第六章 第32話
「ああ、なんて美しいんだ、私の妻は」
スカリー邸には場違いなほど豪華な白い馬車は泥水を跳ね上げて汚れていた。
中から降り立ったアデレード王子その人に、応接間に控えていたブルーム以外の一同は緊張に顔を青ざめさせながら一様に低く頭を垂れていた。
「殿下こそ、お美しくあらせられます」
王宮からつい先日届いたまばゆいばかりの婚礼衣装を身に纏った赤毛の男は軽く膝を折って王子に答え、それから父母を振り返って少しわびしく微笑んだ。
「どうぞいつまでも、お元気で。いままで、本当に本当にありがとうございました」
誂えられた白い婚礼衣装は引き締まった身体をすっぽりと覆うようなデザインだった。壮麗な刺繍が全面に施されそこかしこに散りばめられた真珠が、ブルームが動くたびにゆらゆらと輝く。ハレの日の女性よりも美しいその姿がやはり男性であると知れるのは、服のラインが決して流線型をしておらずどこにもくびれがないことと、レース生地で仕立てられたその長い袖にくっきりと左右一体ずつ龍が浮かび上がっていることからだった。
王家の象徴として、またこの国の守り神としての龍なのだろうが、腕に絡みついて上ってくるようなその意匠は女性に着せるにはあまりにも荒々しく力強かった。
しっかりとこの衣装を着こなして、身長の調整のために白いハイヒールまで装備したブルームはもはや王子よりも遙かに美しかった。
父母の後ろには兄と妹の他に、ちゃっかり二日前に王都に着いたナニーの姿があった。ブルームの記憶より少し背中の丸まったナニーが今は鼻水を垂らして号泣していた。
「殿下、息子をよろしくお頼み申し上げます」
父は簡潔にそれだけを口にし、王子は艶然と微笑んで頷いた。
「もちろんです、我が義父上。龍神様のご加護がスカリー家の皆様にあり続けますように」
アデレードはブルームの赤い髪にパールのティアラを飾ると、純白の手袋に包まれた手のひらを差し出して言った。
「よろしいですね、ブルーム殿」
「イエス、ユア・ハイネス」
口を突いて出たその言葉に殿下は苦笑を漏らした。
「この家を一歩出たら、もうそれは言わないでください」
「では、なんと?」
困惑して揺れる翠の瞳に甘い声が囁く。
「アデレードと呼んでください、祝福の子」
「ならば殿下も、ブルームとおっしゃるべきだ」
敬愛する太陽の王子にも強く言い切ったブルームに、ロイヤルブルーの目が嬉しそうに細められた。
「では、私についてきてください、ブルーム」
「あなたに従います、アデレード」
誰からともなく起きた温かい拍手に包まれて二人は小さなその屋敷を出た。
とっぷりと暗い闇の中に真っ白な馬車が浮かび上がり、全身を数え切れないほどのパールで飾られた男は光沢のある白い婚礼衣装に身を包んだ長身の王子にエスコートされて乗り込んだ。
ひどい雨の中、張り詰めた鞭が打ち下ろされる音はかき消された。
ぬるっとした動きで馬車が雨の中を泳ぎ始める。
後ろからついてくる護衛官の中には、あの男がいるはずだ。
ブルームはひどく緊張しながらぎゅっと奥歯を噛み締めた。
「大丈夫、ブルーム?」
縁にパールの飾られた白い手袋ごとブルームの右手を握りしめてアデレードが訊く。
「はい。少々緊張しております」
「今からそんなことでは、今夜はどうなってしまうのでしょう」
と殿下は笑った。ブルームは翠の目を見開いて金髪碧眼の男を見つめ返した。
うわマジかよ。
という言葉のかわりに小さな声で答えた。
「どうぞあなたのお気に召すまま」
それがシャイアの書いた台本通りのセリフだとは思いも寄らずに、王子は満足げに優しい微笑みを浮かべた。
「本当に、かわいらしい方だな、あなたは」
その返答までは用意されていなかったので、ブルームは何も答えずに胸の中で毒づいた。
(今まで全然そんな感じじゃなかったじゃねえかよ。あの野郎の読み通りかよ、クソが)
背後に追ってきているはずの馬に乗ったシャイアが聞いたら「それ見たことか」と笑っただろうと、ブルームは思った。
龍神の湖までは馬車が入っていけない。低木林の入り口に馬車と馬を止め、そこからは徒歩になるはずだ。
この土砂降りの雨の中、真っ白い婚礼衣装が汚れてしまうことはもう、ブルームの知ったことではなかった。
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