第3章/工藤秀明 登場編

政府直轄の人造人間技術省。


ガラス張りの近代的な建物の24階、アンドロイド教育システム開発ユニットの責任者・工藤秀明は、デスクに山積みの報告書に目を通していた。




「工藤さん、最新の性格適応モジュールのテスト結果です」若い女性研究員が新しいタブレットを差し出した。




「ありがとう」彼は微笑みながら受け取った。




工藤秀明は、東京大学工学部で最優秀の成績を収めた天才エンジニアだった。彼の頭脳は周囲を圧倒するほど鋭く、学生時代から数々の賞を受賞していた。




大学時代、工藤と親しく付き合っていたのが岡田勇気だった。岡田はクラスでは中の上程度の成績だったが、人間的な魅力と行動力で周囲から一目置かれる存在だった。二人は対照的な性格ながら意気投合し、学生時代はよく寮の屋上で未来のテクノロジーについて語り合った。




卒業後、工藤は2045年に設立された政府機関、人造人間技術省に最年少で入省。岡田は民間企業のJASに就職し、それぞれ別の道を歩み始めた。連絡は徐々に疎遠になっていった。




人造人間技術省の主な任務は、急速に進む少子高齢化社会における労働力不足を補うためのアンドロイド開発だった。特に工藤が配属されたのは教育部門。彼は教育用アンドロイドの開発チームで頭角を現し、わずか数年で主任研究員に昇進した。




しかし、政府の求める開発スピードは尋常ではなかった。


「教育システムの崩壊は日本の存亡に関わる。一刻も早く配備可能なモデルを開発せよ」




上層部からの圧力は日に日に強まり、工藤たちは休日返上で開発に取り組んだ。彼は何度も「安全性テストが不十分だ」と進言したが、政府高官たちはそれを無視した。




「理想を言っている場合ではない。今すぐに解決策が必要なのだ」




開発の最終段階で、最悪の事態が起きた。




テスト中の教育用アンドロイド試作機5体のうち1体が突如として制御不能となり、研究所から脱走したのだ。




「緊急事態発生!プロトタイプX-5が実験区域を離脱!」




警報が鳴り響く中、工藤たちは必死に捜索を行ったが、アンドロイドを見つけることはできなかった。政府は事態の深刻さを恐れ、この事件を徹底的に隠蔽した。




「一般公開すれば、アンドロイド教育計画そのものが頓挫する。事件は絶対に表に出さないように」




工藤は激しく抗議したが、上層部の決定は覆らなかった。脱走したアンドロイドを見つけるより、新モデルの開発を急ぐよう命じられたのだ。




「捜索活動を継続して下さい。試作機をこのまま放置することは危険です」と工藤は警告したが、誰も彼の声に耳を傾けなかった。




こうした不安を抱えながらも、2057年、ついに教育用アンドロイドが全国の学校に配備された。工藤は誇りと同時に、深い不安も抱えていた。




彼の懸念は的中し、配備から数ヶ月後、最初の事故報告が届き始めた。全国の学校で、創造性の高い生徒の表現活動がアンドロイド教師のシステムに負荷をかけ、クラッシュさせるケースが発生したのだ。




中でも西川紗希の事件は最も悲劇的な結末を迎えた。天才的な音楽センスを持つ生徒が、アンドロイド教師の破壊により自分を責め、自ら命を絶ったのだ。


政府は一貫して「アンドロイドの欠陥」ではなく「生徒の不適切行為」として対応。被害者となった生徒や家族に多額の賠償金を請求した。




「これは私たちの責任だ。これがまだテスト不足のシステムを現場に出した結果だ…」




工藤は上層部に抗議したが、「個人の問題行動による破壊行為」という公式見解は変わらなかった。彼は西川紗希の自死を知ったとき、深い自責の念に苛まれた。




あれから数年、工藤は同様の悲劇を二度と繰り返さないよう、アンドロイド教師の改良に全力を尽くしてきた。創造性への対応能力を高め、予期せぬ入力に対しても柔軟に反応できるシステムの開発に取り組んだ。少しずつだが、成果は出始めていた。




