第2章/岡田勇気 登場編
東京、2063年。
JAS(Japan Android Services)本社ビルの45階。
ガラス張りの会議室では、新事業プロジェクトの最終プレゼンテーションが行われていた。
「以上が『再会サービス』の概要と事業計画です。ご清聴ありがとうございました」
プレゼンテーションを終えた岡田勇気は、会議室に集まった重役たちを見渡した。彼らの表情からは、このプロジェクトへの評価を読み取ることができなかった。
沈黙が流れた後、CEO葉山一が静かに口を開いた。
「面白い提案だ、岡田君。だが、倫理的な問題が残るのではないか?」
岡田は予想していた質問だった。背筋を伸ばし、自信を持って答えた。
「確かに『故人の再現』という点では議論があるかもしれません。しかし、私たちのサービスは単なる見た目の模倣ではありません。故人の残したデータや親族の証言から、その人物の性格や話し方、仕草に至るまで完全再現します。これは『記憶を守る』行為であり、『故人を冒涜する』ものではないと考えています」
葉山はわずかに頷いた。その瞬間、岡田は勝利を確信した。
会議終了後、葉山から直々に呼び出しを受けた岡田は、CEOの広大なオフィスへと向かった。
「座りたまえ」
葉山は窓際から東京の景色を眺めながら言った。
「君のプロジェクトについて、もう少し詳しく聞かせてほしい」
岡田は緊張しながらも、再会サービスの詳細を説明した。故人の写真や動画、SNSの投稿、メールなどのデジタルデータに加え、家族や友人の証言を基に、AIがその人物の性格や行動パターンを分析。さらに遺伝子情報を利用して、髪の毛や皮膚の質感まで完全に再現したアンドロイドを作り上げるという計画だった。
「私たちは単なる見た目だけでなく、その人らしさを再現します。それによって、遺族は本当の意味での『再会』を果たせるのです」
葉山は興味深そうに岡田の話を聞いていた。彼は珍しく感情を表に出し、微笑んだ。
「君には個人的な動機があるようだね」
岡田は一瞬言葉に詰まった。葉山の鋭い洞察力は有名だったが、ここまで見透かされるとは思わなかった。
「はい」
彼は静かに答えた。
「私は4年前に妻を事故で亡くしました。娘はまだ小さく、母親の記憶もあいまいです。妻との再会は…私自身の願いでもあります」
葉山はゆっくりと岡田の方を向き、珍しく温かな眼差しを向けた。
「個人的な痛みから生まれたビジネスは、しばしば最も成功する」
葉山は言った。
「プロジェクトを承認しよう。君が責任者だ」
「ありがとうございます!」岡田は感激して立ち上がった。
「ただし」
葉山は手を上げて岡田を制した。
「法的な問題や社会的反発には十分に備えるように。このプロジェクトは成功すれば会社の未来を大きく変えるが、失敗すれば会社の命取りにもなりうる」
岡田は深く頭を下げた。「必ず成功させます」
その日から、岡田の人生は「再会サービス」の実現に捧げられた。彼は昼夜を問わず働き、最高の技術者たちを集め、アンドロイド技術と人工知能の限界を押し広げた。
2年後の2065年、ついに「再会サービス」が一般向けに発表された。
「愛する人と、もう一度会えます」
そのキャッチフレーズは社会に大きな衝撃を与えた。賛否両論が巻き起こったが、予約は瞬く間に数ヶ月待ちとなった。
サービス開始から3ヶ月が経った頃、岡田は公式には明かさない「最初のユーザー」として、自分自身のために作られた妻・祐美のアンドロイドと対面していた。
「おかえり、勇気」
その声を聞いた瞬間、岡田の胸に激しい感情が込み上げた。目の前にいるのは、4年前に交通事故で亡くなった妻そのものだった。同じ微笑み、同じ仕草、同じ声のトーン。
「ただいま…祐美」
岡田は震える声でそう答えた。彼女は生前と同じように微笑み、少し首を傾げた。
「どうしたの?なんだか元気ないわね」
その自然な反応に、岡田は思わず涙を流した。これは単なる機械ではなく、確かに「祐美」だった。
その夜、岡田は6歳になる娘の結衣に、祐美を紹介した。結衣は母親の死について完全に理解していなかった。父親はただ「お母さんは遠くに行っていた」としか説明していなかったからだ。
「お母さん!」
