嘘つきな老人④
証拠物が必要になると思ったので、社用車に乗って行った。
岩戸署の庁舎は、夜が近いことを報せる群青色の空を背景にして、黒いシルエットになっていた。庁舎前の駐車スペースに車を停めて、エントランスに向かう。
署内は減灯しており、カウンターの中は杳として、人がいるのか定かでない。それでも、呼び掛けると応える声がある。眼を凝らすと、奥に小柄な人影が見えた。足早にカウンターまでやって来る。ホールの灯りはカウンターの中にも届いているので、それで容貌がわかった。先日、営業所に来た刑事だ。
「おや、どうしました」
「自首しにきました」
刑事が眉をひそめる。
「自首?」
「堤防道路でひき逃げしました」
刑事は厳めしい顔で、俺をじっと見る。
「詳しくうかがいましょう。そちらにどうぞ」
ホールのベンチを指し示す。
ひき逃げは、何年くらいの罪だろう。死なせたのだから、簡単には出てこられないだろう。その間、しっかりと自分の罪に向き合おう。老人に哀悼の意を捧げ続けよう。それで、人並みになれると思うほど、傲慢ではないが、少しでも近づきたい。人並みに。
刑事がカウンターから出てきて、隣に座った。
「ひき逃げ、したんですか」
俺は頷いて、あの晩のことを話した。
その間、刑事は俺の顔をずっと見つめていた。話し終えると、初めて眼を伏せた。
「なるほど。この数日間、生きた心地がしなかったでしょ」
「はい」
「勇気を振り絞って、お越しいただいたのに、申し訳ないんですが……」
刑事は俺の顔を見て、言葉を切った。
なんだろう。犯人の目星はすでについて逮捕状が出ているから、自首にはできないというのだろうか。別に構わない。自首の減刑なんて期待していない。
「ひき逃げ事故なんて起きていません」
刑事の言ったことが理解できなかった。耳に入った言葉が、頭の中でぐるぐる回っているだけで、ストンと胸に落ちない。
「疏水で見つかったご遺体には、右の脛と掌に擦り傷があるだけで、目立った外傷がありませんでした。自然死の死体と見分けがつかないくらいでした。違いは、瞼の裏に溢血点があったことくらい」
「溢血点?」
「瞼の裏に点状の出血が現れるんです。私らなんかは、溢血点があると絞殺されたのかと思ってしまうんですが、お医者さんによると違うようで。嘱託している先生を呼んで、意見を聞きました。急死の三徴候のひとつで、特別な意味はないということでした」
「それじゃ?」
「血液採取による薬毒物検査も実施していただきましたが、睡眠薬等、他者の介在が疑われるものは検出しませんでした。先生は、疏水に転落して溺死したもので、事件性はないとおっしゃいました。自転車の運転を誤って、路肩を踏み外したのです。したがって、当署は事故死として処理しています」
どういうことだ? 刑事の言うことを反芻する。老人が自分で転落した? 俺が撥ねたんじゃないのか。
なぜか、身体が熱くなり、汗が噴き出した。「車のキズは後ろのバンパーでしょ」
刑事は半身になって、俺の顔を見つめている。
「はい」
「前進していて轢いたのなら、後ろにキズはつかないでしょ」
「あ」
確かにそうだ。轢いたのではなく、むしろ追突されたってことじゃないか。
「轢き逃げしたって思い込んでいたなんて、愉快な方だ」
刑事は鼻で笑った。口ぶりが小馬鹿にしていたので、ちょっとムッとした。
「だって、営業所に来たでしょ。白い車を探してるって」
「ええ。探していました。自転車に塗膜片がついていましたから。その経緯を明らかにしないと、死亡と関係があるのかないのか、はっきりしませんから」
「関係はなかった?」
「別の事件で逮捕した者が言ったんです。市役所の駐車場で、投網を積んだ自転車が車とぶつかるのを見たって。防犯カメラの映像を取り寄せると、やつの言う通りでした。老人の自転車がふらふらとやって来て、バックする車にぶつかりました。防犯カメラの映像で、ぶつかった車両のナンバーがわかりました。調べると、あなたの会社がリースしている車両でした」
堤防道路では撥ねていない? バックして衝突した?
