ある夫の話
――本当は、ずっと前から気になっていた。
「クソ……っ、お高くとまりやがって!」
「なんだなんだ、フラれたのかぁ?」
まだ十代の頃、ユーグは出かけた夜会で、『誰か』のことを口汚く罵っている一団を見かけた。
彼らはひどく酔いが回っているのかもしれない。あまり騒ぐようなら、王宮勤めの騎士としてか、はたまた貴族の範たる公爵家の人間としてか、声をかけた方がいいだろうか。
「さっきの、見てたぜ? あの貧乏伯爵家の、なんだっけ、ポネット家? あそこの娘に絡んでただろ。あの子、夜会で見るのはデビュタント以来だけど、目立つもんなあ。で、フラれたと」
「ちっげーよ! からかってやっただけだ!」
『いや、絶対に嘘だろう』と思ったが、彼らの会話を立ち聞きしている分際で、ユーグに何も言えることはない。
それにしてもそんなに目立つ容姿の娘がいただろうかと、会場に目をやると、確かに目を引くドレスの娘に気づいた。
ドレスが贅沢だとか洗練されているとかではない、とにかく型が古いのだ。かつて流行したデザインは、今は礼装として位置づけられているから、この場に着てきて非礼に当たるわけではないけれど――老女が式典の際に着るような服を、若い娘が着ているのだから、悪目立ちしている。
「しっかし、ポネット伯爵家に金がないってのは本当なんだな。でも、あの子、顔は可愛いじゃん。胸もそこそこありそうだし?」
「だろ? だから俺も、ちょっと遊んでやる気だったの! だってさぁ、ドレスも新調できないくらい金がないのに、わざわざ夜会に出てくるってのは、そういうことだろ?」
――支援してくれる裕福な男を見繕うため。
もっと言えば、持参金も期待できない家の娘を、あえて年齢や身分の釣り合う嫡男の妻に迎えたい家などないから、彼女に声をかける男は『求婚者』ではない。
彼女もそれは承知の上で、金持ちの後妻や愛人のクチを探している、ということだろう。
(彼女の親は何をやっているんだ? 自分の娘が身売りのような真似をしているのに、気づいていないのか、知っていてやらせているのか……)
彼女は若く美しい。近いうちに買い手はつくだろう。
そうすれば、彼女は得た金と引き換えに『金に目が眩んで身を委ねた女』という汚名とともに、後ろ指をさされて生きていかねばならなくなる。
大した面識もないポネット伯爵への不信感を膨らませて、ユーグが苛々と彼女を見つめていると、近くの声が言った。
「だから、俺は言ったわけ。『イレーヌ嬢、月に金貨十枚の手当でうちに来ない? 君、可愛いからサービスするよ』って」
「おいおい、いきなりそれかよ! ひでえな!」
「だって、金貨十枚だぜ? 普通飛びつくだろ。……それが、あの女、何て言ったと思う?」
いい条件での愛人契約――彼女と釣り合う家に嫁いで妻として動かすことのできる金額よりも高額を提示されて、彼女はなんと答えたか。
「――『あなたの用意した場所に住まうことが条件ですか? それでは、私が実家から離れることの損失を補填できません』だとさ。私が代わりにやっていた使用人の仕事や弟妹の世話をしてくれる人も雇わないといけないから、だとよ!」
どれだけがめついのか、そんなに自分に価値があると思っているのか、身の程知らずめ、とイレーヌのことを嘲笑う男たちのやりとりに眉をひそめながらも、ユーグ自身も訝しく思った。
(変な女だな)
貧乏暮らしから抜け出したくて、金持ちの愛人を志願したのではないのか。
あの男が選択肢として適切かはともかく、彼女に多少贅沢をさせるくらいの用意はあると伝えられたのに。
それなのに、彼女は『家族』を選んで、せっかくもたらされた蜘蛛の糸を断ち切るのか。……彼女のことを大して大事にしていないような家族のために。その家族のせいで、彼女は身を売るところまで追いつめられているのに。
「イレーヌ・ポネットか……」
知ったばかりの名前を、そっと唇に乗せた。
合流した待ち合わせの相手が騒がしく話すから、その名前は頭の片隅に置いてしまったけれど。
「ユーグ! 誰か気になる子はいたかい?」
「兄上はまったく……何を馬鹿なことを言っているんだ」
身贔屓なしに仲の良い兄弟ではあったが、兄とは何ひとつ似たところがない。
にやにやと冷やかすように言われて、ユーグは呆れのため息をついた。
「何も馬鹿なことではないよ。私がユーグの年の頃にはね、妻と――」
「その話は長くなるからもういい」
「そう? 今夜はもう、騎士団の仕事はないのか?」
「忙しい時期じゃないから休みが取れた。明日も非番だ」
「そうか! じゃあ、今日はうちに泊まって、ジェリーの顔でも見ていくといい!」
「この間見たところだろう。まあ、行くが」
可愛い甥っ子に会えると聞いて、その場をいそいそと立ち去った。もちろん、警備当番中の騎士仲間には、先ほどの男たちのことを逐一報告しておいたけれど、それだけだ。
イレーヌとの縁は、繋がる前に切れるはずだった。
不幸にも、ユーグが『家族』を必要とするまでは――。
「……ユーグ、さま?」
目の前にある妻の寝顔をじっと見つめていたら、彼女がゆるりとまぶたを持ち上げた。普段しっかりしている彼女が、ぽやぽやとまどろむ様子が可愛らしい。
彼女の身体を抱き寄せて、背中をとんとんと撫でさする。
「イレーヌ。まだ時間も早い。寝ていたらどうだ」
「ん……でも、寝ているのはもったいないです」
「……君は働き者だからな」
公爵家の家政を司る女主人。ジェラルドの理想的な母親。
彼女に任せきりになってしまったことは多々あって、これでも後悔はしているのだ。最近はジェラルドの式の準備も忙しかっただろうし、休めるときにはゆっくり休ませてやりたい。……その式の夜のうちに、疲れきった彼女を寝台に引き込んだ男が何を言っているのか、と言われれば、返す言葉はないのだけれど。
ほら、イレーヌだって、不満そうに唇を尖らせている。
「そうじゃなくて」
背中を撫でていた腕を、ぐいと引き剥がされた。
べたべたと触るのがお気に召さなかったか、と内心で反省していると、彼女はしかめ面のままで言う。
「そのまま続けられると、眠くなってしまいますから。……せっかく、ユーグ様と一緒にいられる時間を、無駄にしたくないです」
――ああ、これは『白い結婚』のはずだったのに。
彼女に負担ばかりかけておきながら、さらに『自分の妻としてもふるまってほしい』とは求めすぎだと分かっていた。
それに、彼女に触れたら、下心ありきで彼女を買うつもりだった者たちと変わらなくなる気がして、嫌だったのだ。……実際、同じことを求めているのだから、違いは何もないのだが、これは『見損なわれたくない』というユーグの気持ちの問題である。
『寂しいの……ユーグさま、私ね、子どもがほしい』
けれど、あの夜に――『白い結婚』の最後の夜に、彼女が瞳を潤ませて乞うものだから、自分を抑えきれなかった。
「まったく、イレーヌは可愛すぎる」
「……へっ!? ちょっと! ユーグさまっ!?」
そして、十年の禁欲のうちに箍は外れてしまったらしく、もはや元に戻すすべも知らない。
――『白い結婚』をしたはずだった妻が『普通の結婚をした夫婦の十年間』を爆速で体験させられることになったのは、また別の話である。
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