第24話
「え、ちょっと待って、お前オレのことそんな不細工だと思ってんの?」
低木林とは言っても人よりは背の高い密林が、湖を取り囲むように鬱蒼と茂る。その中に入ってしまえば、雨はほとんど気にならなかった。二人は木々の間を縫うようにその中心へと歩いて行った。
「俺じゃなくて、ナニーがな」
「お前のナニーはオレと面識がないんだから、ナニーがそう思ったってことはお前がそう思ってるからでしょ!」
「いや。俺は何も言ってない。何も言わなかったらナニーが察したんだ。お優しい坊ちゃまが言わないってことはアレなのねって」
「無茶苦茶な話だ。だいたい、お前、お優しい坊ちゃまって柄ではないだろうよ」
呆れ返ったシャイアが項垂れて言った。
「でそのお優しい坊ちゃまは、ほんとはオレのことどう思ってんの。そりゃお前ほど綺麗なツラはしてないかもしれんけど、オレだってそんなひどくはないんじゃない? 生まれてこの方、不細工だとは言われたことないよオレ」
よほどショックなのかブツブツ言い続けるシャイアにブルームが答えた。
「ごめん、ほんっとにどうとも思ってないんだが?」
「どうともって何よ。よく見てご覧。よく見たらオレってイケメンじゃないかね」
「うん、そうかもしれないと思って見てみたけど、イケメンかどうなのか分からない。そのクマのせいで、ひっでえツラしてんなあとは思ってる」
「あーあーあー! なんてこと言うの、この子。あれなのかね、この国の人からするとオレの顔なんて黒いなあこの人しか印象がないの?」
「黒かったらクマも見えないだろうが。黒じゃなくて褐色なんだよ、お前の肌は」
その褐色で弾力のある肌が好きだとは、本人には言いたくなかった。
ごちゃごちゃと言い合っているうちに、さっと視界が開けて目の前にキラキラと輝く湖面が広がった。
二人は一瞬黙り込み、その美しい湖に目を奪われた。
そこだけ取り残されたように雨が弱まっていた。柔らかい糸のような銀色の雨がするすると天から降りて大きな湖の上に吸い込まれていく。辺りが明るいことに驚いて天を見上げると、おぼろに霞んだ薄い雲のむこうに金色の月が滲んでいた。
すべてが静謐だった。
今からここに飛び込むことがとんでもない暴挙のようにも感じられた。
シャイアは長いため息を放った。それから掠れたような声でブルームの耳元に囁く。
「ねえオレって無神論者なんだけどさ。龍神様は、おられるかもしれないね」
「お前でもそんなこと思うのか」
「うん。正確にはオレ、神の存在自体を否定しているわけじゃないんだ。もしいたとしてもとんでもない無能か、よほど性格の悪い神様だと確信しているだけで」
「聞こえたらどうするんだ!」
顔を引きつらせるブルームにいけしゃあしゃあとシャイアは言った。
「お前らの龍神様のことじゃないから大丈夫。ちゃんとした神様なら自分宛の悪口かどうかまで聞き分けられるでしょうよ」
「何にしたって罰当たりだ」
「で。オレは突き落とされるの? 二人で渡りきれば運命なんだったっけ」
そもそも渡るって何さ、とシャイアは訊いた。
「向こう岸まで着衣泳できたらいいってこと?」
「普通に考えたらそういうことなんだろうなあ。でもここ、結構深いんだぜ。溺れたらシャレにならねえな」
改めて水面を前にして、ロマンより恐怖が勝った。静かすぎるその湖面がかえって恐ろしい。なるほどこれは度胸試しだ、とブルームは思う。
魅惑的すぎて、まるで人を誘っているようじゃないか。
透き通るほど清い水に見えるのに、闇に濡れた水面はもう何色なのかも判断がつかず、底があるのかないのかすらも定かではない。
「つうかナニー、マジでこんなとこに男突き落としたんだ。落とされる男も男だが、ナニーの気性も恐ろしいな」
