第25話
「奇跡って……」
「本当にお前は分かってないねえ。お前がまず奇跡そのものなのに、気づいてないとは」
「俺が祝福の子だから?」
と訊いたブルームの言葉をシャイアは敢えて言い直した。
「お前がΩの男だからだ。Ωって基本、女しか生まれないんだ。三毛猫って知ってるか。あれも九十パーセント以上、メス猫なんだよ」
「そうなの?」
「普通は、そう。でも希にオスの三毛というのがいるわけ。お前の身体の中でも同じことが起きているんだとオレは思う。異常個体なんだよ」
「異常だと?」
湖面を歩く怖さを忘れてキッと睨みつける翠の瞳にシャイアが答える。
「何もかもが異常でしょ。異常に綺麗だし異常に気が強いし、しかもその歳で童貞だってのに少しも変だとも思ってないんだから異常だ」
「どっ、童貞じゃ、ねえし!」
「そうなの? じゃあ、試してもいい?」
にっこり笑ってシャイアはブルームの手を取ったまま立ち止まった。湖のちょうど真ん中で、二人向き合って視線を絡ませる。
「ここ、すごく大きな鏡の上なんだよね。ねえ、今ここでセックスしたら、すごい燃えると思わない?」
クスクス笑いながら囁いた鳶色の目に何か答えるより先に、ばしゃん! 大きな水音がして二人はそのまま湖に落ちた。
「うわあっ!」
「あはははは、なんっだ、これ!」
翠の眼を大きく見開いて硬直したブルームを外套ごとシャイアが抱き上げた。水は冷たくなかった。温かくやわらかで、甘いような優しい匂いに包み込まれた。
「落ちたじゃねえか、お前が変なこと言うからあ!」
「いいや、今のはお前のせい。お前がやらしいこと考えるから龍神様が怒ったんだよ」
「違うだろ、お前が言った瞬間に割れたんだからお前が悪い」
「オレは言う前からだいぶエロいこと考えてましたあ! あのタイミングでこうなってんだから、お前のせいなの。お前一体どんなこと考えたわけ? 参考までに教えなさいって」
「俺は別に変なことは考えてないっ」
ぷかぷかと浮かびながらも言い合いをしている二人に危機感は全くなかった。もうこの湖で、溺れる気がしない。それどころか龍神のとぐろの中で抱きしめられているような浮遊感があった。
ブルームだけでなく、シャイアの方にも。
「どうだかねえ。童貞の妄想力は時に突拍子もないからなあ」
「童貞童貞、うるっせえよ! だいたいお前だって童貞なんじゃねえの?」
「はっはっは、ノーコメントで。だってこれ、何をどう答えたってお前怒るもの」
「どういうことだよ!」
「はいはい、騒がない騒がない。ここ完全に湖のど真ん中だからね。どこの岸に寄りつくにしても、今からひと泳ぎするんだから、体力消耗すんなよ」
と言うもっともな意見に従わない理由はなかった。
「くそ、外套なんか着るんじゃなかったな。水吸って重い」
「持ってやろうか? というかお前は泳げるの?」
「俺の田舎の屋敷、敷地内に池があったんだ。まあそれで、毎日泳いでたな」
「雨季にも?」
来た方向の岸を目指してのんびりと泳ぎながら二人はまだ喋っている。足はつかないようだが、立ち泳ぎのような格好だ。
「雨季なんてどうせもとから濡れてるしな。乾季は乾季で暑っついから入りたくなるし」
「それで毎日ナニーに怒られるわけね」
「怒られないよ。ナニーは絶対に俺に怒らない。あらまあまあ坊ちゃまったら、で終わりだ」
というブルームにシャイアは呆れ返った声を投げた。
「お前のその性格はナニーの影響なわけね」
「俺のどの性格がだよ」
「甘ったれの向こう見ず。おまけに負けず嫌いで意地っ張り。そろそろ素直になっちゃいかが。龍神様のお許しも出たじゃないのさ。オレが運命の相手だって、いい加減受け入れなさいよ」
「いや、渡れてないじゃん? お前のせいで落ちて引き返してるから、湖を渡れたことにゃならんだろこれ」
「おまけに、ああ言えばこう言う屁理屈野郎も追加してやる」
ざぶざぶと水を掻き分けてシャイアが波を作った。顔に水がはねてブルームが声を荒げる。
「お前は俺をとんだクソ野郎だと思っているらしいな?」
「えっ、知らなかった? 出会った頃からちょいちょい言うてるじゃないの。お前のいいのは顔だけだって、さ」
「さてはお前、パルティオの人間でもないのに甚だしい面食いなんだな?」
「違うけど。オレ別に面食いじゃない。性格の悪いクソ野郎のお前が大好きだってだけだよ。そのクソ野郎がほんとたまたま、絶世の美少年に見えるってだけで」
ごぶっ、と水を飲み込んでブルームは鋭い叫び声を上げた。
「ちょっとお! 変なこと言うから水飲んだじゃないか、どうにかしろ!」
「じゃあオレに掴まんなよ。岸まで泳いでやるよ」
「何お前、まだそんな体力有り余ってやがんのか」
少しシャイアに距離を作られ始めたブルームが機嫌悪そうにそう言った。
「明らかにお前の方が重装備だからね。外套、まとわりついて来るんじゃないの。溺れる前にオレに掴まった方がいいよ?」
「は? ナメんな、絶対嫌だね」
ざぶんと音を立ててブルームが重たい腕で掻いてシャイアより前に泳ぎ出た。
「ああもう、無理しちゃって。なんでお前は素直にオレに頼らないんだろうか」
「うるせえ。岸まで競争だからな!」
そう言い捨てて本気で泳ぎ始めたブルームにチェッと舌打ちしてシャイアも怒鳴り返す。
「ピラニアのシャイア様、甘くみるなよ? オレが勝つから、岸に着いたらオレの言うことひとつきけよな!」
返事の代わりにバシャンと重たい脚を跳ね上げて、深夜の湖をブルームは泳いで行った。後に続くシャイアも大きく息を吸って縫うように水中に身を躍らせる。
二人の進む場所から複雑に干渉し合った波が広がり、湖に笑うようなさざ波が走った。
そこだけ雨のやんだ真珠色の湖で二人はまるで人魚のように追いかけっこして泳いでいった。
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