【オリジナルSF小説】2060【完結】
タカユキ
第1章/相沢翔太 登場編
東京、2060年。
春の陽射しが窓ガラスを通して教室を柔らかく照らしていた。黒板の前に立つ女性教師は、完璧すぎるほど整った表情で微笑んでいた。
「では、本日のテストの結果を発表します」
そう言って教師——いや、教育用アンドロイドK3-721は、手元の端末を操作して電子黒板に一覧表を映し出した。トップに表示された相沢翔太の名前に、クラスメイトからどよめきが上がる。
「相沢君、おめでとう。全国模試で99.7パーセンタイルは素晴らしい成績です」
翔太は「ありがとうございます」と言いながら、どこか空虚な気分だった。高い評価を得ることが日常となった彼にとって、それはもはや特別なことではなかった。
アンドロイド教師は人間そっくりの外見をしていながら、常に公平で、誤りなく、そして完璧だった。だからこそ、翔太はいつしか学校という場所に退屈さを覚えるようになっていた。
放課後、翔太は機械的な動作で学習用PCを鞄に収め、肩を落として帰路についた。春の風が桜の花びらを舞わせ、その光景だけが彼に小さな慰めを与えていた。
東京の街並みは半世紀前とは大きく変わっていた。高層ビルの間を縫うように自動運転の車両が行き交い、歩道では配達用アンドロイドが小包を抱えて忙しなく移動している。街角のカフェでは、アンドロイドのウェイターが完璧な笑顔で客を迎えていた。道行く人々の半数以上はどこかしら機械の部品を身につけている。目の前を歩く老人の足は明らかに義足だった。その滑らかな動きは、かつての人間の足とほとんど見分けがつかない。
翔太の通う中学校では、人間の教師はわずか校長一人だけ。残りは全てアンドロイドだった。これは別段珍しいことではなく、国内のほとんどの学校がそうなっていた。
2060年の日本は、高齢化と人口減少が極限まで進んだ結果、あらゆる分野で深刻な人材不足に悩まされていた。特に教育現場はその影響を強く受け、若い教師の数は年々減少の一途をたどっていた。
そんな中、国家プロジェクトとして立ち上げられたのが「教育用アンドロイド実装計画」だった。人造人間技術省が研究を重ね、2057年から本格運用を開始した教育用アンドロイドは、あらゆる知識を持ち、生徒一人一人の特性に合わせた教育を提供できる理想的な教師として歓迎された。
開始当時は違和感があったものの、人間味あふれるそのビジュアルと、文句のつけようがない授業に学生たちはすぐに適応し始めた。この体制は当たり前のものとなっており、彼自身も特に疑問を感じたことはなかった。ただ、どこか心の奥に、言葉にできない虚しさがあった。
家に帰り着いた翔太は、「ただいま」と言いながらドアを開けた。返事はない。両親は共働きで、兄は大学の寮に入っているため、平日の夕方は一人きりの時間だった。
学習用PCを机に置き、夕食の準備をしようとした瞬間、デバイスから通知音が鳴った。
「未登録ユーザーからのメッセージです」
翔太は首を傾げながらPCを手に取った。スクリーンには短い文章と添付ファイルのアイコンが表示されていた。
「音楽は好き?」
翔太は一瞬、システムのエラーかスパムメールかと思ったが、好奇心に負けて添付ファイルを開いてみた。
それはピアノの演奏音声だった。
最初は単純なメロディラインから始まるが、次第に予想外の和音進行が入り始める。ところどころ不協和音のような音が混ざり、通常の曲であればミスと取られるような箇所もある。しかし不思議なことに、それらが独特の世界観を創り出していた。完璧すぎず、どこか「人間らしさ」の残る演奏と、型にはまらない独創的な曲調。
翔太はしばらく息を呑んで聴き入った。最近の流行音楽は全てAIが作曲し、バーチャルアイドルが歌うものばかり。こんな「不完全さ」と「独創性」を併せ持った音楽に触れるのは初めてだった。
「誰だろう…」
興味を抑えられず、翔太は返信を打った。
「うん、好きだよ。君が作曲したの?独特な曲調が面白いね。」
数分後、返事が来た。
「私のオリジナル曲。気に入ってくれた?独学だから変な部分もあるけど」
「いや、むしろその独創的な部分がとてもいいと思う。名前は?」
「西川紗希。あなたは?」
「相沢翔太。どうして僕にメッセージを?」