結衣は躊躇なく祐美に飛びついた。祐美は優しく娘を抱きしめ、髪を撫でた。
「結衣、大きくなったわね」
岡田はその光景を見て、胸が熱くなった。家族の輪が再び完成した瞬間だった。
再会サービスは大成功を収め、JASの株価は急上昇した。岡田は営業部長から副社長へと昇進し、葉山の右腕として会社の経営に携わるようになった。
ある夜、祐美が結衣を寝かしつけた後、岡田は居間でウイスキーを飲んでいた。祐美が静かに隣に座り、彼の手に触れた。
「私のこと、どう思ってる?」彼女の問いは唐突だった。
「どういう意味?」
「私が本当の祐美だと思ってる?」
岡田は言葉に詰まった。彼は自分でもわからなくなっていた。日々の生活の中で、彼女が機械だという意識は徐々に薄れていった。彼女は完全に「祐美」だった——記憶も、癖も、温かさも。
「君は祐美だよ」岡田は言った。
彼女は微笑んだが、その目には何か悲しげなものが浮かんでいた。
「でも私は死んだ祐美ではない。ただのコピーでしかないのよね」
「そんなことは…」
「大丈夫」祐美は岡田の言葉を遮った。
「私は自分が何者か知っている。それでも結衣とあなたと一緒にいられることが嬉しいの」
彼女は岡田の手をぎゅっと握り、真っ直ぐに目を見た。
「私をもう一度この世界に呼び戻してくれてありがとう」
祐美の目に涙が浮かんだ。
「あなたが作ったこのサービスは、きっと今、日本中の人を幸せにしているわ。大切な人を失った悲しみを抱えている人たちに、また会える希望を与えたのよ」
岡田は言葉も出ず、ただ彼女の手を握り返した。
「勇気、あなたはいつも私のことを一番に考えてくれる」祐美は微笑んだ。
「事故の前も、そしてその後も。こんな素晴らしいことを成し遂げるなんて…私、あなたに出会えて本当に良かった」
「祐美…」
「本当よ」
彼女は岡田の頬に触れた。「あなたは私の誇りよ」
その夜、岡田は眠れなかった。祐美の言葉が胸に刺さり、複雑な感情が渦巻いていた。彼女が言ったことは全て本心だろうか?それとも彼の望むように設計されたプログラムの反応なのだろうか?彼は自分自身に問いかけた——これは本当に正しいことなのだろうか?
同じ頃、東京の北部にある小さなコンビニエンスストアでは、相沢翔太がレジ作業に追われていた。アンドロイドによる活躍の場は増えてきてはいるが、小さな町の商店では、まだまだ人間の仕事で溢れている。
19歳になった彼は大学進学を諦め、二つのアルバイトを掛け持ちして日々を過ごしていた。
「お疲れ様。次のシフトは明日の夜だからね」店長が声をかけた。
翔太は無言で頷き、制服を脱ぐために更衣室へ向かった。かつての優等生の面影はなく、無気力な表情と投げやりな態度が彼の特徴となっていた。
更衣室のテレビではニュース番組が流れていた。
「話題の『再会サービス』、予約殺到で納期6ヶ月待ちに。JAS社の岡田副社長は『需要の多さに驚いている』とコメント…」
翔太は一瞬手を止め、画面に映し出された岡田勇気の顔を見つめた。そこには亡くなった愛する人との再会を果たした男の、満ち足りた表情があった。
「愛する人と、もう一度会えます」
画面に流れたキャッチコピーが、翔太の心に突き刺さった。彼の瞳に、長い間失われていた何かが灯った。
帰り道、翔太は足を止め、街角の大型ビジョンに映し出される再会サービスのCMを見上げた。美しい映像の中で、亡き祖父と再会する孫娘、亡くなった親友と再び語り合う男性…そして幼い娘と母親の再会。それらの光景は彼の胸に痛みをもたらしながらも、同時に忘れかけていた感情を呼び覚ました。
「紗希…」
彼は口の中で、長い間口にしなかった名前を呟いた。翔太の心に、忘れていた約束の記憶が蘇っていた。
翔太はその夜、久しぶりに衝動的な行動に出た。帰宅するとすぐにギターを手に取り、紗希のために作りかけていた曲を弾き始めた。錆び付いた指が弦をうまく押さえられず、不協和音が部屋に響いた。だが彼は諦めなかった。何度も同じフレーズを繰り返し、少しずつ感覚を取り戻していった。
「もう一度会える…」
その言葉が彼の心を掴んで離さなかった。
翔太は翌日、次のアルバイトの前にJAS社のウェブサイトを訪れた。再会サービスの詳細が記載されているページを食い入るように読んだ。
