第33話

 あの日とはまるで別の湖のようだ。

 バケツをひっくり返すような雨が風と一緒に暴れ回っていても、婚礼の儀式を延期しようとは誰も言わなかった。

 広く国民らに披露するための婚礼パレードはまた別日に予定されているが、最低限の護衛をつけた湖での婚礼の儀式はブルームの誕生日の午前零時ちょうどに行うことが優先された。

 普段は養殖パールを獲るために用意されている設備は今日は完全に撤去されて、まっさらな湖だけがそこにあって、荒れていた。

「殿下、かなりの暴風雨ですが、お時間が迫っております」

 護衛官長はブルームもよく知っている近衛兵長であった。

「決行しましょう」

 との王子の一声に「イエス、ユア・ハイネス」と高く答えて近衛兵たちは結婚する二人を取り囲むように配置についた。二人の前には神官が三人ほど白い衣装を風に捲かれながら胸を張って立っていた。

 ブルームは無闇に飾りのついた丈の長すぎる衣装が風に煽られて、立っているのもやっとだったが、その腰を隣からアデレードに支えられてどうにか細いヒールの靴で踏ん張っていた。

(いやこれどう考えても龍神様怒ってんだろ)

 神官たちは何食わぬ顔で詠唱を続けている。王子は気遣わしげに横殴りの雨からブルームを護ろうとしてくれているようだが、それでも撤収しようとは思わないらしい。

 強風と雨音でろくに聞こえもしない詠唱がどうやら終わったらしく、年かさの神官が声を張り上げた。

「それではこれより、アデレード・パルティオン殿下とその妻ブルーム・スカリー様の婚姻の儀を龍神様の御前において執り行います! 両者、湖の前へお進みください!」

 それを合図に黒い影が両手を広げて湖の前に躍り出た。本来そこが、結婚する二人のために用意された舞台だった。

「ダメでえす! 走れっ、ブルーム!」

「何奴?」「闖入者か!」「いや……え?」

 状況が飲み込めずに困惑する近衛兵団を尻目に、ブルームはヒールを脱ぎ捨てて男の元へと走った。ぽろんと頭からティアラが滑り、そのまま湖へと転がり落ちる。

 豪華すぎる婚礼衣装ごと赤髪の男を抱き留めたシャイアは、制帽を投げ捨てて風に飛ばすとニヤリと笑って叫んだ。

「計画通ーり!」

「じゃねえだろクソが。こんなモンスーンだとは聞いてねえぞ俺は」

「それはオレのせいではございません。龍神様がお怒りなんじゃねえの、っていうか怒ってんの、お前?」

「いや別に」

 という会話がどこまで聞こえたかは分からないが、王子は困惑した顔で玲瓏なその声を張った。

「どういうことですか?」

「どういうも、こういうもないんだよね。見ての通り、こいつはオレが貰っていきます。悪しからず」

「おい、シャイア何をしている? お前、気でも触れたか!」

 と言うその声は近衛兵の中の誰かが張り上げたものだった。

「正気も正気、オオマジよ。オレたち愛し合ってる恋人同士だから。横からしゃしゃり出てきて婚約とかしたのはそっちの方。なので、龍神様がお怒りです」

 シャイアの言葉にブルームは特に何も口を挟まなかった。

 アデレードはいち早く状況が理解できたのか、かなり冷静にシャイアに尋ねた。

「その人をどうするつもりですか」

「オレの番いになってくれるんじゃないかと思いますけど?」

 だよねえ、と腕の中のブルームに訊くと赤毛の男は心底嫌そうな顔で「いちいち訊くんじゃねえや」と毒づいた。

「それは非常に困るな」

 と王子は言った。剣を抜いて間合いを測り始めている近衛兵団に鳶色の視線を走らせて、シャイアもブルームを背中に回して剣の鍔に手を掛けた。ブルームも内腿に仕込んでいた短剣を取り出して、予定通りに長すぎる婚礼衣装の裾をためらいなく引きちぎった。

 真っ白な裸足の膝が闇に浮かび、糸から落ちた真珠の珠がバラバラと飛び散って湖へと還っていった。

「おい、お前なんかそれエロいな」

「ちょっと! ちゃんと集中しろ、死ぬぞお前」

「死にゃせんだろう」

 この暴風雨で誰もまともに動けんぞとシャイアは怒鳴った。

 事実、その通りであった。

 湖の前に躍り出たシャイア、そこに駆け寄ったブルームの他にはまともに戦えそうな者はいなかった。そもそも近衛兵団としても、シャイアをどうしてよいものか迷って命令を待っている状態にあった。

 さっきまで詠唱をしていた三人の神官たちも異常事態に立ちすくんで呆然としたまま、ただただ成り行きを見守っている。

「あなた、αなんですね?」

 状況にも暴風雨にも、一番柔軟に対応しているのが真珠色の婚礼衣装を纏った金髪の王子であった。自慢の金髪も今や風雨に煽られて見るも無惨な状態だ。

「いかにも」

 とシャイアが頷く。

「王族にしかαは生まれないと思っていました。その肌の色……あなた、ひょっとしてアルティリアの……」

 ロイヤルブルーの瞳が眇められたとき、多少、風雨が弱まってきた。

「それ蔑称なんだよねえ。少なくともオレらは自分ではそんな国名、名乗っていません」

 挑発的なその言葉を正確に聞き取ってアデレードが言う。

「失礼しました。なんと言ったか、あの国……数年前にクーデターが起こって、今も政情が不安定だと聞いているんですが。もう十年くらい前だったか……王家の方は皆惨殺されたと」

「うん、ごめん。思い出さなくていいよ、その話。オレも忘れちゃったからさ」

 と何でもなさそうな声でシャイアが答えた。

(え?)

 ブルームからはその背中しか見えない。顔は見えなかったけれど、きっと今彼は無表情だと感じた。孤高な背中が、そう思わせた。

「確かまだ子どもの王子と、幼い妹がいたはずだが……あなた、あの生き残りの王子なんですか?」

 アデレードにシャイアが剣を構えたまま答えた。

「だ、か、ら。思い出さなくていい。現にあなたの父上はオレの顔見ても何も思い出さなかったよ」

「……あの人は、βなので。他国のαの王族のことには関心もないと思います」

 アデレードのその複雑な声音がブルームにも聞き取れるほど、雨は落ち着いてきていた。降り止むことはないが、さっきまでの暴風雨は嘘のように静まってきている。

(嫌とかやめてとか言うなよ。娼婦みたいに抱かれてくれよ)

(目の前で妹が陵辱されるより、キツい)

(昨日まで跪いて弥益だのハイネスだの言ってた人たちが、どれくらい残忍で凶暴に牙を剥くか)

(近衛兵が反逆したら、普段鍛えてるわけでもない王家の人間なんかひとたまりもない)

(特に子どもなんかは手も足も)

(生き残りの王子)

 点々と散りばめられていた違和感が、ようやく今、ブルームの中で線になって浮かび上がる。

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