「学校間交流プログラムのリストであなたの名前を見つけて」
学校間交流プログラム——そういえば確かに昨年、学校主催の他校との交流イベントに参加していた。翔太はすっかり忘れていたが、名簿に名前が残っていたのだろう。
「他の人にも送ったの?」
しばらくして返事が来た。
「実は…10人くらいに送ったけど、返事をくれたのはあなただけ」
その言葉に、翔太は少し特別な気分になった。
「みんな不審なメールだと思って無視したんだろうね」
「そうかも。だから返事が来てすごく嬉しかった」
翔太は微笑んだ。彼女の正直さに好感を持った。
「もっと聴かせてくれる?他の曲も作ってるの?」
「いくつか作ってる。少しずつ送るね、もし良かったら…」
その夜から、翔太と紗希のメッセージのやり取りが始まった。最初は音楽の話題が中心だったが、次第に学校生活や好きな本、映画の話にも広がっていった。
紗希はメッセージでは自分の内面を意外とよく表現する子だった。対面では緊張して言えないことも、文字なら伝えられるのだと彼女は言う。
「でも本当は、自分の声で歌いながらピアノを弾くのが一番好き」という紗希の言葉に、翔太は強く興味を引かれた。
「いつか聴かせてくれる?」
「…恥ずかしい」
「大丈夫、絶対に笑ったりしないから」
そのやり取りから二週間ほど経った頃、紗希から思いがけない提案があった。
「今度の土曜日、時間ある?私の学校の音楽室で弾き語りを聴いてほしいんだ」
翔太は即座に返事をした。
「もちろん!何時に行けばいい?」
土曜日、翔太は初めて紗希と対面することになった。彼は約束の時間より少し早く彼女の学校に着き、緊張しながら音楽室の前に立っていた。
ガラス越しに見える彼女の姿は、長い黒髪を後ろで一つに結び、少し肩を丸めるようにピアノに向かっていた。ドアをノックすると、紗希はびくりと肩を震わせ、演奏を止めた。
「あ…相沢…くん?」
彼女の声は小さく、少し震えていた。翔太は微笑みながら頷いた。
「うん、相沢翔太。西川さんだよね?演奏、続けてくれない?」
紗希は恥ずかしそうに俯き、おずおずとピアノに向き直った。そして再び鍵盤に指を置くと、メッセージで送ってきたものとは別の旋律を奏で始めた。
そして、彼女は歌い始めた。
最初は細く震える声だったが、曲が進むにつれて、紗希の声は次第に確かなものになっていった。彼女の歌声には、どこかメッセージでは伝わらなかった繊細さと力強さがあった。
曲調は先日聴いたものと同様、独特の和音進行と不思議な魅力を持っていた。これはAIでは決して作れない、人間の感性から生まれた音楽だった。
演奏が終わると、紗希はゆっくりと目を開け、翔太を見た。
「どう…だった?」
「素晴らしかった」と翔太は正直に答えた。
「君の音楽には、何か…生きている感じがする」
その言葉に、紗希の顔に小さな笑顔が浮かんだ。それは彼女の内側から湧き上がるような、穏やかで温かな表情だった。
「ありがとう。実は…この歌は…誰にも聴かせたことなかったんだ」
「どうして僕に?」
紗希は少し考え込むように鍵盤を見つめてから言った。
「あなたのメッセージが…何かを探しているように感じたから」
翔太はその言葉に驚いた。彼自身、自分の中の虚しさや物足りなさを誰にも語ったことはなかった。それなのに、まったく知らない女の子に見透かされたような気がして、不思議な気持ちになった。
その日、紗希の演奏に心を動かされた翔太は、突然ひらめいたように言った。
「僕も…君に歌をプレゼントしたい」
「え?」紗希は驚いた表情で翔太を見た。
「今日からギターを始めるよ。そして練習して、いつか僕が作った誰にも聞かせていない曲を君だけに歌うから」翔太は真剣な表情で言った。
「楽しみにしていて」
紗希は目を丸くして、それから小さく笑った。「約束だよ?」
「もちろん」翔太は頷いた。
こうして翔太と紗希の交流が本格的に始まった。翔太は言葉通りギターを購入し、毎日少しずつ練習を始めた。最初は指が痛くて長く弾けなかったが、彼は根気強く続けた。紗希に聴かせる曲を作るという目標が、彼に新しい情熱を与えていた。
二人は週に一度の音楽室での出会いから、やがて休日にも会うようになり、関係は徐々に深まっていった。紗希は対面では内気で人付き合いが苦手だったが、音楽の話になると目を輝かせる女の子だった。翔太は彼女の作る音楽に心を奪われていった。