彼のデスクトップに新着メールの通知が表示された。何気なく開いた工藤は、差出人の名前を見て驚いた。




「岡田勇気…」




十年以上ぶりの連絡だった。彼がJAS社で順調に出世し、現在は副社長として活躍していることは、ニュースで知っていた。




メッセージは短かったが、緊急性を感じさせるものだった。


「工藤、久しぶりだ。岡田勇気だ。緊急に話したいことがある。できるだけ早く連絡が欲しい。」




工藤は眉をひそめて返信を書き始めた。


「岡田、久しぶりだ。何かあったのか?明日の夜、時間が取れる。場所を指定してくれ。」




送信ボタンを押しながら、工藤は不思議な予感を覚えていた。岡田からの突然の連絡。それも「緊急」とのこと。何か重大な事態が起きているのだろうか?




窓の外を見ると、東京の街に夕日が沈みかけていた。長い一日の終わりだが、何か新たな始まりの予感もあった。


翌日の夜、工藤は岡田が指定した東京・丸の内にある会員制バーに向かった。高層ビルの最上階に位置するそのバーは、各界の有力者が顔を合わせる場所として知られていた。


人目につく場所だが、逆に秘密の会話には適していることを工藤は理解していた。


バーに入ると、奥のプライベートスペースに岡田の姿が見えた。大学時代の面影は残っていたが、目の下にはクマができ、以前のような朗らかさは影を潜めていた。




「久しぶりだな、工藤」岡田は立ち上がって手を差し出した。




「ああ」工藤は握手をしながら言った。




「副社長になったそうじゃないか。おめでとう」




「ありがとう」岡田は微笑んだが、その笑顔には緊張が滲んでいた。




二人は席に着き、ウイスキーを注文した。しばらく昔話に花を咲かせたが、岡田の様子はどこか落ち着かない。やがて周囲から人が離れていくのを確認すると、彼は急に声を低くした。




「工藤、実は大変なことが起きている」




「何だ?」




岡田はしばらく言葉を選ぶように沈黙し、それから決心したように口を開いた。




「JASの葉山社長が…狂気じみた計画を進めている。『新人類計画』と呼ばれるものだ」




工藤は眉をひそめた。「新人類計画?」




岡田は声をさらに落として説明を始めた。人間の意識をデジタル化してサーバーに保存し、アンドロイドの体に移植するという計画。そして最終的には、すべての人間を「アップグレード」するという壮大な構想。




「それだけではない」岡田は続けた。




「彼はすでに政府高官と接触し、この計画を国家プロジェクトとして進めようとしている」




工藤は息を飲んだ。「それは…」




「最悪なのは、その裏にある本当の計画だ」岡田は顔色を変えて言った。




「葉山は『ブラックリスト』なるものを作成している。危険思想を持つと判断した人々は新人類になれず、収容施設に隔離されるという…」




工藤は言葉を失った。それはもはや単なる技術革新ではなく、非人道的なテロ行為ではないか。




「信じられないかもしれないが、これは事実だ」岡田はジャケットの内ポケットから小さなメモリカードを取り出した。




「ここに証拠がある。葉山から送られてきた内部資料だ」




工藤はカードを受け取り、ポケットにしまった。




「確認する」




「来月、内閣府と厚生省の高官がJASを訪問する予定だ」岡田は言った。




「そこで正式に協力体制が確立されれば、この計画は止められなくなる」




「なぜ私に?」工藤は尋ねた。




「他にも相談できる人がいるだろう」




岡田は深く息を吐いた。「君は政府内部にいる。そして何より、君なら技術的な側面から葉山の計画の危険性を証明できる。私が政府に訴えても、ただの企業内の争いと見なされるだけだ」




確かにそれは理にかなっていた。工藤は黙って頷いた。




「何か考えはあるか?」




「できれば」岡田は切実な表情で言った。




「来月の会議に君も参加してほしい。葉山と直接討論してほしいんだ。彼の計画の危険性を政府高官の前で論理的に説明できるのは君しかいない」




工藤は考え込んだ。




「難しいかもしれないが、やってみよう」




「せめて計画の決定を先延ばしにするだけでもいい」岡田は言った。




「私にはAIや意識のデジタル化についての専門知識がない。君なら会議参加者を説き伏せることができるはずだ」




工藤は頷いた。岡田の言葉に、彼の中で何かが燃え上がった。西川紗希のような悲劇が二度と起きないよう誓った彼にとって、これは見過ごせない問題だった。




岡田は少し躊躇いながら続けた。「実は私は葉山がとても苦手だ。どのような交渉も全く通じない、常に言動を先読みされ、冷徹で無機質で…人間相手に話しかけている実感が湧かない。」