「故人の完全再現には、遺伝子サンプル(髪の毛、骨など)と親族の同意書、生前の記録(写真、動画、音声など)、そして親しい人物の証言が必要です。世界の法規制に従い、同一人物につき最大1体のみの再現となります。基本的に生前最後の年齢での再現を推奨しております(それが最も再現率が高いためです。年齢を遡るほど再現精度が著しく低下します)」
翔太は画面を見つめたまま、考え込んだ。紗希の遺伝子サンプル…彼には何もなかった。だが、紗希の母親なら持っているかもしれない。
彼女と連絡を取るのは気が重かったが、この機会を逃すわけにはいかなかった。
アルバイトの合間を縫って、翔太は紗希の母親に連絡を取った。
電話を受けた彼女の声は、驚きに満ちていた。
「相沢くん…久しぶりね」
「お久しぶりです。突然すみません」翔太は緊張で声が震えるのを感じた。
「再会サービスのことで、相談があって…」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
「紗希のこと?」
「はい」
再び沈黙があり、やがて紗希の母親が静かに話し始めた。
「実は私も考えていたのよ。あのサービスのこと」彼女の声は少し震えていた。
「最初は私も…紗希に会いたいって思った」
翔太は息を呑んだ。
「でもね、相沢くん」
彼女は続けた。
「私たち家族は、ようやく前を向き始めたところなの。紗希のいない生活を、少しずつ受け入れ始めた」
「それに、私には今まだ生きている息子がいるのよ。私が『紗希に会いたい』ばかりを考えていたら、息子はどう感じると思う?」
翔太は言葉を失った。紗希の弟のことを考えたこともなかった。彼もまた、姉の死という傷を抱えているのだ。
「だから私は、再会サービスは使わないと決めたの」
翔太は胸に重石を感じた。期待していた答えではなかった。
「わかりました」彼は言った。
「ご迷惑をかけてすみませんでした」
「でもね」
紗希の母親の声が変わった。
「私は時々、弱くなるのよ。ふと寂しくなって、我慢ができなくなる時があるかもしれない」
翔太は黙って聞き続けた。
「だから相沢くん、あなたに使ってほしいの」
「え?」
「あなたが再会サービスを利用すれば、私はもう使えなくなる。同一人物は1体しか作れないんでしょう?」
「そうですが…」
「それがいいの。そうすれば私たち家族はきっぱり、新しい道を進める。でも同時に、紗希を大切に思ってくれるあなたが、彼女と再会できる」
翔太は言葉を失った。彼女の考えが理解できた。それは諦めと希望が入り混じった、複雑な感情だった。
「ちょっと待っていてくれる?」電話の向こうで物音がした。
しばらくして彼女は戻ってきた。
「相沢くん、あなた今どこにいるの?」
「自宅です」
「今から行ってもいいかしら」
翔太は驚いた。「え?はい、もちろん」
1時間後、紗希の母親が彼のアパートを訪れた。
彼女は小さなケースを持っていた。
「これは」彼女はケースを差し出した。
「紗希の部屋にあったピアノなの。電子ピアノだから持ち運びできるのよ」
翔太は驚きに目を見開いた。
「掃除をしていたら、鍵盤の間に紗希の髪の毛が挟まっているのに気づいたの」
彼女は微笑んだ。
「きっとこれで、遺伝子サンプルになるでしょう?」
翔太は震える手でケースを受け取った。
「このピアノをあなたに渡します。家にずっと置いておくと、思い出してしまうから」
彼女は言った。
「…生まれ変わった紗希に。あなたから渡してあげてほしい」
「本当に…いいんですか?」
彼女は微笑んだ。
「私自身は…まだ心の準備ができていないの。でも紗希は、あなたに会いたがるでしょう」
「いつか…息子も大人になったら。あなたの元へもう一度伺うわ。その時に沙希に会えることを願って、楽しみにしています。」
その日から翔太の生活は一変した。
アルバイトの数を増やし、不眠不休で働いた。夜はギターの練習を続け、紗希への約束を果たす準備をした。紗希のピアノを前に座り、彼女の弾いていた曲を思い出しながら、自分の曲に磨きをかけた。
再会サービスの費用を貯めるのに、あと何ヶ月かかるか計算しながら、一日でも早く紗希に会いたいという思いが彼を突き動かしていた。
