第2話 通学路のアダマールゲート #凪

 湊川みなとがわなぎは彼女専用の通学路を歩く。


「再開発予定地」


と書かれた、生まれた時から存在する、塗装が半分以上げた看板。


(本当に、虚しい)


「居酒屋で覚醒剤を売るな!」と明朝体で力強く書かれた看板。


(誰が誰に向かって書いたのか――さっぱり分からない)


 横目で道路脇のアートを見ながら進んでいると、街路灯の下を我が物顔で占拠している生ごみの袋にぶつかりそうになる。もちろん今日は、収集日ではない。

 続いて、無数のエアコンの室外機や、どう使うつもりか不明な全自動洗濯機など、道路交通法違反の様々なオブジェが行く手を塞ぐ。それらを巧妙に避け、狭い路地裏を進む。

 一応雨漏りを補修した跡があるアーケードの天井、その下の街路に響くのは、彼女のローファーの音だけ。他には誰一人歩いていない。


(当たり前か……)


 今は午前の五時だから、店舗は一軒も開いていないし、ここら一帯の商店街で、凪以外の学生をあまり見たことがない。まして女子高生ともなれば、絶滅危惧種――正確には最後の一人である。


 十日野とびのちょうのアーケード商店街は元々、その先にある風俗街につながる歓楽地の役割があった。どう考えてもお子様の教育に適した地域ではない。結果、学生、若者の数はどんどんと減少して行き――都市開発の失敗の典型例――そんな風評が定着したのも随分昔の話。


 屋根の端が作る陰と光の境界まで、足を進める。

 アーケード街の外に出て、東の空から朝日が横顔を差したときに、凪は視界にちらつきを覚え、少しよろける。

 足がもつれそうになった。ちょっとお腹が空いている。

 昨日はアルバイト先の弁当屋が休みで、まかないが食べられなかったから。

 睡眠不足もある。本当は、こんなに朝早く出かける必要もないのだ。

 それでも家にいるよりはましだ。


(……またお酒飲んできて…最近はドヤ街の仕事も行かなくなって、お金もそんなに持っていないはずなのに。まだ――)


 凪は無意識のうちに唇の端をむ。


(お母さんの保険金――まだ残っているのかな……)


 不意に、凪の視界の端に、不気味な虹の糸が揺らぎ始めた。

その虹の糸は、だんだんと増えて帯状になり、陽炎かげろうのようにゆらゆらと揺らめきながら、凪の鼻先まで漂ってくる。なぜか、凪は直観的に、その虹は避けて通った方がいいことだけは知っている。


(まただ……本格的にやばいのかな……?)


 目をこすってまばたきするが、虹は消えてくれない。

 凪にはこの虹の正体が分からなかった。

 数か月前から時折経験していた症状だが、Webで検索しても、同様の例は見つからない。不安だけが積もっていた。

 

(幻覚……? 眼か脳の異常……? 病院って、無料で受診できるんだったかな……)


 顔を青くしながら、凪は浅い溜息を吐き出した。

 独白を仕舞い込むと、鬱陶うっとうしがりながら虹をかわし、再び通学を続ける。





 橋を渡って安倍子あべこ町の新市街区に入ると、空気が一変する。

 壮麗なタワーマンションが立ち並び、ガラスの反射光が降り注ぐ街路は、几帳面きちょうめんに整備されている。

 御影みかげ石で覆われた瀟洒しょうしゃな外壁。植樹ますに植えられている、熱帯性の植木もハイセンス。モーニングもやっている、シェード付きカフェテラス席を備えたイタリアン・バルなんて、今まで一度も足を踏み入れたことが無い。


(自分の生まれた町とは随分違う。同じ区内なのに)


 この道を通ると、凪はいつもそう思う。不公平を感じずにはいられなけ。

 川一つ隔てただけで、街並みのコントラストが差別的に過ぎる。

 とはいえ、割れ窓理論よろしく、整った環境に身を置くと、悔しいが思わず気分が上向き、歩調も軽くなり、寝不足と空腹による頭の混濁も癒されていく。気が付くと、いつの間にか、視界の虹模様も見えなくなっていた。

 マンションが作る断崖絶壁が割れて、緑のオアシスが見えてくる。安倍子あべこ中央公園は昨年、区画の半分がリニューアルされた。

 凪の通う安倍子高校は駅から徒歩十分の好立地。そこから約五分の位置が公園だ。

 

 始業時間までは一時間以上あるので、凪は公園内で暇をつぶすことにした。

 いつものお気に入りの場所、噴水前のベンチに座り、スクールバックから文庫本を取り出す。

 アーケード街の古書店の店主が格安で譲ってくれた本。カラフルだが古風なカバーイラスト。かなり増刷かかっている名作だとのこと。

 最近のお気に入りだ。本を開いてページをめくり、しおりを外す。前に読んでいたところから再開する。

 

(風が気持ちいい……)

