第23話

 今まで自分が書いた中でも貰った中でもぶっちぎりに長い手紙を読み終えて、ブルームはフムと頷いた。

「そうだな、いっちょう湖にでも落としてみるか」

 割と人の話を真に受けるスカリー家の次男坊はそう言って、もう間もなくやむはずの雨季の長雨を見つめた。この間は全身びしょ濡れで部屋に忍び込んできたような男だ、多少濡れてもどういうことはない。

「なら、善は急げだな」

 ブルームはやけにすっきりした顔で雨よけの外套を吊るした。そういえばシャイアの奴、ここんとこ顔も見てねえな、どこで何してやがんだか、などとブツブツこぼしながら。


 シャイアは龍神の湖からほど近い低木林に住み着いている。

 ほぼ掘っ立て小屋と言ってよいような小さな家に辛うじて戸はあったが、それに鍵はそもそもついてもいなかった。

「なんつう物騒なところに住んでるんだ、お前は」

「なんつう物好きな泥棒かと思ったら、お前か。何よ、こんな夜中に。夜這いにでも来たのかい」

 歓迎してあげるよ、とシャイアは笑った。濡れた外套のまま鍵のない戸に手をついてブルームが言う。

「なんで俺がお前に夜這いかけなきゃならんのだ。っていうか、何なのお前んち。すっげえ量の本……妹より多いぞこれは」

 まるで魔術師の研究室のように机の上から床の上から本が乱雑に折り重なっていた。開きっぱなしの本のページにチラチラとランプの炎が揺れて影を踊らせている。

「ああこれね。借り物、借り物。まあおかげで、いいこと分かったんだわ。そろそろお前にも教えようと思ってたからちょうど良かった。外套脱いでこっちおいで。暖めてあげる」

 と言って開かれた不埒な腕を「結構です」と突き放してブルームは続けた。

「お前のいいことなんかより、絶対に俺の方が有益だ。ちょっと今から湖に行かないか」

「はああ? 何お前、心中でもしようっての。いくらなんだって、ぶっ飛んでるねえ。いきなり心中するくらいなら、殿下の美しいお顔でもぶん殴って破談にしてもらったらいいんじゃないの」

「そんな恐ろしいこと、できるわけねえだろ!」

「ほう。心中は恐ろしくないと? 龍神信仰の人の考えることって、わっかんないねえ」

 のんびりとあくびを噛み殺しながら、そんなことを言うシャイアの目元が黒く色づいているのにブルームはようやく気がついた。

「お前、寝てないの。すごいクマ出てるんだけど」

「んー。寝てなくはない、かなあ。夜更かしはしてるけど、ちょいちょい昼に仮眠とったりしてたから」

「仮眠? 訓練は?」

「うんだから、上級兵の目を盗んでちょこちょこと、ね」

 ちょっと自分がいなくなったらすぐこれだ。ブルームはため息をついて雨に濡れた赤い頭を少し横に倒した。

「寝不足じゃ死ぬかもなあ」

「いや寝不足では死なないよ。死ぬ前に絶対、寝落ちしちゃうから」

「今から龍神様の湖にお前落としてみたいんだけど、お前って泳げたんだっけ」

 などと訊くブルームに、鳶色の目が瞬いた。

「なんですと? いやまあ、オレめっちゃ泳ぐのうまいけど。小さい頃はピラニアのシャイアって言われてたんだぜ?」

「それ泳ぎがうまいからってつくあだ名じゃねえだろ、たぶん」

 またよく分からない子ども時代のエピソードが始まる前に(どうせ本当のことかどうかも分かりゃしないのだ)、ブルームは龍神様の鏡のことをかいつまんで説明した。存外大人しく聞いていたシャイアがフフッと小さく息を漏らした。

「へえ~。どこの誰に吹き込まれたんだか知らんけど、ロマンチックな話でないの。オレそういうの、好きだよ」

「俺のナニーが言ってた。あと、お前はほいほい湖に飛び込んでくれそうだとも、な」

 やっぱりナニーの目は確かだ、とブルームは思う。シャイアはクマの浮かんだ目を見開いて言った。

「ナニーってベビーシッターのことだろ。なんでお前のシッターがオレのこと知ってんのよ」

「詳しくは歩きながら話してやるよ。こういうの好きならとっとと湖行こう。お前突き落とせばはっきりするんだから、こんな分かりやすい話はない」

「待て待て、突き落とすんじゃないだろ。二人で湖を渡るんだろう。何勝手にオレだけ沈めようとしてんだよ、話がすり替わってるじゃないか、それ」

「うるさい。行くの、行かないの。どっちなんだよ」

 戸口ですごんでいるブルームに答えを寄越すかわりにシャイアは机の上のランプを吹き消した。一瞬で本もベッドも闇に染まり、ブルームの影だけが薄明かりの中に取り残された。

「いきなり消すなよ、びっくりしただろうが」

 やや心細げなその声に、ふわりと頬を寄せてシャイアが答えた。

「油がもったいないだろ。風でも吹き込んだら火事になるし」

 久しぶりに包み込まれた身体の圧に眩暈を覚えてブルームが言う。

「……濡れるぞ、そんなことしてたら」

「今から濡れにいくんでしょうが。湖に突き落とされて」

 耳元にくすぐるような笑い声が響いて、ブルームは反射的に強く抱き返した。

「会いたかったよ、ブルーム」

「全然連絡も寄越さなかったくせに?」

 闇に目が馴染む前に少し厚い唇が触れてきて、確かめるように何度かチュチュと音を立てた。

「なあに、焼き餅やいてんの。お前は本当に単純なやっちゃな」

「単純?」

 苛立ったような声に一言返してから、シャイアは遠慮なく舌を突っ込んできた。

「押してだめなら引いてみなって、昔から言うじゃないの」

 反論しようとした言葉は唾液ごと絡め取られて、強く吸われた。強引なそのやり口に反発してブルームも身体を寄せて噛みつくようなキスを返す。

 会話よりもさらに雄弁な舌と吐息の応酬はしばらく続いた。

「おおっと……。そんなつもりじゃなかったのに、効果ありすぎ。ねえこれじゃマジで夜這いになっちゃうよ」

 湖行かなくていいのかい、と言われてブルームは砕けかけた腰を律して掘っ立て小屋から雨の中に身を翻した。

「行くぞ、早くしろ」

「はいはい。分かりましたよ、祝福の子様」

 その言い草にカチンときたブルームは振り返ってシャイアの疲れの滲んだ顔を睨みつけた。もう闇の中でも、表情までも判別できるくらいには目が慣れていた。

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