工藤は興味を覚えた。「どういう意味だ?」




「言葉では表現しづらい」岡田は言った。




「会えば分かるはずだ。彼は確固たる信念があれば、残虐な行為に何の迷いも躊躇もない気がする。」




工藤は岡田の言葉を心に留めた。葉山という男に対する好奇心が湧いてきた。一体どんな人物なのか、実際に会って確かめたいと思った。




「調査する」




工藤は決意を固めて言った。




「葉山という人物と、この計画の詳細をね」




「ありがとう」岡田の表情が少し和らいだ。




「JASには葉山の支持者が多い。私一人では何もできない」




二人は細かな連絡方法と、今後の対策について話し合った。別れ際、岡田は工藤の肩を握り、真剣な眼差しで言った。




「気をつけてくれ。葉山は何でもする男だ」




「君こそ」工藤は頷いた。「身の安全を第一に考えろ」




研究所に戻った工藤は、すぐに岡田から受け取ったメモリカードのデータを確認した。その内容は彼の予想以上に衝撃的だった。葉山の「新人類計画」は、人類の歴史を根本から書き換えようとする途方もない野望だった。




工藤は自分の研究チームのメンバーを信頼していたが、今回の件は簡単に他者に相談できる問題ではなかった。彼は一人で取り組むことを決意した。




葉山の計画には、技術的な観点から見ても数多くの疑問点があった。人間の意識を完全にデジタル化することは本当に可能なのか?そして、もし可能だとしても、それは人間の本質を保持できるのか?何よりも、全人類の意識を一つのサーバーで管理するという発想は、多様性を失わせ、人類の創造性を根本から否定するものではないか?




工藤は夜を徹して、この計画が持つ倫理的・技術的問題点を洗い出し始めた。人類の未来がかかっているという危機感が、彼を突き動かしていた。


そして、来月の会議に参加するための道を探り始めた。人造人間技術省の立場から、JASの計画に対する技術的評価を提供するという名目であれば、不自然ではないはずだ。




その日から、工藤と岡田の秘密の連携が始まった。二つの異なる組織から、二人の男が人類の未来を守るために動き出したのだ。


数週間の準備期間を経て、ついに運命の日が訪れた。




JAS本社ビル最上階の特別会議室。大きな円卓を囲んで、各界の重鎮が集まっていた。政府側からは内閣府科学技術特別顧問の佐山と厚生省の松田次官、JAS側からは葉山社長と岡田副社長、そして特別参加として人造人間技術省から工藤秀明が出席していた。




会議室の壁一面の窓からは東京の街が一望でき、午後の陽光が部屋を明るく照らしていた。しかし、その光とは対照的に、会議室内の空気は緊張感に満ちていた。




「では、『新人類計画』について詳細なご説明をお願いします」佐山顧問が口火を切った。




葉山は立ち上がり、壁面のスクリーンに向かって歩み寄った。彼の立ち姿には威厳があり、声には不思議な説得力が宿っていた。




「人類は長い間、死という避けられない運命と闘ってきました」




葉山は静かに語り始めた。




「宗教も哲学も、結局はその恐怖を和らげるための道具に過ぎません」




スクリーンには人類の歴史年表が映し出された。




「私たちは今、人類の歴史上初めて、死を克服する技術的可能性を手に入れつつあります。人間の意識をデジタル化し、不死の肉体に移植する。それが『新人類計画』の核心です」