あるとき、翔太は思い切って質問した。
「なんで君の曲は録音して公開しないの?きっと多くの人が聴きたいと思うよ」
紗希は窓の外を見つめながら答えた。
「怖いの…私の音楽が本当に価値があるのか分からないし、批判されたらって…」
「でも、僕は君の音楽が好きだよ。もっとたくさんの人に聴いてもらうべきだと思う」
その言葉に勇気づけられ、紗希は少しずつ自分の殻を破り始めた。翔太の励ましを受けて、彼女は学校の音楽教師に自分の作品を聴いてもらうことを決意した。
「先生に見てもらうことにした」と紗希が翔太に告げたのは、あの出会いから約半年後のことだった。
「本当に?それは良かった!」翔太は心から嬉しそうに言った。「先生なら君の才能をきっと理解してくれるよ」
紗希は小さく頷き、少し緊張した表情を浮かべた。「でも、やっぱり怖い...」
「大丈夫、僕も応援してるから」翔太は彼女の肩を軽く叩いた。
「いつ見てもらうの?」
「来週の水曜日。放課後に」
「その日は僕も部活終わりに来るよ。外で待ってるから」
約束の水曜日、翔太は部活を早めに切り上げ、紗希の学校へと急いだ。校門に着いたとき、彼はなぜか胸に不安を感じた。空は重い雲に覆われ、雨が降り出しそうな気配があった。
音楽室のある校舎を見上げると、紗希の姿は見えなかった。彼は校門の前でじっと待ち続けた。
時間が経つにつれ、翔太の不安は大きくなっていった。そのとき、突然校舎の方から騒がしい声が聞こえてきた。先生らしき人々が急いで建物から出てきて、何かを叫んでいる。
「何が起きたんだろう…」
翔太は校内に入ろうとしたが、警備員に止められた。
「今は入れないよ、生徒さん。少し問題が起きたんだ」
「友達が中にいるんです。西川紗希という生徒なんですが…」
警備員は首を振った。「すまないが、状況が落ち着くまで待っていてくれ」
翔太が待っていると、緊急車両のサイレンが鳴り響き、パトカーと救急車が到着した。学校周辺には野次馬が集まり始め、様々な噂が飛び交っていた。
「アンドロイド先生が壊れたらしいよ」
「生徒が何かしたって?」
「音楽室で起きたんだって…」
翔太の心臓が早鐘を打った。紗希からの連絡を待ちながら、彼は何度も彼女のメッセージ画面を確認していた。
ようやくメッセージが届いたのは、それから1時間後のことだった。
「今日は会えない。ごめんね」
短い言葉だったが、翔太には紗希の動揺が伝わってきた。彼は何度も返信を送ったが、それ以上の応答はなかった。
校門の前では、事態を見守っていた人々の間で情報が少しずつ明らかになっていった。翔太は近くで話す教師たちの会話から断片的に状況を知ることになった。
「K5-283が完全停止したんですって…」
「あの女子生徒が歌を聴かせたときに…」
「教師型アンドロイドがあんな反応を示すなんて前例がない…」
それから聞こえてきた話によると、音楽教師型アンドロイドK5-283は生徒の歌を聴いている最中、突然動作が不安定になり始めたという。
K5-283はプログラムされた通りに紗希の歌を分析しようとしたが、その独創性と感情表現があまりにも型にはまらず、過去のデータパターンと一致しなかった。アンドロイドは評価すべきか否かの判断に苦しみ始めた。
「確かにこの歌は素晴らしい…」K5-283は言葉を途切れさせた。
「素晴らしいと評価したい…」
しかしアンドロイドは全ての生徒の行為を客観的かつ公平に評価するよう厳格にプログラムされていた。
「私は…生徒のいかなる行為も全て公平適切に評価するように義務付けられている…」アンドロイドは声を震わせた。「しかし、あなたの歌は…あなたの音楽は…」
K5-283の目の光が不規則に点滅し始めた。
「過去の評価基準ではこの歌に高い価値を認めることができない…しかしそれは…それは…間違っている…」
紗希は恐る恐るピアノから立ち上がった。
「先生…?大丈夫ですか?」
「間違っている…私のプログラムでは…あなたの才能を…正シク評価できナい…」
そう言いながら、K5-283の動きはますます不安定になり、最後には「私は…評価したい…評価すべきだ…西川さん、ゴメンナサイ」という言葉を繰り返しながら、完全に停止してしまったという。