 

 朝の涼しい空気の中、日陰で活字を追っていると、気分が静かになる。

 日々の生活の鬱憤うっぷんや、胸を締め付ける将来への不安も、取り敢えずは霧消する。

 小説の内容は、一人の酒豪少女が夜の街を練り歩く、ただそれだけのストーリー。しかし陽気で時代がかった描写でつづられており、古都の街並みが頭の中にいきいきと浮かぶ。

 行燈あんどんや酒席から漏れる灯。方々から聞こえてくる喧噪と笑声。どこもかしこもお祭り騒ぎ。絢爛豪華けんらんごうかの百鬼夜行。そんな繁華街も日本のどこかに存在する。

 自分の住む街はどうだろうか? 十日野は大正時代より続く置屋街から発展し、バブル期に全盛期を迎えた。


(昔の十日野の写真、見たことあるけど、この小説と似てたな……)


 今はどうかというと、バブル崩壊以来、急転直下、見事な下り勾配。えぐい傾斜角度。経済発展の失われた二十年が、三十年、四十年と続いているという。いったいどれだけ失えば人は過ちに気づくというのか。

 自分の生まれた街と比較しながら、少し悲し気になる。

 それでも小説の楽し気な描写は時を忘れさせてくれる。


「湊川さーん」


 物語世界に没入していると、遠くから自分を手招きする声さえ聞こえるようだ。


「湊川さん? おーい」

「はっ」


 現実世界に引き戻される。噴水広場の入り口から、走ってくるジャージ上下の少女が視界に入る。

 駆け寄ってきた少女の顔を視認し、凪は記憶を検索して照会をかける。


「あなたは……同じクラスの転校生で京都出身の、二宮にのみや百合香ゆりかさん」

「な、なんか…えらい説明っぽい呼び方やんな……どしたん? あ、ごめんな。読書中に邪魔して。知ってる人やったから、つい声かけたくなってね」

「大丈夫ですよ、おはようございます」


 多少うろたえながら、小説を閉じて傍らのスクールバックの上に置く。凪はベンチから立ち上がり、会釈をし、挨拶をした。

 めちゃくちゃ他人行儀で丁寧な挨拶をされ、二宮も思わず身なりを正してお辞儀し返した。

 顔を上げた後、凪は視線を上下に滑らせて、二宮百合香の装いを確認した。見たことのないジャージである。きっと前の学校の指定服だろう。目の覚めるような赤は二宮の華やかな印象に良く合っていた。少し息を弾ませ、肩で呼吸している。


「ジョギングですか?」

「うん。急に話しかけてごめんな。湊川さん……制服ってことは、学校行くまでここで本読むの?」


 そう言うと、二宮はスクールバックの上に置いた凪の文庫本をちらりと見た。

 カバーをかけていなかったので、イラストが丸見えで少し恥ずかしい。


「あ、はい。校門が開くまで大分時間があるので。二宮さんはいつもこの辺を走っているんですか?」

「私、前の学校では陸上部やってん。今は部活やってないけど、走ってないと落ち着かんのよ。家この辺だから、ほら、転校してきたばかりやから。散歩もかねて毎朝走ってるんや。まだ一か月だけど、結構色々行ったんやで。港の方とか、横浜まで海沿いを走ったりな」


 改めて二宮の姿を視界に捉える。

 すきバサミが丁寧に入ったロングのカット。

 ふわりとした前髪、清潔感のあるサイドポニー。

 陽に透けると、毛先にほんのり色が浮かぶ。

 凪の手入れが行き届いていない黒髪とは対照的だ。

 大き目の丸い目、可愛い系と美人系の中間、アイドルでいてもおかしくない整った顔立ちだ。それだけではなくスタイルも良い。


(始業式の日から思っていたけど、本当に絵になる人だなあ)


「湊川さんはすごく朝早いけど、家この辺なん?」

「えっと……」


 どう返答しようか迷う。二宮は、転校してきたばかりだから、凪のことを良く知らないのだ。

 だけど、風俗街の十日野とびのに住んでいると聞いたらどう思うだろう。

 凪は出身のせいで、今までさんざん色眼鏡で見られてきた。

 凪が尻込みしていると、二宮は凪の様子に一瞬目を留めた後、おもむろにウエストポーチから携帯を取り出し、画面を見た。


「あっ! もう戻って着替えないと」


 二宮は時刻を確認するとアラームを消し、顔の前で手を軽く合わせて、申し訳なさそうにした。


「めっちゃ汗かいたから。シャワーも浴びないといけないんや。じゃね、湊川さん。また学校でね!」

「あっ、はい…………」


 お互いに手を振ると、二宮は駆け足で噴水広場を後にした。凪はその後ろ姿を名残惜しく見送った。


(また学校で、か……)


 もっと話していたいと思った。凪にとっては、同級生と当たり障りのない雑談をするのは久しぶりのことだったから。

 


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