あの太く逞しい腕と、自分のことを目に入れても痛くないとしか思ってなさそうなつぶらな瞳を思い出してブルームは呆然と立ち尽くした。あの肝っ玉ナニーは、男を平然と湖に突き落とすような女だったのか。
「ねえ前から気になってたんだけど、お前って童貞なの?」
「っ、関係ねえだろそんなこと。マジで突き落とすぞ、お前」
「いやー……関係なくはないっつうか。女に夢見ちゃってんのかなあって思ってさ。で、どうなの? 童貞なの?」
「突き落とす。とりあえずお前息止めて覚悟決めな」
「そしてこの柄の悪さね。お前のこの本性、殿下はご存じなんですかあ?」
ニヤニヤ笑っているこの男を本気で突き飛ばしてやろうかと思った瞬間、先にシャイアが動いた。
「おい、危ない!」
湖に向かう濡れた草の上を歩き出したシャイアにブルームが手を伸ばす。
「平気平気。ここ真珠の養殖してんでしょ、絶対しばらくは浅瀬になってる」
「そりゃまあ、そうなんだろうだけど」
「第一、渡れと言ったのはお前だからね。たぶんだけど、ほとんどの人は浅瀬で尻餅でもついて引き返すんでしょうよ」
だから誰も、溺れないけど渡れないんだ。この度胸試し、もとから死なないようにできてんのよ、親切だね。
ペラペラと喋りながらそのままざぶざぶ湖に入ってしまいそうなシャイアの履き古したボロ靴が水に触れようとした瞬間、
「ひっ!」
カッと閃光が辺りを切り裂き、一直線に湖に落ちた。
雨がやんだ。
「シャイアーッ!」
時間が止まってしまったかのような低木林の中にブルームの叫びがこだました。
「ああ、びっくりした」
とシャイアは言った。
「大丈夫なのか、お前」
今雷が落ちなかったかと、訊きたかった声が途中で止まる。
シャイアはてくてくと湖の上を歩いてくるりと身を翻した。
「大丈夫だ。ほらこの通り」
両手を広げていつもの軽い調子で言うシャイアが、湖の上に浮いている。
いや……浮いてはいないのか。彼は鏡面のように輝く銀盤の上に平然と立っていた。その様があまりに堂々としているものだから、一瞬ブルームは自分の方がおかしいのかと考えてしまった。
「おいでよ。確かにこれなら、服を着たまま渡れるよ」
「え……いや、だってお前……」
どうなってんの、とようやく口にしたブルームの指先を捕まえてシャイアがぐいと赤髪の男の身体を引き寄せた。
「ギャー! ……って、えええ~」
情けない叫び声まで上げたブルームがしゃがみ込んで下を覗く。そこには当惑しきった赤髪の男の顔が映り込んでいて、これじゃまるで……
「龍神様の鏡だねえ」
とシャイアは笑った。
「え、嘘だろ? 鏡ってそういう……」
「これで運命だって分かってもらえたんでないの。そうでないなら、これをどう説明すんのさ、祝福の子さん」
恐る恐る立ち上がったブルームは、ちょん、ちょんと足踏みをして水面の様子を確かめている。すぐ真下は鏡のように自分の姿が映り込み、少し視線を外した先は銀色にも真珠色にも思える光を放っていた。
湖全体が丸い巨大な鏡面だとしか、言えなかった。
「まさかそんなことが」
「あるじゃないの、今ここに。とっとと渡っちまおうよ。こんな経験、なかなかできるもんじゃない」
度胸があるんだかバカなのか、恐れる風もなく歩き出すシャイアと手をつないでブルームも湖の真ん中へと歩を進めた。
「怖くないの、お前」
「なぜ?」
「無神論者なんだろうが。龍神様を信じている俺でも怖いのに。こんな普通じゃないこと、よく受け入れられるな」
「無神論者だけど、奇跡を信じないわけじゃないよ。というか奇跡なんかいくらでも起きてるじゃないの。誰もそれを奇跡と思っていないだけで」
こういう分かりやすい奇跡だけ怖がったりするのって、なんか違うんじゃないの。
とシャイアは一人で笑っている。
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