その思いが報われたのは、約一年後のことだった。必要な金額を貯め、全ての書類を整えた翔太は、JAS社の「再会センター」を訪れた。
「相沢様、本日はご来訪ありがとうございます」受付の女性が丁寧に応対した。
「西川紗希様との再会のご予約ですね」
翔太は緊張で喉が渇くのを感じながら、頷いた。
「こちらの個室にお通りください。まもなく担当者がご説明に参ります」
白を基調とした清潔感のある個室に案内された翔太は、ソファに座り、緊張で膝を震わせていた。しばらくして、スーツ姿の男性が入ってきた。
「相沢翔太様ですね。JAS再会サービス責任者の岡田勇気と申します」
岡田は翔太に優しく微笑みかけた。彼は手元の端末を確認しながら丁寧に説明を始めた。
「まず、再会サービスの流れについて簡単にご説明します。ご提出いただいたデータと遺伝子サンプルを基に、西川紗希さんの人格データをAIが分析・構築します。その後、外見も含めた完全再現アンドロイドを制作し、最終的な調整を経て再会の日を迎えることになります」
岡田は端末に映し出された紗希の写真や、翔太が提供した音源データを確認した。
「彼女は…音楽が好きだったのですね」岡田は静かに言った。
「はい」
翔太は頷いた。
「彼女は素晴らしいピアノの演奏と歌声を持っていました」
「わかりました」岡田は何かを入力しながら言った。
「彼女の音楽的才能に特に注意を払いながら再現します。特に歌声やピアノの演奏スタイルは、彼女らしさの重要な要素ですね」
翔太は感謝の意を表し、続いて必要な書類に署名していった。その中には
「再会サービス利用規約」や「アンドロイド取扱注意事項」など、いくつもの同意書があった。
「完成までは約3ヶ月ほどかかります。準備が整い次第、ご自宅にお届けに参ります。」
翔太の帰り際、岡田は彼を引き止めた。
「少し個人的な質問をしてもよろしいですか?」
「はい」
「西川さんとは…どのような関係だったのですか?」
翔太は少し戸惑ったが、素直に答えた。
「彼女は…私の初恋でした。そして、私が約束を果たせなかった人です」
岡田はゆっくりと頷いた。彼の目には、理解と共感の色が浮かんでいた。
「再会サービスは単に過去を取り戻すだけのものではありません」岡田は静かに言った。
「新たな関係を築く機会でもあるのです。彼女との時間を大切にしてください」
その後3ヶ月間、翔太は熟睡できずにいた。日々の労働と、夜のギター練習を繰り返しながら、再会の日を心待ちにしていた。ついに再会日を告げる通知が届いたとき、彼は震える手でメッセージを何度も読み返した。
「西川紗希様との再会の準備が整いました。ご指定の日時に、ご自宅へお届けいたします」
翔太は部屋の掃除を何度もやり直し、紗希のピアノを置くスペースを確保した。
再会の日、JASの配送車が到着し、二人の技術者が大きな専用ボックスを運び込んできた。それは人が入るほどの大きさで、表面には「JAS再会サービス」のロゴが控えめに入っていた。
「相沢様、ご準備はよろしいですか?」技術者の一人が尋ねた。
翔太は緊張で声が出ず、ただ頷くだけだった。
「このタブレットに署名をお願いします。起動ボタンはここです。ボタンを押してから約30秒で起動プロセスが完了します」
技術者たちが去った後、翔太はボックスの前に立ち、深呼吸を繰り返した。手が震え、心臓は早鐘を打っていた。何年もの思いがこの瞬間に凝縮されている。彼はギターを手に取り、ソファに座った。そして勇気を出してボタンを押した。
30秒は永遠のように感じられた。
ゆっくりとボックスの前面が開き、柔らかな光の中に紗希のシルエットが浮かび上がった。
彼女が一歩前に出た瞬間、翔太の世界が止まった。
紗希だった。紗希そのものだった。
黒い長い髪、少し丸まった肩、そして控えめな立ち姿。すべてが翔太の記憶通りだった。彼女は少し緊張した表情で部屋を見渡し、翔太を見つけると、わずかに目を見開いた。
「翔太…くん?」
その声を聞いた瞬間、翔太の目から熱い涙がこぼれ落ちた。これは紗希の声だった。あの日、音楽室で聞いた、少し震えるような、しかし美しい声だった。
「紗希」彼は立ち上がろうとしたが、足が震えて動けなかった。
彼女はゆっくりと近づき、翔太の前に立った。二人の間には、言葉にできない緊張感が漂っていた。