「いや、違う。市役所の駐車場になんて行っていない」
「行ったのは吾妻さんですよ」
「吾妻?」
「防犯カメラの映像で、登録番号がわかりました。調べると、御社の金沢支社が使用している車両でした。金沢支社の管理部に問い合わせると、エリア部長が使用している車両だと回答がありました」
「エリア部長?」
「吾妻さんです」
「えーと」
頭が追いつかないんだが。
なぜ、吾妻の車が出てくる?
「吾妻さんは、岩戸に来ていたんですよ。ご存じでしたか」
娘の入社試験の件だ。
「さきほど、初めて知りました。娘を面接に連れて来たとか」
刑事が頷く。
「役員面接があったそうですね。吾妻さんは、会社の車で娘さんと一緒に来ました」
私用で社用車を使ったって驚かない。むしろ、当然、そうするだろう。そういう人間だ。
「朝早くに金沢を発ち、予定より早く岩戸に着いてしまったそうです。しかし、三遠信精機の門は閉じていて、来客用の駐車場には入れない。それで、市役所の駐車場に停めて、時間を潰していたそうです。防犯カメラで確認が取れています」
「はあ」
「朝食を摂ろうと思い、娘さんの運転でファミレスに行くことにしたそうです。娘さんは免許を取ったばかりなので、練習させようと思ったと言っています。早朝なので、往来する車が少なく、練習にはうってつけだと思ったと。それで、娘さんがハンドルを握ってバックしました。そこに老人の自転車が来て衝突しました」
「撥ねたんですか」
「ええ。後方確認が不充分だったんでしょう。自転車は自転車で、ふらふらしていて、安全に運転できていませんでしたから、起こるべくして起きた事故です」
「ふらふらしていたんですか」
「投網を荷台に乗せ、魚籠をハンドルに引っかけていました。それで、バランスが取れなかったんでしょう。老人にも責任のある事故ですね。幸い、車はそろそろと動き出したばかりで、老人に大きなケガはありませんでした。脛と掌を擦りむいただけです」
「軽傷でも、人身事故ですよね?」
刑事は頷く。
「そうですね。でも、吾妻さんは警察に届けませんでした」
「ケガをさせたのに?」
「娘さんの面接に影響すると思ったようです。警察にいろいろ訊かれたり、老人に付き添って病院に行ったり、そんなことになると、御所にも知られ、不採用になると思ったようです。互いの不注意だから、警察には言わずにいよう。自転車のフレームは曲がっているが弁償しない。こっちは車に傷がついたんだから、おあいこだって、別れたそうです」
呆れた。相手を言いくるめて、事故をなかったことにしてしまったのか。
「結局、不採用でした」
「ええ。吾妻さんからクレームが来ましたよ。御所に事故のことを報せたのかって。警察は何も漏洩しませんとお伝えしました。納得していないようでしたが」
吾妻は俺だけじゃなく、警察にも娘の不採用の件で、文句を言ったようだ。
「という次第です」
刑事は納得できましたか、というように俺の顔を見つめる。
納得できるわけがない。
「だったら、私の車のキズは?」
「まだ、わからないんですか」
刑事は呆れたように言って、ため息をついた。
「あなたは吾妻さんの車に乗っているんです」
「は?」
「吾妻さんがすり替えたんです」
えーと? こめかみを掻く。
「社用車は金沢支社で一括してリース契約してるんでしょ?」
「はい」
「金沢支社で使っている車も、岩戸営業所で使っている車も、全く同じ車。見分けがつきますか」
「同じ車種、同じグレードなら、見分けられないと思います」
「違うのは、ナンバープレートの数字くらい」
あ。ナンバーの数字に違和感を覚えたことがあった。浜松の技術者を二度目の顔合わせに連れて行った帰り。駐車場の社用車を見て、違う数字が並んでいると思ったのだ。思い違いじゃなかった?