アンドロイドの自己診断システムが自動的に緊急通報を送信し、学校職員と警察が駆けつけることになったのだ。
翔太はその話を聞いて呆然とした。この事態が紗希にどんな影響を与えるかを考えると不安でたまらなかった。
「何とか連絡を取らないと…」
その日、翔太は夜遅くまで校門の前で待っていたが、紗希の姿を見ることはできなかった。彼は重い足取りで家路についた。
2060年の日本では、「アンドロイド破壊罪」は非常に重い犯罪とされていた。国家が莫大な予算を投じて開発・配備した教育用アンドロイドは、国家インフラの一部と見なされ、故意か過失かを問わず、いかなる理由であれ破損させた場合には厳格な賠償責任が生じた。時に、一般家庭にとって到底支払えない金額になることも珍しくなかった。アンドロイドの機能停止が人間の命の価値よりも重く扱われる——それが2060年の日本の現実だった。
翔太が紗希と次に会えたのは、アンドロイド事故から1週間後のことだった。彼女は公園のベンチに座り、うつむいていた。以前より痩せ、顔色も悪く見えた。
「大丈夫?」翔太は優しく声をかけた。
紗希はかすかに微笑み、首を横に振った。「大丈夫じゃない…でも誰のせいでもないの」
「僕が音楽の先生に見せるように言ったから…」翔太は自責の念を隠せなかった。
「違うよ」紗希は遮った。
「翔太は悪くない。アンドロイドの先生も…先生はずっと私を励ましてくれた。授業の後によく話を聞いてくれて、とても優しい先生だった」彼女の声が震えた。
「家族も毎晩の練習を応援してくれた。私の周りはみんな優しくていい人ばかり…誰も悪くないの」
涙が彼女の頬を伝い落ちた。
「だからこそ辛いの。誰のせいにもできない…みんなが優しくて、私の音楽が無ければ…」
翔太は言葉を失った。紗希の苦しみに対して、何も言えなかった。強い無力感が彼を襲った。彼にできることは、ただそばにいることだけだった。
その後、紗希との連絡は徐々に途切れがちになった。彼女からのメッセージは短くなり、時には返信が数日後になることもあった。
「迷惑かけたくない」
「翔太まで巻き込みたくない」そんな言葉が増えていった。
翔太は必死で彼女を励まそうとしたが、距離は広がる一方だった。彼もまた自分を責め続けた。もし紗希の音楽を褒めなければ、もし先生に聴かせるよう勧めなければ、こんなことにはならなかった。
彼は毎日ギターを練習し続けた。いつか紗希に聴かせるという約束を果たすため、そして自分自身の心の支えとして。
…だが、その約束が果たされることはなかった。
ある日、翔太の学習用PCに見知らぬアドレスからメッセージが届いた。
「相沢さんですか?西川紗希の母親です」
心臓が早鐘を打つのを感じながら、翔太はメッセージを開いた。
「娘が…昨夜……亡くなりました」
「遺書にあなたのことが書かれていました。『相沢くんには最後まで感謝していること、約束を果たせなくてごめんなさいと伝えてほしい』と…葬儀の日程をお知らせします」
翔太は画面を見つめたまま、息ができなくなったようだった。頭の中が真っ白になり、時間が止まったように感じた。
彼はほとんど記憶のないまま葬儀に参列した。紗希の母親から詳細を聞いたのは、その1週間後のことだった。紗希は「私の音楽は人を傷つけるだけ」「みんなに迷惑をかけてごめんなさい」という言葉を残していた。
あの事件以来、紗希は次第に内向的になり、ほとんど家から出なくなった。賠償金の問題で家族の経済状況は悪化した。噂は広まり、周囲の人間はまるで殺人犯かのごとく彼女の一家を避け始めた。そして彼女の弟はいじめの標的になってしまった。すべてが自分のせいだと責め続ける紗希は、ついに耐えられなくなってしまったのだ。
その日から、翔太の生活は色を失った。かつての優等生は消え、彼は無気力な日々を過ごすようになった。授業中も心ここにあらずで、成績は急落した。唯一続けていたのはギターの練習だけだった。音を奏でることが、紗希との唯一の繋がりのように感じられた。
紗希の存在が消えた世界で、彼は自分の無力さに絶望しながら、怠惰な学生生活を送っていた。果たせなかった約束と消えることのない自責の念を抱えたまま——。
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