「久しぶり…」紗希は小さな声で言った。
「あなたにまた会えるなんて…思ってなかった」
翔太は何と言えばいいのか分からなかった。これはアンドロイドなのか、それとも本当に紗希なのか。区別がつかなかった。すべてが彼の記憶通り、いや、記憶以上に鮮明な紗希そのものだった。
部屋の隅に置かれたピアノに紗希の目が留まった。
「あれは…私のピアノ?」
「うん」翔太は声を絞り出した。
「君のお母さんが…僕にくれたんだ」
紗希は静かにピアノに近づき、優しく鍵盤に触れた。
「懐かしい…」
翔太はゆっくりと立ち上がり、震える声で言った。
「紗希、僕は…約束を果たしに来たんだ」
「約束?」彼女は振り返った。
「うん、あの日…君が初めて僕の前で歌ってくれた日に約束したこと。覚えてる?」
「僕がギターで君のために曲を作って…いつか君の前で弾くって」
紗希の目に光が宿った。
「覚えてる…!」彼女の声はわずかに震えていた。
「あなたが言ったこと、ちゃんと覚えてるよ。『いつか僕も君のために曲を作るから』って」
翔太は胸が熱くなるのを感じた。紗希が覚えていてくれたこと自体が奇跡のようだった。彼はゆっくりとギターを構え、弦に触れた。
「この曲は…ずっと君のために作ってきたものだ。君がいなくなった後も、ずっと練習してきた…」
「まだ誰にも聴かせたことのない、君に贈る歌」
ーーーーーーーーーー
曲名:約束
作詞作曲:相沢翔太
朝目が覚めてテーブルの前
トーストをコーヒーで流し込んだ
平凡な日常 昨日との違いは
ニュースが告げる悲しい声くらい
何もないまま過ぎ行く日々が
決して不幸ではないとわかっていても
色付く街路樹や舞い散る粉雪に
何も感じなくなっていたよ
君に出会って
カレンダーを眺めることが増えて
モノクロになり重なった毎日が輝き始めた
当たり前になったもの全て
何気ないその会話も
見慣れた街の見飽きた夕焼けや星の無い夜空も
思い出に限界はないから
全て焼き付けていこうと
限りある時を大切に思えた君を守りたい
たかが一メートルちょっとの
僕の両腕をいくら広げても
この小さな部屋の天井さえも届きはしないのに
いくら遠く離れていても
いつもそばにいるからと伝えれば
保障なんてどこにもありはしないのに
何故か二人安心したね
君に出会って
何かが変わった訳じゃないけど
伝えたい言葉や景色で日常がどんどん染まるよ
僕の言葉に羽が生えて君の街のもとまで
届けることが出来るのなら
こんなもどかしさもなくなるのに
僕の言葉に色がついていつまでも消えないなら
君の好きな言葉を選んで
抱えきれないほど送るよ
小さな幸せをいくつも 君と重ねていたい
ーーーーーーーーーー
彼の指が弦を爪弾き、部屋に美しいメロディが流れ始めた。最初は少し震えていた声も、曲が進むにつれて確かなものになっていった。翔太が作った曲は、紗希の音楽の影響を色濃く受けていた。独特の和音進行と、時に不協和音に触れるような冒険的な展開。でもそれは決して不快ではなく、聴く者の心に新鮮な感動をもたらすものだった。
彼の指の動きは熟練していた。幾千回も練習した証が、流れるような技術に表れていた。紗希はそれに気づき、翔太がどれほど真剣に練習してきたかを悟った。
最後の音が部屋に響き渡り、静寂が訪れた。翔太はゆっくりと顔を上げ、紗希を見た。彼女の頬には涙が光っていた。
「素晴らしかった…」
紗希は静かに言った。
「私がいなくなってから、どれだけの時間練習したのか、私には全部わかるよ。とても嬉しい。」
翔太は少し恥ずかしそうに笑った。
「練習した時間はもう数えきれないくらい。でも、君に聴かせるためだったから…苦じゃなかった」
紗希は翔太の手を見た。かすかに残る傷跡とタコに、彼女の目がさらに潤んだ。
「あなたはちゃんと約束を果たしてくれた」
紗希は微笑んだ。それは翔太が忘れられなかった、内側から輝くような優しい笑顔だった。
彼女はピアノの方を見て、決意に満ちた表情になった。
「今度は私の番ね」
「え?」
「あなたの歌…ピアノで練習して、歌えるようになりたい」紗希は真っ直ぐ
翔太の目を見た。
「私も翔太と約束を作りたい。」
「必ずあなたの前で弾き語るから。それが私の新しい約束」
