第34話
「えっ、お前って王子だったの?」
素っ頓狂な声を上げたブルームに、シャイアは「気づかなくてよかったのに」と言った。
「いや、なんかおかしいなとは……そうか、お前αなんだもんな。うちの国の王族じゃないってことは、よその国の王子なのか」
納得したブルームにアデレードが引き絞るように声を上げた。
「ブルームさん、どういうおつもりなんですか。その人と行ってしまう気ですか」
「すみません」
とブルームは頷いた。シャイアが今一度剣を構え直して周囲を睨んだ。まだ雨は降っている。辺り一面がぬかるんで泥だらけだ。
「それは、困る。本当に困るんです」
困る困るとそれだけを繰り返して王子はどうも狼狽えているらしい。
「どうして」
と訊いたのはシャイアの方だった。
「祝福の子がいなくなっては、この国は大変なことになる。今だって雨季が明けずにこんなに雨が降って。一刻も早くその人を王室に迎え入れたいんです。Ωの人がいいのだったら、何人か推薦できると思います。頼むから、その人は返してくれませんか」
アデレードはシャイアに対してかなり下手に出ていた。近衛兵団はその態度にますます状況が飲み込めず、一人また一人と緊張を解いて剣を下ろした。どうしていいのか、分からないのだろう。
「いやだ。オレはΩの子が欲しいんじゃない。このポンコツでどうしようもないバカが欲しいの。祝福の子だって関係ないよ。本当のこと言えばいいじゃない。龍神様のご機嫌取りしないと、国が滅びるんだって」
「……どこまで掴んでるんですか、あなたは」
一瞬ロイヤルブルーの目を閉じて、アデレードは白くなめらかな額に雨に濡れた手袋ごと手の甲を押し当てた。
「オレに入手できる範囲の情報から推測できるところまでしか、知らない。だがあなたが多少の嘘をついているということは、オレでも分かる。だいたい、こいつはモノじゃねえんだ。こんなんでもさっき成人したいっぱしの男だ。本人の意思を確認しろよ」
「その人に、この国を出られては、困る」
アデレードは、はっきりとそう言った。
「あなた、その人を連れて自分の国へ帰るつもりなんでしょう」
「帰らんさ、あんなとこ。妹は死にました。父と母も処刑された。そりゃあひどい殺され方をした。今でもたまに夢に見るからね。家族を見捨てて自分の命だけ護った卑怯者にゃ、帰る家も国もねえんだよ」
ブルームは、初めてシャイアが他人と対等に喋っているのを聞いたと思った。混ぜっ返すでも茶化すでもなく、自分に対する時とは声の調子も言葉の荒さも違っている。シャイアは、殿下と同格の人間なのだと改めて気づいてただ黙ってその声を聞いていた。
「ではどこへ行く気なんですか」
「どこへなりと。逃亡者には、着の身着のままがお似合いでしょうよ。おかげさまでここ数年、多少の蓄えはできたから路銀に困ることもないんでね。感謝しますよ、アデレード殿。あなたを護衛するだけで、それなりの給料を貰えて暮らし向きは抜群だった。この国は裕福だ」
掘っ立て小屋に住んでいる男はそう嘯いた。
「さっきあなたは、彼の意思を確認しろと言ったじゃないですか。勝手に連れていくのは、フェアじゃない。彼と話をさせていただいても、よろしいか」
問いの形を取りながら、凜とした圧が宿った。シャイアは構えていた剣を下ろして「それはオレが許可出す話じゃねえな」と言って一歩下がった。
「ブルームさん。彼とこの国を出て行きたいのですか?」
と殿下に訊かれて、ブルームはぬかるみに剥き出しの膝をついて答えた。
「お許しください、ユア・ハイネス」
「……理由を教えてください。何が不満ですか。あなたに出て行かれると、私たちは本当に困るんです」
殿下にそんな顔をさせるのは本意ではなかった。だが今、ブルームはまだ彼の妻ではなかった。今や近衛兵でもなく、祝福の子であるつもりも、なかった。
「俺は」
息を吸ってブルームはその美しい顔を上げた。湖の前で跪いた赤髪の男が、ようやくそれを口にした。
「俺はこの男が、好きなんです! 申し訳ありません殿下、行かせてください」
ロイヤルブルーの瞳が呆然と瞬き、シャイアはピュウと揶揄うように口笛を吹いた。
その瞬間、あれほどしつこく降り続いた雨がやんでいることに、その場にいた誰もが気づいた。
「ああ、雨が……」
神官の誰かが口にした。
湖の真上に黒い雲に隠されていた銀色の月が急に姿を現して、水面にキラキラと反射した。
降り続いた雨に濡らされた何もかもから丸いしずくが滴って、そのひとつひとつが真珠のようにオーロラ色に輝いた。
あたり一面が水のパールに飾られていた。
呆気にとられていた一同の中でもっとも早く我に返ったのは金髪の王子だった。
「だったら、どうして僕にそれを言わなかったの」
「殿下を否定することなど、恐れ多くてできません」
と答えるブルームにアデレードは「うーん?」と普段より幼げな声を放った。
「でもそのせいで余計に、状況が混乱しているように思うんだけど」
「申し訳ありません!」
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