「金沢支社に電話して、吾妻さんと話しました。防犯カメラの映像があると言っても、岩戸には行っていないし、自転車なんか知らないって言い張るので弱りましたよ。だったら、娘さんに話を聞くって言ったら、ようやく白状しました」
吾妻にも親の心がある。娘の就活を心配するくらいだ。娘に刑事の尋問なんてストレスを味わわせたくなかったのだろう。
「吾妻さんは、役員面接が終わって金沢に戻って行きました。しかし高山まで行って、このまま帰るのはまずいと思ったようです」
「どうして?」
「バンパーにキズがありますから。最初は、管理部にキズのことを訊かれたら、適当にごまかすつもりだったそうです。しかし、修理に出せと言われるでしょう。そうなれば、保険会社がドライブレコーダーの映像をチェックしたりして、ごまかしきれなくなると思ったようです」
当然、そうだろう。保険会社に報告しなければ、車両保険を使えない。
「事故証明が必要だと言われたら、岩戸署に事故の届けをしなければならないし、そうすると、娘が事故を起こしたことも、それを隠蔽しようとしたこともバレてしまう」
私用で社用車を使い、しかも社員でない者に運転させて破損させた。明らかに服務規定に違反する。しかも、被害者を言いくるめて、事故を隠蔽しようとした。ステークホルダーを軽く考えている。コンプラの意識ゼロだ。
「どう言い訳をしようか、あれこれ考え、車のすり替えを思いついたようです。キズのない岩戸営業所の車両で帰って、素知らぬ顔をしていようと思いついたのです。それで、引き返したそうです」
吾妻にとって、コンプライアンスなんて、単なる題目に過ぎないのだろう。悪知恵が働く者は、逃げ道をいくらでも思いつく。
「しかし、営業所に着く前にあなたが帰ってしまうと、鍵を掛けられてしまう。それで、長電話をして帰れないようにしたと言っていました」
「長電話って……」
「長い時間、叱責されたんでしょ」
唖然とするしかない。あの晩、俺が帰れなかったのは、隠蔽工作のためだったのか。車内でハンズフリーで、ながら運転していたのか。自宅からかけていたのではなく。
役員面接の帰りだったから、娘と一緒だった。電話に娘の声がしたのは、自宅にいたからではなく、一緒に車に乗っていたからだったというわけだ。
とはいえ、俺を営業所に残しただけで、車をすり替えることができるとは思えない。どうしたのだろう。
「キーをすり替えたんです」
「キーを?」
「社用車のキーはキーボックスなんでしょ?」
「社内ルールで、使用後は必ずキーボックスに掛けておくことになっています。キーボックスのカギは、私の机の抽斗です」
刑事が頷く。
「あなたが席を立っている間に忍び込み、キーをすり替えたんです」
「でも、ずっと自分の席で電話していました」
「トイレに行かされませんでしたか」
「あ」
トイレ休憩は、俺のためじゃなく、忍び込むためだったのか。何て悪辣。怒りや呆れを通り越して、敬意を払いたいくらい。
「吾妻さんは営業所の車の隣に金沢支社の車を停めて、営業所の車で帰って行ったんです。あなたは営業所の車のつもりで金沢支社の車に乗り込んだのです。ひとつずれた駐車スペースに停められていたのに、不審に思わなかったんですね」
そうだったのか、眠気眼で頭もボーっとしていたから気づかなかった。あ、でも、あの晩、車に乗り込むと、ペダルもハンドルも遠かった。吾妻の身長に合わせてあったからだ。技術者にゲームがなくなったと言われたのは、車をすり替えられていたからか。
それにしても、何てことだ。刑事たちが来たとき、俺はてっきり疑われているのだと思った。なのに、刑事たちは、あの時点でひき逃げではないと思っていたのだ。この数日間の俺のドギマギは一体……。
すべては吾妻のせいだ。身勝手でコンプラの意識に欠ける者が身近にいるだけで、災難が降りかかる。
だが、俺には吾妻を糾弾する資格なんてない。人を撥ねたと思っていながら、すぐに自首しようとしなかった。それどころか、どうやって白を切ってやろうか、そればかり考えていた。身勝手な自己保身という点では、吾妻と変わるところはない。
浜松の技術者にも、三遠信精機の技術部長にも顔向けできない。ひき逃げして知らん顔しようとする人間が、重要なプロジェクトの契約をまとめるなんて。
やっぱり俺は、人並み以下だ。人並みを望む資格なんてない。
「どうしました」
刑事が俺の顔を覗き込む。
「自己嫌悪です。俺は吾妻と同類なんです」