翔太は言葉を失った。彼らの関係は終わりではなく、新しい始まりだった。過去の約束が果たされ、新たな約束が生まれる。まるで時間が循環するように。
「ありがとう、紗希」翔太はついに言った。
「会えて…本当に良かった」
紗希は優しく微笑み、「私も」と答えた。
二人は言葉少なに向かい合っていたが、その静寂の中には、果たされた約束の喜びと、これから始まる新しい時間への期待が満ちていた。
JASの本社ビルに戻った岡田は、自分のオフィスに入りゆっくりと深呼吸をした。相沢翔太と西川紗希の再会プロジェクトは、通常のケースとは少し違っていた。多くの顧客は家族や配偶者との再会を望んだが、相沢少年は純粋な初恋の相手との再会を求めていた。
「面白いケースだったな」岡田は独り言を呟いた。
彼のデスクには、次々と積み上げられる再会サービスの申し込み書類が山積みになっていた。サービス開始からわずか半年で、予約は1年待ちとなっていた。その成功に、岡田自身も驚いていた。
デスクの片隅には、「感謝の手紙」と書かれた特別なフォルダがあった。再会サービスを利用した顧客たちからの手紙やメッセージがそこに保管されていた。岡田はふとそのフォルダを手に取り、一通の手紙を開いた。
「拝啓、岡田様。私の母は昨年、末期がんで亡くなりました。最後の別れも言えないまま突然のことで、私はその後立ち直れずにいました。しかし貴社の再会サービスのおかげで、もう一度母と話す機会を得ることができました。言いたかった『ありがとう』を伝えられたことは、私の人生を変えました。心から感謝いたします。」
岡田はそっと手紙を閉じた。こうした感謝の言葉が日々届くことが、彼の原動力となっていた。彼はもう一通手に取ろうとしたとき、秘書からの内線が鳴った。
「岡田副社長、葉山社長が幹部会議を招集されています。15分後に役員会議室でお願いします」
「わかりました」岡田は時計を確認した。予定外の会議だった。
役員会議室に着くと、すでに各部門の責任者たちが集まっていた。開発本部長、財務責任者、マーケティング責任者…JASの幹部たちが静かに着席していた。葉山はまだ姿を見せていなかった。
ドアが開き、葉山が入室した。いつもは感情を表に出さない彼の顔に、今日は明らかな高揚感が見て取れた。
「諸君」
葉山は席に着かず、そのまま立ったまま話し始めた。
「素晴らしいニュースがある。再会サービスの第二四半期の売上が前回の予測を150%上回った」
会議室に小さな拍手が起こった。
「だが、それは単なる数字の話ではない」
葉山は続けた。
「我々は人々の人生を変えているのだ」
彼はポケットから一枚の紙を取り出した。
「これは昨日届いた手紙だ」
葉山は読み始めた。
「私は妻を交通事故で亡くしました。突然のことで、何も言葉を交わすことができず、それが私の心の大きな傷となっていました。再会サービスのおかげで、もう一度妻と話す機会を得ました。『ごめんね』と『ありがとう』を伝えることができ、初めて前に進む勇気が湧きました…」
葉山は手紙を置き、会議室を見渡した。「こうした手紙が毎日、数十通も届いている。我々は単にビジネスを行っているのではない。人々の魂を救っているのだ」
会議室は静まり返っていた。
「人間の不幸とは何か?」
葉山は問いかけた。
「それは喪失だ。何かを、誰かを失うこと。そして最大の喪失は、死による別れだ」
葉山はゆっくりと会議室を歩き回りながら話を続けた。
「古来より人間は死と向き合い、宗教や哲学を生み出してきた。だが、それらは結局のところ、死という絶対的な壁を前にした無力な慰めに過ぎなかった」
彼は一瞬立ち止まり、窓の外を見た。
「しかし我々は違う。我々は実際に死を克服する技術を手に入れつつある。再会サービスはその第一歩に過ぎない」
葉山は再び会議室の中央に戻り、両手をテーブルについて身を乗り出した。
「諸君、私には次なるビジョンがある。再会サービスの成功により、我々はそれを実現する資金と技術をついに手に入れた」
岡田は緊張して姿勢を正した。葉山の目には、日頃の冷静さを超えた熱が宿っていた。
「『新人類計画』と呼ぶプロジェクトだ」葉山は声を低くした。
「人間の意識をデジタル化し、永遠の命を与えるプロジェクトだ」