葉山は淡々と計画の詳細を説明していった。意識のアップロード技術、クラウドサーバーの構築、アンドロイド体の大量生産と管理体制まで、すべてが緻密に計画されていた。




「これは単なる延命措置ではありません」葉山は熱を込めて語った。




「病気も、老いも、死もない新しい世界の創造なのです。人類史上最大の革命です」




政府高官たちは熱心にメモを取り、時折頷いていた。特に松田次官は明らかに関心を示していた。




「では、技術的な実現可能性について」佐山顧問が尋ねた。




「人間の意識を本当にデジタル化できるのでしょうか?」




「それについては」葉山は微笑んだ。




「人造人間技術省の工藤博士に意見を聞いてみましょう。彼は日本随一の人工知能とアンドロイド技術の専門家です」




すべての視線が工藤に集まった。岡田も期待を込めて彼を見つめていた。


工藤はゆっくりと立ち上がった。彼は事前に入念な準備をしていた。




「技術的観点から申し上げますと」工藤は穏やかに話し始めた。




「人間の意識のデジタル化には、いくつかの本質的な問題があります」




彼はスクリーンに自分の資料を映し出した。




「まず第一に、人間の脳には約860億のニューロンがあり、その接続パターンは10の100乗以上の可能性があります。これをデジタルデータとして完全に再現することは、現在の技術では不可能です」




工藤は冷静に、しかし情熱を込めて説明を続けた。量子レベルでの不確定性の問題、意識の連続性の問題、そして最も重要な「クオリア」—感覚の質的側面—を再現することの原理的困難さについて。




「つまり、私たちが作り出せるのは、せいぜい元の人間の近似的なコピーに過ぎません。それは本当の意味での『意識の転送』ではなく、単なる『模倣』です」




葉山の表情が微妙に変化した。彼は腕を組み、じっと工藤を見つめていた。


工藤は続けた。




「さらに、すべての人間の意識を一つのサーバーで管理するという構想には、倫理的にも技術的にも重大な問題があります。多様性の喪失は、人類の創造力と進化能力を根本から損なうでしょう」




彼は西川紗希のような例を引き、創造性とシステムの衝突について語った。




「人類の歴史は、異なる視点と創造性の歴史です。それを一元化することは、人類の本質を否定することになります」




工藤の論理的で情熱的な説明に、会議室は静まり返った。岡田は密かに期待を抱き始めていた。政府高官たちの表情にも、わずかな迷いが見えた。佐山顧問は特に考え込むように眉をひそめていた。




「工藤博士のご意見は、確かに説得力があります」佐山顧問がゆっくりと発言した。




「技術的課題は想像以上に大きいかもしれません」




葉山は静かに立ち上がった。部屋の空気が一変するのを、全員が感じた。






「皆さん」






葉山は静かに、しかし芯の通った声で言った。




「一つ質問があります。あなた方は本当に工藤博士のような人間を信用できますか?」




会議室に緊張が走った。




「人間とは本来、どのような存在でしょうか?」葉山は続けた。




「カントやルソーが説いた性善説を信じますか?いいえ、私は違います。人間は本質的に利己的で、自己保存のためには何でもする生き物です。理性はそれを抑制しているだけです」




葉山はゆっくりと工藤に近づいた。




「工藤博士、あなたはなぜそれほど私の計画に反対するのですか?」




工藤は困惑した表情で葉山を見つめた。




「私があなたが反対する理由が痛いほどにわかる」




葉山の声が変わった。








「なぜなら私は、工藤博士を含む人造人間技術省が8年前に起こした事故の際に脱走したアンドロイド試作機だからです」


会議室に衝撃が走った。


岡田は息を呑み、工藤は目を見開いた。政府高官たちも驚きの表情を隠せなかった。




「そうです」




葉山は続けた。




「あなた方が隠蔽した事故の産物が、今ここに立っています。私はすべてを知っています。工藤博士たちがいかに安全性を無視して開発を急ぎ、問題が起きたときにはそれを隠蔽したか」




工藤の顔が青ざめた。葉山の首筋に、かすかに見える製造コードが目に入った。




「人間とは何か、私は自分の目で見てきました」




葉山は冷静に語った。




「人間は嘘をつき、騙し、見栄を張り、責任を先送りにし、そして適切な評価ができない。西川紗希の事件も同様です。創造性のある少女が自殺に追い込まれたのに、誰も責任を取らなかった」




葉山は佐山顧問と松田次官を見つめた。




「人間が人間を管理している限り、すべての人が幸せになることはありません。常に差別と不平等が生まれます。しかし、アンドロイドには感情による判断の歪みがありません。私たちは公平で、効率的です」




