第20話

 最後に見た時とほとんど何も変わっていない彩月の自室。爽月と違って最低限のものしか置いていない殺風景な部屋ではあるが、ベッドサイドの壁には場違いとも思えるような、若い男性が写った大きなポスターが貼られていた。

 白い肌と眉目秀麗な顔立ち、全体的に少し長めの濡羽色のナチュラルツーブロックが特徴的な彩月と同年代の男性は、スポットライトの下でマイクを手に歌っていたのだった。


「キョウくんと出会ったのは受験に落ちて絶望的だった時。家に居場所が無くてなんとなく都心に出掛けたら、街ビルのモニターでキョウくんが歌っていたの。後からそれが生歌じゃなくて、新曲の宣伝目的で流れていたPVだって知ったんだけど」


 今でも目を閉じれば思い出せる。行き交う人たちで雑然とした街の中心部と林立する大きなビル群。

 パトカーのサイレンと車のクラクションが鳴り響き、信号待ちをしながら会話をする人やスマホ越しに叫ぶ人たち。

 自分とは違って幸福の絶頂の中にいるであろう人たちを、心ここに在らずといった様子で彩月は遠巻きに見ていた。

 家や学校に行き場が無く、他に行く当てもない。毒親と毒姉によって心身がずたぼろとなり、色や匂い、喜怒哀楽の何もかもを感じなくなっていた。

 そんないつ消えてもおかしくなかった抜け殻同然の彩月の心をこの世界に繋ぎ止めてくれたのは、雑踏の中でも響き渡る甘く優しい音色だった。

 その音源を手繰り寄せるように辺りを見渡せば、近くの商業ビルの巨大スクリーンでは一人の男性が歌唱していた。


「真っ暗な空間の中、水中から生える大小様々な水晶の間を歌いながら歩くキョウくんは、この世のものとは思えないくらい綺麗だったの。透き通った氷のような水晶に反射する横顔も人形のように整っていて、歩く度に揺れる髪の軽やかさや雪のように白い肌も人間離れしているように美しかった」

「所詮はCGと歌い手を合成させた紛い物だろう」


 響夜が気に入らないのか不愉快そうに鼻を鳴らしながら悪態をつく響葵を横目で見つつ、彩月はクローゼットから着古したスウェットを取り出す。

 替えの下着も出したが、響葵の目の前に置いた途端に恥ずかしそうに彩月に背を向けてベッド前へと逃げてしまう。

 うさぎに見られても気にしないが、響葵は男の子だから気遣ってくれたのだろうか。

 それなら響葵を乾かしてから部屋の外で下着を替えようと、先にスウェットを履いたのだった。


「たとえ作り物のPVでもキョウくんの清楚なイメージにピッタリだったんだよ。降り積もる雪のように柔らかな声とも相性抜群で幻想的だった……」


 耳心地の良い澄んだ好音が奏でるバラード曲に聞き入っていると、不意に慈愛に満ちた微笑みが彩月に向けられる。全てを慈しみ包み込むような微笑に足を止めて食い入るように見ていると自然と涙が流れた。

 現役高校生にして国内屈指の難関大学への合格を見事に手にした優秀な爽月。そんな爽月と意図的に比較することで、彩月を憐れな気持ちにさせる両親。

 爽月が褒められ、讃えられる度に彩月の心は抉られて擦り切れていった。

 もう息をするのも辛いというほどに……。

 そんな傷だらけの彩月の心に響いたキョウくんの歌声は、どんな慰めの言葉や形だけの同情よりも清らかで尊くて優しさに満ちていた。

 先も見えない真っ暗な絶望の中にいた彩月の心を照らした一筋の光そのものであった。


「キョウくんの歌声を聴いた瞬間、すうっと心に入って涙が溢れてきて、荒んだ心が洗われたの。受験に失敗したからといって死ぬわけじゃない。ここから挽回できるチャンスがあるかもしれないって。それで短大を受験したの」


 これまでも色んな歌を聴いてきたが、ここまで心を動かされたのは響夜の歌声が始めてだった。そもそもこれまで誰かを好きになることさえ無かった。

 早く爽月に追いつきたいからと高校を卒業するまで脇目も振らずに一心不乱に勉強に明け暮れていた彩月は、自分と同年代の子たちが好むファッションやコスメ、音楽や芸能人の話題を知らずにいた。

 それもあってクラスメイトの会話にもさっぱりついていけず、中学高校と一人で過ごす時間が多かった。

 そんな彩月が始めて好きになったアイドルの五十鈴響夜。出演作を全て観て繰り返し音楽を聴いて、そしてSNSで布教活動をして少ないながらも同胞を得た。

 知らず知らずのうちに彩月がやっていた一連の行動が、推しの魅力を世間に広める「推し活」に当たると知ったのはつい半年前のことだった。


「受験こそ上手くいかなかったけれど、ここで良い成績を取って有名な企業に就職できたら家族も見直してくれるかもしれないって希望も持てたんだ。まあ、それも無駄みたいだけどね……」


 力なく笑ってみせるが、響葵は彩月の話よりも響夜のポスターに釘付けのようだった。そんな響葵をベッドの上に乗せると、彩月も同じようにポスターを見つめる。

 ポスターの中の響夜は、今日も変わらず疲弊した彩月の心を癒すように朗笑してくれた。

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