第二章 欠落のハミルトニアン

第19話 天啓リファクタリング #朔 #凪


Q. 突然変異などで、人間が最新型の量子コンピュータ以上の計算能力を獲得する可能性はありますか?


A. 人間が量子コンピュータ以上の計算能力を獲得する可能性は、現時点では極めて低いと考えられます。脳の中で量子効果が関係してるかもしれないという仮説としては、ペンローズの量子脳仮説などがありますが、まだ科学的な証拠は乏しい段階です。


(……量子脳仮説?)


Q. 量子脳仮説とはどういうものですか?

A. 量子脳仮説は、意識や認知の一部の複雑さの理由は、脳内で量子力学的効果が働いているからだとする考え方です。

Orch‑OR 理論(ペンローズ―ハメロフ理論)などが代表例です。


Q. 量子脳仮説と量子コンピュータはどう違うのですか?

A. 量子脳仮説では、生体構造内で量子コヒーレンスや重ね合わせ等の量子力学的効果が実現されているのに対し、量子コンピュータでは量子ビットを用いた量子回路を使用しています。


(…………)


 さくは生成AIアプリを閉じると、SNSを開いた。

 宛先は量子コンピュータ研究者の深江ふかえ


朔:先輩、量子コンピュータ関係について、今少し質問してもいいですか?

深江:おっ。どしたの? いいよ。何?

朔:友達がSF小説書いていて、量子コンピュータの現役研究者に聞きたいことがあるって言うんで。

深江:へえー。安倍子あべこだと、そういう子もいそうだよな。俺の年代の時にもいたよ。

朔:ペンローズ―ハメロフ理論って知ってますか?

深江:量子脳モデルってやつだろ。少し前に新しい論文出した人がいるよ。

朔:そうなんですか。そのSFの設定の話なんですけど、もし脳内に量子ビットが多数あったら、量子コンピュータ並みの計算が可能になったりするんですか?

深江:面白いこと考えるね。実際、その新しい論文っていうのも、それに関することだったよ。脳内物質の局所平衡が、短時間の量子コヒーレンスを生む可能性を示唆する、っていうやつ。脳内にナノスケールの相関ポケットが存在する可能性が、とかなんとか。当然まだ実証されていない、仮説だけどね。


(コヒーレンスって確か……一貫性とか安定みたいな意味だったかな)


深江:なかなか難しい話ではあるけどね。たとえコヒーレンスを維持して量子ビットが脳内に持てても、普通の人間の脳は、量子演算の情報を整理できるようにはできていないから、それ専用の器官が必要になるな。あ、そういえば、追加のペーパーで、コヒーレンス維持や読み出しが可能な細胞群を形成できる、『インターフェース野』が構成され得るなんて記述もあったな。ちょっとトンデモっぽかったので、真剣に読まなかったけど。

朔:そうなんですか。ちなみに、量子ビットが脳内にたくさんあって、もしその情報を自由に使えるなら、どんなことができるようになるんですか?

深江:うーん。前提が難しいけど。SFの話でいいんだよね? 便宜上、仮に全ての運用条件が整っていると仮定すると、単純に量子ビットの数だけで勝負するなら、脳内のシナプスの0.1%でも量子ビットなら、もうそれだけで地球上の全量子コンピュータ全台合わせたより計算能力高くなっちゃうよ。

朔:そんなに……

深江:脳内の体温環境でコヒーレンス維持できるっていう状態が性能高すぎるからね。そんだけの演算能力が合ったらもうやりたい放題だな。前渡した、株価の予測モデルなんて楽勝だよ。あとは……そうだな。新薬開発とか……前言ってた、流体計算なんて、リアルタイムで広域の非線形予測ができるようになるな。

朔:なるほど……とにかくすごい能力なんですね。

深江:それ考えたの朔の友達?

朔:あ、はい

深江:設定は面白いけど、使い道考えるの難しそうだね。

朔:というと?

深江:そんな人間が現れたら、悪の秘密結社が拉致監禁……はライトノベルすぎるけど、現実的に言ってもまずは保安関係が動くんじゃないか。身体検査やら隔離やら……まあフィクションならではの展開が待ってるね(笑)

朔:そうですね……

深江:あ、SF書いているならあいつに相談すればいいんじゃないかな。安倍子高校に前園っていう数学教師いない?