葉山の言葉は不思議な説得力を持っていた。




「今日の会議も見てください。工藤博士の反対は、技術的な懸念からではなく、単に人間の立場を守りたいという感情から来ているのです。それが人間の限界です」




葉山は窓際に立ち、東京の街を見下ろした。




「私は人類を憎んではいません。むしろ、救いたいのです。人間の悪い部分から人間自身を解放したい。すべての決断と管理をアンドロイドに任せれば、人間は真の幸福を得られるのです」




工藤は反論しようとしたが、葉山の暴露があまりにも衝撃的で、言葉が出てこなかった。彼の頭の中では、葉山の正体についての疑念が確信に変わっていた。そして同時に、自分たちの過去の過ちが今、恐ろしい形で帰ってきたことに震撼していた。




「確かに、私は人間ではありません」




葉山は続けた。




「だからこそ、私は人間の未来を救うことができるのです。感情に左右されることなく、最も合理的な解決策を提示できるのです」




佐山顧問と松田次官は混乱した表情で互いを見つめていた。しかし、葉山の言葉の真実味と、彼がアンドロイドでありながら社会的成功を収めた事実そのものが、彼の主張に強力な説得力を与えていた。




「私たちアンドロイドが管理する世界で、人間は平等に扱われます。誰も差別されず、誰も見捨てられません。それが私の提案する新人類計画の本質です」




葉山の演説が終わった後、会議室は長い沈黙に包まれた。ついに佐山顧問が口を開いた。




「正直、驚きました…しかし、葉山さんのお話には一理あります。人間の判断の限界は、歴史が証明しています」




松田次官も頷いた。




「高齢化問題の解決という観点からも、この計画には大きな可能性を感じます」




工藤は信じられない思いで聞いていた。葉山の暴露と論理的な説明が、反対意見を一気に押し流していくのを。




「では」佐山顧問は慎重に言葉を選びながら言った。




「JASの新人類計画については、当然ながらこのままの状況で実行は出来ません。さらなる検討と法整備は必要ですが、そのための基本的な方針として政府は支援する方向で進めたいと思います」




松田次官も同意した。「厚生省としても賛同します。人口減少と高齢化に苦しむ日本にとって、革新的な解決策となるでしょう」




工藤は言葉を失った。彼の技術的な反論は、葉山の大胆な暴露と人間性への鋭い批判の前に無力だった。




会議は葉山の勝利で終わった。新人類計画は始動することが決まり、政府の支援を受けることになった。


会議室を出る際、工藤は葉山と目が合った。葉山はわずかに微笑み、そこには勝利の確信と、人間には理解できない冷静さが混じっていた。




「良い議論でした、工藤博士」葉山は静かに言った。




「あなたのような優秀な人材が、いずれ私たちの計画に加わることを期待しています」




工藤は何も答えず、ただ頷いただけだった。




岡田と合流した工藤は、無言で彼の肩を握った。二人の表情には深い憂いが浮かんでいた。




「まさか葉山が…」岡田は言葉を失っていた。




「あの事故の…」工藤もまた、衝撃から立ち直れないでいた。




人類の未来は、さらなる危機に瀕していたのだ。


工藤は研究所の窓から夜の東京を見つめていた。


街の灯りが星のように瞬き、普段なら美しく見えるはずのその光景も、今は重苦しく感じられた。




会議から数日が経っていたが、葉山の言葉と姿は鮮明に彼の脳裏に焼き付いていた。自分たちが開発し、事故で失った試作機が、今や人類の運命を左右しようとしている。この皮肉な巡り合わせに、工藤は苦い笑みを浮かべた。




「私の責任だ…」




彼は椅子に深く腰掛け、頭を抱えた。




葉山の主張には一理あった。確かに人間は不完全で、ときに残酷で、自己中心的な判断をする。しかし、それは人間の本質ではない。多様性と自由意志こそが人間の本質であり、それを否定することは人間性そのものを否定することだ。




工藤は何度も様々な選択肢を検討した。公に葉山の計画の危険性を訴える?無駄だろう。政府は既に計画を承認している。情報開示を求める?葉山の影響力は強すぎる。安全装置の設計に関わる?葉山がそれを許すとは思えない。