刑事は笑みを浮かべた。
「違う人間なんていませんよ。いままで何人も逮捕してきましたが、みんな、私の同類でした」
「まさか」
刑事は首を振る。
「同じですよ。誰だって自分が望む人生を歩みたいと思っている。罪を犯す者たちは、望むものを手に入れる方法を間違えてしまうだけです。希望や欲望に手を伸ばそうとするのは、みんな同じ。望みを叶えられずに、悔しがるのも同じ。罪を犯す者たちは、望んだ通りにならない原因を間違えてしまうだけ。自分ではなく、社会や他人のせいにしてしまうだけです。根源的なところでは、人は誰も変わらない。みんな同類です。犯罪者を何人も相手にしてきて学んだことです」
刑事の言葉は、少しだけ俺の心を軽くした。まだ、人並みを望んでも良いのかもしれない。
疏水に落ちた老人だって、人並みに生きたかっただけだろう。しかし、方法を間違えた。酔っ払うのではなく、素直に心情を吐露していたら、相手にしてくれる人もいただろう。ひとりで疏水に落ちて死ぬことだって、避けられたかもしれない。なんだか、やりきれない気持ちになる。
「しょっちゅう投網に行っていたのなら、夜中の自転車に慣れていただろうに。どうして転落なんて」
「吾妻さんの車に衝突して、自転車のフレームが歪んでいましたからね。ただでさえ、ふらふらしてバランスを取るのに四苦八苦していたのに、歪んだ自転車ですからね。うまくハンドル操作できず、路肩を踏み外したのでしょう」
ひとり寂しく、疏水で死んだ老人のことを考えると気が重い。一方で、ホッとしている自分がいる。霧が晴れるように、数日間の悩みが消え、平穏な日常という希望が顔を出したのだから。しかし、まだ気がかりなことがある。俺は音を聞いているのだ。
「堤防道路を通ったとき、大きな音がしました。人を轢いた音じゃなかったら、あれは何の音だったんでしょう」
「投網でしょう」
「投網?」
「堤防道路に投網が落ちていて、タイヤ痕が残っていました。老人は転落する前に、投網を落としたんです。そこにあなたが通りかかった。先日、営業所にうかがったとき、駐車場に寄って、車を調べました。左側の後ろのドアの下に凹みがありますね」
「凹み?」
「気づきませんでしたか」
「バンパーのキズなら知っていますが」
「いえ、左後席のドアの下、サイドシルの部分です」
その凹みは全く知らない。バンパーのキズを見て、もうそれ以上、車を見たくなかった。
「投網でできたキズだと思います。網の裾に錘がチェーンになって連なっているでしょ。それがサイドシルを叩いたのでしょう」
人を轢いた音ではなかったのか。私は完全に無実だ。霧が完全に晴れて行く。
「市営住宅の住人が言っていました。老人は、酒を呑んで大騒ぎした晩は、その反動で眠り込んでしまったそうです。あの晩、投網に出掛けたのは、頭を叩いた詫びのつもりで、鮎をくれる気で出掛けたのかもしれないって、悲しそうにしていました」
酒に酔っていたことも、自転車のハンドル操作に影響したのかもしれない。よりによって、自転車が歪んた晩に酔って出かけたとは。人間の運命とは、そういうものなのかもしれない。
轢き逃げ犯にならずに済んだのは、老人が堤防道路を通ったのが、俺より早かったからだ。俺が帰るときに、堤防道路にいたら……。
ゾッとした。その場合は、本当に轢き逃げすることになっただろう。吾妻がいつまでも帰してくれなかったおかげか。
いや違う。うっかり、吾妻に感謝しそうになった。吾妻が電話してこなかったら、そもそも堤防道路なんて通っていないのだ。やはり吾妻には近くにいて欲しくない。
俺は刑事を真っすぐに見つめた。
「ところで、吾妻の娘はどうなるんです? 逮捕されるんですか」
刑事は苦笑して首を振った。
「事故届をしてもらい、事情は聞きます。行政処分くらいはあるかもしれませんね」
この事故をきっかけに、我妻のコンプラ違反がいろいろ発覚するだろう。娘の心配をするのなら、日ごろから襟を正しているべきだった。
しかし、どうしよう。技術者のゲーム機が金沢にあることはわかった。金沢に行くなんて億劫だし、吾妻に送ってくれと頼むのはイヤだ。
補遺
司法警察員が作成した検証調書より抜粋
自転車は川底に堆積した汚泥に横倒しになっていた。引き上げて調べると、ハンドルの右グリップ、右ペダル、フレームに白色の塗膜片が付着していた。
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