ、本当に」
「もしも願いが叶うならさ⋯⋯」
一夏は言葉を区切り、少し首を傾げて僕を振り返る。
花火に照らされた横顔は、昼間のどんな光景よりも綺麗で、胸が痛いほどだった。
「今日みたいな日が、ずっと続けばいいな」
胸がぎゅっと締めつけられた。何かを返さなければと思ったのに、声は熱に溶けて消えてしまった。ただ、強くうなずくことでしか答えられなかった。
夜空に再び大きな轟音。いくつもの花火が重なり合い、夜を昼のように明るく染める。
その光の中で、彼女が一瞬こちらを向いて微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、僕は思った。──この夏、この一秒すら、決して忘れることはないだろう、と。
花火が打ち上がる中で、浴衣の袖をぎゅっと握りしめながら、一夏が小さく呼んだ。
その瞳には花火の光が揺れていて、夜空と同じくらいに鮮やかに輝いていた。
「私ね、本当は⋯⋯今日すごく怖かったんだ」
「怖かった?」
「うん。こんなに楽しい夜を過ごしたら、きっと明日がもっと惜しくなるって。⋯⋯時間が、もっと欲しくなるって思ったから」
火花が散る音が夜空に重なった。僕は彼女の横顔を見つめながら、胸が詰まるのを感じた。
「でもね」
彼女は続けた。
「それでもよかった。⋯⋯だって、理久と一緒だから」
その瞬間、心臓が強く跳ねた。喉の奥が熱くて、けれど、もう何も飲み込めなかった。
「一夏⋯⋯俺も同じだ」
言葉は途切れ途切れになりながらも、抑えきれない想いが溢れ出していく。
「一緒にいると⋯⋯楽しくて、嬉しくて、でも同時に苦しいんだ。時間が止まればいいって、何度も思った。⋯⋯いや、今だって思ってる」
花火の轟音がまた空を揺らした。
大輪の光に照らされた一夏の目から、涙がこぼれた。笑っているのに、泣いている。
「⋯⋯理久、ありがとう」
彼女は震える声で、それでもはっきりと告げた。
「一夏⋯⋯俺は、君が好きだ。すごく、すごく大切に思ってる。もっと早く言うべきだったて、後悔してる。もう、一夏と過ごす時間は限られているのかもしれない。でも⋯⋯俺の好きって気持ちに、終わりはない」
一瞬、彼女は言葉を失ったように僕を見つめ返した。
そして、涙をこぼしながら笑った。
「⋯⋯やっと言ってくれた」
「え?」
「ずっと、待ってたんだよ。理久が、そう言ってくれるのを」
彼女は涙を拭おうともせず、まっすぐ僕を見た。
「私もね、理久が好き。怖いくらいに⋯⋯好き。だから⋯⋯残りの時間、全部あなただけにあげる」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなって、何かが決壊するように涙が滲んだ。
「⋯⋯ありがとう、一夏。俺も、最後までずっと一緒にいる。絶対に」
僕はそっと彼女の手を握った。細くて小さい手は少し冷えていたけれど、その握り返す力は確かに強かった。
「離さないでね」
「離さない」
そう言った瞬間、夜空にひときわ大きな花火が咲き誇った。
金色の光が二人を包み込み、世界が輝きに満ちていた。
「理久」
「どうしたの?」
「私、理久のおかげで気づけたよ」
彼女は、優しい声で言った。
「終わりがあるから怖いんじゃない。終わりがあるから、今が愛しいってことに」
一夏は、諭すかのように、僕の瞳を見つめていた。
花火のクライマックス。色とりどりの光が夜空に重なり合い、金銀の尾を引いて降り注ぐ。僕と一夏はただ黙って、口を閉ざしたまま、その一瞬を見つめていた。
最後の一発が夜空を揺らし、やがて闇が戻ってくる。余韻の静けさが辺りを包み、耳の奥にはまだ轟音が残っていた。
「⋯⋯終わっちゃったね」
一夏が小さな声で言う。
「そうだな」
「でも、終わったあともいいよね。胸がじんじんしてて」
彼女は小さく笑い、浴衣の裾を直しながら、少しだけ僕の方へ寄り添った。
その温もりを感じたとき、僕は言葉にならない想いを必死に押しとどめた。
僕は、神にすがるかのように、心の中で叫んだ。
『夏よ、終わるな』
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