第31話

 月が明けてとうとう五月に入った。

 勢いが弱まることもなく降り続く長雨に、いよいよ大事だと人々が騒ぎ始めた。それを鎮める意図もあったのか、正式にアデレード王子の婚約と間もなく結婚の儀を執り行うことが発表された。

 今までスカリー家など歯牙にもかけなかった貴族連中からお祝いだの花だのが連日届けられて、ブルームは多忙を極めていた。

「ブルームさま、ご婚約おめでとうございます」

 今もそう言って微笑むそこの女性が、どこの家の何お嬢様なんだか、まったく思い出せない。

 曖昧に微笑んで頷き返すブルームの美貌を人々が褒めそやすのも、白々しいなと感じてしまう。

「本当にお美しい方だわ。特にその燃えるような赤い髪が、情熱的で素敵。殿下のお心を一目で奪ってしまわれたというのも、少しも不思議ではございませんわね」

 散々赤毛だの目立ちたがりだの陰口を叩いていたくせに、手のひら返しにもほどがあるだろう。

 あのあと、シャイアからは連絡が何度か入った。と言っても彼の場合は使用人がいるわけでもないので、誰かに言付けられた手紙だの、時々は本人が例のひどいクマの浮いた顔で現れたりして、とにかく何か慌ただしく動いていることは知っていた。

 結局あれが何者なのか、ブルームにはよく分からなかった。

 移民の子で、ここに来た時には親どころか名字すらなかった。その割に頭は悪くないと龍頭守衛団(ドラゴン・ヘツズ)の大人たちが言っていた遠い記憶を思い出す。頭が悪くないどころか、相当に頭のいい人物なのかもしれないとブルームは思い始めていた。

 だって例えば、あの古文書を一人で読みこなしてしまったというのが本当だとして……そんなこと、優秀な兄や太陽の王子にはできるのだろうか。

 ローバック・スカリーは小さい頃には神童とも呼ばれていたし、若いながらも現在は国政を預かって老獪な役人どもと対等以上に渡り合っているが、その彼ですらあの手書きの文字の古文書をスラスラ読めるとは聞いたこともない。

 その兄が手放しで褒めるアデレード殿下が賢いことは何度か接しただけのブルームにもよく分かった。しかしその殿下でも、古文書は読めるだろうか。文字だけ読むのにも苦労するのに、その中身も今使われている文法と全然違うものだと聞いている。普段使わない言葉を……とそこまで考えて、ブルームはようやく今、思い至る。

 彼は移民だ。

 出会った時にはパルティア語で喋っていて今まで意思の疎通に苦労したことがなかったが、そもそも彼にとってはこの言葉は異国語ではないのだろうか。読み書きにも不自由しているそぶりはないが、だとすると彼はいつどこでこの国の言葉を学んだというのだろう。

 そして恐ろしいのは、普段の彼の言動を見ていると、とてもでないがそんなに勉強が出来そうなタイプに見えないところなのだ。文武両道とは言うが、文は兄やひょっとすると殿下にも勝り、武の方では小さい頃から負け知らずの自分よりも優れているとしたら、彼はとんでもない天才ではないのか。

(殿下にしてもあいつにしても、αってやつはそんなに優秀なもんなのかよ)

 表面上はにこやかに頷きながら、ここにいない人物のことを考え続けるブルームに妹がそっと背の高いグラスを差し出した。

「お兄様、ご気分が悪くていらっしゃるの? これ、お水よ」

「ありがとう。お前は目聡いな、ちょっと人酔いしたのかもしれない」

「皆さまブルーム兄様の美貌を一目見ようと思っておいでなのだわ。さきほども、殿下よりお美しいと噂されている女の方がいらしてよ」

 と囀る妹の方もさっきから不躾な視線を浴びせられている。最近ではブルームではなくニコラの方に花や手紙が届き始めているのだと使用人たちが言っていた。まだ十五だというのに、この分ではローバックより先に妹の縁談が決まってしまうかもしれない。

 いや、それだけなら、まだ笑いごとで済むのだろうが。

「ニコラ」

「なあに、お兄様」

 ひまわりのように微笑む妹は、確かに少々鼻が低いかもしれないが、やはりかわいい。かわいくて気立ての良い、誰よりも大切な女の子だ。

「俺のせいでもしもお前に何か迷惑をかけたら、すまない」

 きょとんとした顔でニコラは兄と同じ色の目をぱちくりと瞬いた。

「なんですって、お兄様? わたくし、そんなこと何も思っていなくてよ? そりゃあこれだけ人が来て毎日落ち着かなくは思っていますけれど、それだって嬉しいんだわ。お兄様が誰よりもお幸せになられるというのに、どうして迷惑をだなんておっしゃるのよ」

 と言う妹に何をどう説明してやることもできない。自分だってまだ理解しきれていないのだ。これから何が起こるか、この家やこの国がどう変わってしまうのか、そんなことは何も。

 だがそれでも。

(申し訳ないが俺は、あいつを信じることにするよ)

 自分本位に生きていいと、そうしてくれとナニーは言った。お前に任せておけんと天才かもしれないαの男も言うのだ。

 ならば運命に身を任せるだけ。賽は投げた。どの目が出るかは、どうやら龍神様の生まれ変わりであるらしい自分ですら、知らない。

「ありがとうな。俺は間違いなく、幸せだ」

 にっこり笑えた今のこの気持ちは、もう偽りでも誤魔化しでもない。

 最近になって完熟したような美貌の兄の微笑みを誰より近くで見つめた妹は、ほうとため息をついて言った。

「お兄様は恋してらっしゃるのだわ。羨ましい、早くわたくしにも素敵な王子様が迎えに来ないものかしら」

 少女らしいこの翠の瞳がどうか、涙に濡れなければいい。

 ブルームはザアザアと音を立てて降り続く窓の外に目をやった。

 何を泣くことがあるのだ、龍神様よ。

 時に人は神よりも強い。あの男はきっと自分に都合のよい運命とやらを掴んでしまうだろう。だったら、誰しも、人は皆そうすればいいのだ。

 殿下も妹もブルーム自身も、自分本位に掴もうとあがけばいいのだ。

(泣いてばかりいないで、龍神様も自分で探しに行けばいいんだ)

 ショタコン男の魂がどこにあるのか知らないけれど、そしてそれに何百年もしがみ続ける価値があるのか分からないけれど、自分に素直に好きなようにやってくれればいい。

 たとえそれで、人の世がどうなろうと、龍神様の気にすることではないのだから。

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