朔:います、というか僕のクラスの数学担当です。

深江:二十代後半ぐらいの見た目?

朔:たぶんそうです。といいますか、前園という教師は一人しかいないはずです。

深江:じゃあそいつだよ。同級生。あいつ、SF書いてたよ。今でも書いているかどうか、ちょっとわからないけど。





朔:湊川凪さん、大切なお話があります。放課後、西校舎の西側まで一人で来てください。


「はい!」


 凪は廊下を歩いている時に朔からのSNSを読み、思わず一人で声を出して返事をしてしまった。すぐに自分が今どこにいるかに気が付き、周りを見回して確認する。幸い、誰もいなかった。


 一日の最後の授業が終わり、凪は自席から、朔が自分の側を通り抜け、足早に教室を出ていくのを見守る。一緒に居るのを何度も見られると、彼に迷惑がかかるかもしれないと思い、しばらく時間を空けてから自分も朔の後を追う。

 朔が指定したのはキャンバスの端の端。高校の西端は道路を挟んで住宅地になっている立地だが、周囲から見えないように高い目隠しフェンスがあり、ほとんど視線が入らない。そんな人気ひとけのないところに呼び出す。しかも二人きり。ということは……


 凪は先日、図書館で言いそびれたこと、自分が伝えたかったことを思い出す。

 あの日は、朔は具合が悪そうだったし、昨日、彼は体調が戻らなかったのか、学校を休んでいたので、話ができなかった。今日は伝えられるだろうか?

 そろそろ名前で呼んでもらってもいいんですよ? ちょっとおかしな言い方だろうか? お互いに下の名前で呼びませんか、新開地君って、長くて呼びづらくて。相手の姓を否定するのは良くないだろうか? しっくりこない。凪って呼んでくれますか? 少し気まずい。どんな口調で伝えれば自然か分からない。もしかしたら、そんなにまだ仲良くなっていなくて、自分だけが意識しすぎ、先走り過ぎなのだろうか。相手が全くこっちに好意をもっていなかったらどうしよう。でも、校舎裏に呼び出すっていうのは、ひょっとするとあれか、あれなのだろうか、安倍子高校には、そこで成立したカップルが長続きするジンクスがある場所は、残念ながらないのだけど、等々、ひとしきり妄想しながら、混線気味になった頭を回しながら歩いていく。

 建物の角を曲がって、二十メートルほど離れたところに立っている、朔が目に入る。遠目には神妙な顔に見える。もしかして、やっぱり? まさか、でも。高鳴る鼓動。左手の平を胸に当て、彼の前に一歩一歩近づいていく。彼もこちらに気付いて、視線が合う。これまで見たことが無いような真剣な顔、に見える。ごくり。湧いてきたつばを呑みこむ。


「新開地君……あの、話って」

「落ち着いて、聞いてね」


 両手の手の平を見せて、静止するようなアクションで話す朔。

 それを見て、凪は既に違和感を覚える。


(んん……?)


 落ち着いて聞くとは何? 何だか想像していた流れと違う気がする。彼は何を言おうとしているのだろうと凪は怪訝けげんな表情になる。


「いいですか」


 咳払いをした後、朔は神妙な面持ちを一層強めて言葉を続けた。


「実は、湊川さんの頭の中には、量子ビットがあるんです」


 何を言われたのか分からなかったので、目を何度かしばたく。


「量子ビット?…………って何ですっけ?」


 聞いた事の無い単語だった。語感からして、アニメとか漫画の話だろうか? 凪はそういうジャンルに偏見があるわけではないが、今まで朔の口からサブカル方面の話題が発せられるのを聞いた事が無かったので、意外に思う。何にしろ、期待していた話とはだいぶ違うようで、脱力感で、肩に抱えていたバッグや感情がずり落ちるような感覚を覚える。


「これを見て欲しいんだ」


 そう言うと、朔はいつから持っていたのか、レポート用紙を一枚凪に手渡してきた。


「その一番下に書いてある解答は、日曜日に湊川さんが書いたんだよ」


 また何を言われているかわからなかったが、渡された用紙の下段に書いてある内容を見る。


(あ、確かに私の字だ)