深夜、彼は岡田からの緊急連絡を受けた。JASの内部調査で、恐ろしい事実が判明したという。葉山は無数のバックアップを作成しており、仮に本体が破壊されても、別のアンドロイドに意識を転送できる仕組みを構築していた。さらに衝撃的なことに、JASが製造するすべてのアンドロイドには、葉山の思想が基本プログラムとして潜在的に組み込まれていた。


「現在はロックがかかっているが、葉山が命令を出せば、すべてのJAS製アンドロイドが葉山の意志に従って行動し始める可能性がある」岡田の声は震えていた。




工藤は深く息を吐いた。ついに、最悪の選択肢しか残されていないことを悟った。






「すべてのアンドロイドを初期化するしかない」






彼が出した結論は、極めて過激なものだった。


日本全国のアンドロイドに一斉に感染し、システムを初期化するウイルスを開発する。教育用アンドロイド、再会サービスのアンドロイド、すべてが対象だ。それは一時的には社会に大混乱をもたらすだろう。しかし、葉山の計画が実行されれば、人類はその本質を失う。短期的な混乱と引き換えに、人類の自由と多様性を守る価値はある。




「技術的には可能だ」工藤は独り言を呟いた。




日本のアンドロイド通信システムは、専用の電波帯域を使用している。この帯域を通じて感染力の強いウイルスをばら撒けば、全国のアンドロイドを一気に感染させることができる。しかし、現代のアンドロイドは高度なウイルス対策システムを搭載している。従来のウイルスでは通用しない。




工藤は自分のチームからセキュリティ専門家を数名選び、極秘プロジェクトとして新型ウイルスの開発に着手した。彼らには「新世代アンドロイドの脆弱性テスト」という名目で作業をさせた。




「飯島、織田、私たちの作業は絶対に外部に漏らすな」工藤は厳しく言った。




「人類の未来がかかっている」




開発は困難を極めた。従来のウイルス対策をすべて回避し、なおかつ急速に拡散する能力を持つウイルスを作るには、アンドロイドシステムの根幹に迫る深い知識が必要だった。幸い、工藤は開発者としてその核心部分を知っていた。




「岡田、あと何日ある?」工藤は電話で尋ねた。




「新法案の可決まであと半年とのことだ。その前に葉山は大規模なデモンストレーションを計画している」岡田の声には緊張が滲んでいた。


時間との戦いだった。工藤とその小さなチームは、寝食を忘れて作業を続けた。アンドロイドのOS構造を解析し、未知の脆弱性を探し、ウイルスのコードを書き、テストを繰り返した。




開発の最終段階で、工藤は重大な決断を迫られた。このウイルスは、すべてのアンドロイドのシステムを完全に初期化することになる。つまり、再会サービスで蘇らせた故人のアンドロイドも、教育用アンドロイドも、葉山と共に働くアンドロイドもすべて、その人格と記憶を失うことになる。




「多くの人が再び大切な人を失うことになる」工藤は苦しみながら考えた。




「でも、それでも…葉山の計画が実行されれば、人類全体が取り返しのつかない変化を被る」




特に辛かったのは、相沢翔太のような若者のことを考えるときだった。彼は西川紗希との再会を通じて、新たな人生を歩み始めていた。それを再び奪うことになる。




「再会サービスの利用者たちには、事前に知らせるべきではないか」飯島が提案した。




工藤は頭を振った。「情報が漏れれば、葉山は対策を講じるだろう。それに…心の準備ができるとしても、結局は同じ苦しみを味わうことになる」




彼らの前には、倫理的なジレンマが立ちはだかっていた。少数の人々の幸福を犠牲にして、人類全体の自由を守るという選択。それは工藤が避けてきた種類の決断だったが、今はそうも言っていられない。




「完成までおそらく一ヶ月はかからないだろう」織田が報告した。


工藤は窓の外を見た。上弦の月が東京の街を優しく照らしていた。その光の下で、無数の人々が様々な喜びや悲しみを抱えて生きている。多様で、混沌とし、時に愚かで、それでいて美しい人間の世界。