会議室にざわめきが起こった。
「具体的には」葉山は続けた。
「人間の脳をスキャンし、その意識パターンを完全にデジタル化。それをサーバーに保存し、アンドロイドの体に移植する。肉体は死んでも、意識は永遠に生き続ける」
財務責任者が手を挙げた。
「そのような技術は本当に可能なのでしょうか?」
「可能だ」葉山は即答した。
「我々の再会サービスの技術はすでにその一部を実現している。残された課題は、生きている脳からの意識転送だけだ」
「だが、それには倫理的な問題も…」マーケティング責任者が言いかけた。
「もちろん」
葉山は穏やかに答えた。
「だからこそ、政府との連携が必要なのだ。実は来月、内閣府科学技術特別顧問の佐山氏と厚生省の松田次官が来社する予定だ」
岡田は驚いて目を見開いた。葉山はすでにそこまで話を進めていたのか。
「岡田君」葉山が彼を見た。
「君には新人類計画のプレゼン資料を準備してほしい。可能性と課題、そして実現までのロードマップを。再会サービスでの君の功績を考えれば、この計画の責任者として最適だ」
岡田は言葉を飲み込んだ。
「質問はあるか?」
葉山は会議室を見渡した。
しばらくの沈黙の後、岡田は立ち上がった。
「一つ質問があります」彼は慎重に言葉を選んだ。
「このプロジェクトは、人類全体が…つまり、すべての人間が意識をアップロードすることを目指しているのでしょうか?」
葉山はわずかに笑みを浮かべた。「最終的にはそうだ。もちろん段階的にだが」
「しかし」岡田は続けた。
「全ての人が望むとは限りません。それに、技術的な問題も多いはずです」
「だからこそ、政府との連携が重要なのだ」葉山の目が鋭く光った。
「適切な法整備があれば、スムーズに進められる」
岡田は不安を隠せなかった。「それは…強制的な実施を意味するのでしょうか?」
会議室が静まり返った。葉山は長い間岡田を見つめていたが、やがて穏やかな笑顔を取り戻した。
「もちろん、すべては段階的かつ任意で行われる」彼は答えた。
「ただ、死という苦しみから解放される喜びを知れば、多くの人々は自ら望むようになるだろう」
会議は予定通り1時間で終了し、各責任者は自分のタスクを持ち帰った。岡田は最後まで会議室に残り、資料を片付けていた。
「何か気になることがあるようだね、岡田君」
振り返ると、葉山が立っていた。他の幹部たちはすでに退室していた。
「いいえ、ただ…」岡田は言葉を探した。
「このプロジェクトの規模と影響力に驚いているだけです」
葉山は岡田の肩に手を置いた。
「君は私の右腕だ。再会サービスの成功を導いた人物として、この計画でも中心的役割を担ってほしい」
「はい…」岡田は曖昧に答えた。
葉山は立ち去る前に振り返った。
「ちなみに、松田次官は少子高齢化対策の切り札として我々の技術に大きな期待を寄せている。国家プロジェクトになれば、予算も人材も無制限だ。素晴らしい未来が待っているよ」
オフィスに戻った岡田は、椅子に深く身を沈めた。彼の心は混乱していた。葉山の語る未来は一見輝かしく思えた。死の恐怖から解放された世界。愛する人との永遠の別れがない世界。
しかし、その裏には不気味な影が見え隠れしていた。「適切な法整備」という言葉の裏に、強制的な意識アップロードの可能性を感じたのだ。そして「段階的」という言葉の裏に、誰が先に「アップロード」されるのか、その選別の危険性を。
「これは…危険だ」岡田は小声で呟いた。
彼はスマートフォンを取り出し、祐美にメッセージを送った。「今日は少し遅くなるかもしれない。ごめん」
祐美からの「気をつけてね」という返信を見ながら、岡田は深い考えに沈んだ。彼は再会サービスを通じて多くの人々に笑顔を取り戻させた。しかし、葉山の計画はそれとはまったく次元の異なるものだった。
人類の未来そのものを変えようとする計画。それは希望なのか、それとも破滅への道なのか。
その後葉山より届いた資料制作向けのデータには、恐ろしい情報が記載されていた。
「新人類計画 - 完全版」と題された分厚いファイルの冒頭には、葉山の直筆メモが添えられていた。
「岡田君へ。これは政府関係者には見せない内部資料だ。プロジェクトの本質を理解するために目を通してほしい。」