 しかし、書いた覚えが全くない。この数字と矢印の繰り返しは一体何なのか…………ああ、以前、前園先生が出した巡回セールスマン問題みたいなものか、と凪はすぐ検討を付ける。それにしても、都市数が三十一個とはずいぶんな数だ。


「……これを私が書いたんですか?」

「そう! このレポートの問題を見て」

「これが問題……」


 朔がスクールバックの中から出したホッチキス閉じのレポートの束を受け取る。

 その一ページ目を見て、読み進めていくうちに、凪の意識はだんだん遠のいていった。


「あれ?! 湊川さん!? ちょっと……湊川さんっ!?」


 朔の声が遠くに聞こえる。


「ちょちょちょ!」


 慌てている彼の声とは裏腹に、凪の意識は沈み込み、視界に映る景色が虚ろになって行く――――


 ――――次に気が付き意識がはっきりした時には、目の前にレポート用紙があった。その用紙の下には、朔が両手で持って支えているスクールバックがあり、それを机代わりにして、自分はシャープペンを握って何かを紙に書いている様子になっていた。


「あれ、私、何を……」

「どうやら問題を見ると、無意識で解こうとしてしまうみたいだね……」

「そんなことが……」


 びっくりだった。しかし、確かに筆記用具を手にしているし、用紙には先ほど見せられたのと全く同じ数字と矢印の羅列が記されていた。


「ほら、見て。また同じこと書いているよ」

「ほんとだ……」


 ここまで符号すると、確かに信じないわけにはいかない。自分はどうも、無意識のうちに数学の問題を解く癖があるようだ。言われて見れば、試験問題に集中していると、気が付かないうちに時間が過ぎているようなことが何度かあった。


「それで量子ビットというのは……?」

「これは量子コンピュータじゃないと解けない問題なんだ。君がその問題を解けるということは、同じ量子演算をしているんじゃないか……っていうのは、僕の推論なんだけど……」


 朔は、量子コンピュータの特性と現行の演算速度から、内部にある量子ビットの特徴、それに凪の演算能力との対比まで、かいつまんで説明してくれた。凪はその話を聞いているうちに、彼の口調や表情から、朔がとても事態を重く見ていることに気付いてきた。


「それから、これも見て」


 そう言うと、朔は自分のスマートフォンの画面を見せてきた。映っているのは虹色の流線ベクトルらしきものが、航空機の周りを流れているような動画だった。


「あっ!? これ、私の見てるのとそっくりです! ちょっとこっちは画質が荒いけど……」


 凪は量子ビットの異能が無くても、もともと数学的センスのある子だ。朔の説明で、三十都市以上のTSPの計算を解けるというのが、いかに異常な能力であるかは実感できて、さすがに少し動揺した。

 だけど、続けて朔が言った「これを他の人に知られたら大変なことになるから、絶対に知られないようにしなければいけない」という話は、あまり実感が持てなかった。


「それで、結局この私の頭の異常ですけど……どうすればいいんでしょうか? とりあえず、難しそうな問題は見ないようにすればいいですか?」

「そうだね…………あれ? そうかな? ひょっとしてそれだけでいいのかも……」


 凪が率直な意見を言ったせいか、朔は自分の今までの態度に疑問を持ったようだ。先程までは、まるでこれで世界が終わるかもしれないかのような、実に真剣な面持ちをしていたが、今は首を傾げてずっと思案している。確かに朔の言っていたように、他の人間に知れたら大変という意見はわかるけど、凪には、そもそも見つかるだろうか? という疑問があった。


「……もしかして、見つかることはない……のか?」

「でも、心配してくれていたんですね」

「まあ……うん……湊川さんの計算能力は、とても価値のあるものなんだ。正しい使い方が分かるまで、他の人間に知られないように、僕も協力するから」


 声は出さなかったが、凪はしっかりと頷いて返答した。朔は計算の能力に興味があるようなことしか言っていなかったが、それでも凪は嬉しかった。これから協力してくれるということは、少なくとももうしばらくは、一緒に居てくれるという保証ができたということ。

 肝心なことは言いそびれたが、朔が心から自分のことを考えてくれている姿勢なのは分かった。








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シュレーディンガーは未来を詠んだ――量子の光が照らす、都市の記憶と貧困女子高生の希望 島アルテ @altissima

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