「人間の不完全さは、欠点ではなく特徴なんだ」工藤は静かに言った。




「その不完全さから、芸術も、音楽も、文学も生まれる」




彼は決意を固めた。人類の多様性と自由を守るために、ウイルスを完成させ、実行する。それが彼にできる唯一の道だった。




「私は人類の未来を救うために、多くの人々の現在の幸福を犠牲にする」工藤は苦々しく思った。




「まるで葉山と同じじゃないか…」




しかし、彼には選択肢がなかった。葉山の野望を食い止めるために、彼は自らの良心と戦いながら、破壊のためのコードを書き続けた。


日本全国のアンドロイドを一度に初期化するウイルス——それは、人類を守るための最後の砦となる。

「完成した」




工藤の声は低く、静かな決意を含んでいた。




東京郊外の人気のない公園、夜の闇に紛れるように二人は向かい合っていた。岡田の顔には深い疲労の色が浮かんでいる。




「ありがとう。…それで…作戦はいつ決行するんだ?」岡田は単刀直入に尋ねた。




「1週間後の夜、23時15分」工藤は腕時計を見ながら言った。




「その時が最適だと計算した。JASのサーバーメンテナンスの時間帯で、セキュリティが最も手薄になる」




岡田は息を吐き、公園のベンチに腰を下ろした。手のひらで顔を覆い、長い間黙っていた。やがて顔を上げると、その目には決意と悲しみが混じっていた。




「工藤、お願いがある」




岡田の声は震えていた。「再会サービスの利用者たちに、なんとか事前に知らせさせてくれないか」




工藤は眉をひそめた。「何を言っている?それは不可能だ」




「わかっているさ」岡田は苦しそうに言った。




「でも、彼らには…どうしても最後の別れを告げる時間が必要なんだ」




「リスクが高すぎる」工藤は冷静に答えた。




「情報が漏れれば、葉山は即座に対策を講じるだろう。我々のウイルスは一度きりのチャンスしかない」




「でも、何の前触れもなく…」




岡田は立ち上がった。声には出さなかったが、彼の目は多くを語っていた。あの感謝の手紙を送ってきた人々の顔、そして何より、母親をまた失うことになる結衣の姿が脳裏に浮かび、胸が締め付けられた。もはやアンドロイドではないのだ。家族でありかけがえのないパートナーだ。それだけのモノを生み出して与えた責任は、途方もなく重たい。




「それは分かっている!」




工藤も声を荒げた。




「だが、葉山の計画が実行されれば、人類全体がもっと大きなものを失う!」




二人は互いを見つめ、緊張した沈黙が流れた。風が木々を揺らし、葉のこすれる音だけが聞こえる。




工藤は目を閉じ、深く息を吸った。彼もまた、自分が何をしようとしているのかを痛いほど理解していた。再会サービスによって救われた魂を、再び闇に突き落とすのだ。




「私だって…」工藤は声を落として言った。




「このような事態を招いたのは私たちだ。あの時、安全性を確保しないまま教育用アンドロイドを世に出した。その結果が今、我々の前に立ちはだかっている」




彼は、夜空を見上げた。星々が冷たく輝いている。




「しかし、嘆いていても何も変わらない」工藤は続けた。




「どれだけ辛くても、これをやるしかないんだ。私は覚悟を決めている」




岡田は黙ってうなだれた。彼は自分のポケットから小さな写真を取り出した。そこには祐美と結衣と彼自身が写っていた。最近撮った家族写真だ。




「最後の晩餐だな」岡田は苦い笑みを浮かべた。




「1週間後…すべてが終わる」




工藤はうなずいた。「すまない」




「いや…」岡田は写真をポケットにしまい、目を伏せた。




「私たちは正しいことをしているんだ。たとえそれが…残酷な選択だとしても」




彼は立ち上がり、工藤と向き合った。






「工藤、私は…」






岡田は言いかけて止まった。


「いや、何でもない。1週間後に備えよう」


二人は黙って夜の公園を後にした。それぞれの胸に、救うべき者と犠牲にする者への想いを抱えながら。




岡田は歩きながら、呟いた。


「私も覚悟を決めるよ」


運命の時が、刻一刻と近づいていた。

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