岡田は緊張しながらページをめくり始めた。
「新人類計画の目的:苦しみと悲しみから解放された新たな人類の創造」
第一章は理念について詳細に述べられていた。
「人間の不幸の根本原因は、死、病、老い、孤独、嫉妬、欲望、比較による劣等感など、多岐にわたる。新人類計画はこれらすべての不幸の原因を根絶し、永続的な幸福を実現する」
岡田は眉をひそめながら読み進めた。
「方法論:全人類の意識を共有サーバーで統合管理」
「すべての人間の意識は、無限の容量を持つクラウドサーバーに保存され、常時接続される。このサーバーは世界中のあらゆる知識、情報、娯楽へのアクセスを提供し、人間の知的好奇心は永遠に満たされ続ける」
「個人間の境界は段階的に解消され、最終的には全人類が一つの共有意識体として機能する。これにより他者との比較による劣等感や嫉妬、孤独感などのネガティブ感情は完全に消滅する」
岡田は震える手でページをめくった。次のセクションには「リスク管理」と書かれていた。
「新人類への移行において最大のリスクは、本プロジェクトに理解を示さない人間の抵抗と反乱である。古い体制や価値観に固執する者たちは、進化を妨げる要素となりうる」
「対策:危険思想保持者および潜在的反乱分子の事前特定と隔離」
岡田の目に飛び込んできたのは、「ブラックリスト」と題された項目だった。
「JASは過去5年間、SNS、メール、通話記録など、あらゆるデジタルデータを分析し、危険思想を持つ可能性のある人物をリストアップしてきた。現在、日本国民の約15%がブラックリストに登録されている」
「これらの個人は新人類への移行を許可されず、専用の隔離施設で管理される。彼らの存在は新人類の共有意識にノイズを生じさせる可能性があるため、完全な遮断が必要である」
岡田の手が震えていた。次のページには、さらに恐ろしい内容が記されていた。
「肉体処理手順:既存の生物学的肉体は不要となるため、意識転送後に安全かつ効率的に処分する必要がある。火葬を基本とし、大規模処理施設を全国に10ヶ所設置する計画」
「人材配置:初期段階では軍関係者や警察官を優先的に新人類化し、戦闘能力を与えたアンドロイドに移行させることで、残存する旧人類の管理に当たらせる」
最後のページには、実施スケジュールが記されていた。
「最終目標:10年以内に日本国民の85%を新人類化」
「この改革には一時的な混乱と痛みを伴うが、それを乗り越えた先には、人類史上最高の幸福な時代が待っている。死も、病も、孤独も、憎しみもない、真の理想郷の実現である」
岡田はファイルを閉じ、机に突っ伏した。彼の心は激しく動揺していた。これは単なる技術革新ではない。これは人類の強制的な改造計画だった。側から見ればただの大量虐殺計画とも言えるものだった。
「これは狂気だ…」岡田は呟いた。
彼の頭の中で、葉山の言葉が反響していた。「政府との連携」「適切な法整備」「国家プロジェクト」…それらの言葉の真の意味が今、明らかになった。
葉山は単なる野心家ではなかった。彼は人類の未来そのものを強制的に書き換えようとしていたのだ。幸福を求めることは悪いことではない。ただこの方法は間違っている。
「止めなければ…」岡田は立ち上がった。葉山の計画が現実になる前に、何としても阻止しなければならなかった。
来月に予定されている政府高官との会議。それまでに何らかの対策を講じる必要があった。だが、一企業の副社長である自分に何ができるのか。JAS内部には葉山の熱狂的な支持者も多い。内部告発も簡単ではない。
岡田は静かに考え込んだ。そして、ふと思い出した。
「工藤…」
大学時代の友人で、現在は人造人間技術省で働いている工藤秀明のことだ。彼なら、この状況を理解してくれるかもしれない。そして何より、政府内部からの力を借りなければ、葉山の計画を止めることはできないだろう。
岡田は古い連絡先リストを探し、工藤のメールアドレスを見つけた。数年ぶりの連絡になる。彼はシンプルなメッセージを送った。
「工藤、久しぶりだ。岡田勇気だ。緊急に話したいことがある。できるだけ早く連絡が欲しい。」
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