第2話
龍神に護られたこの国で、ブルーム・スカリーの運命がすっかり変わってしまったのは、ちょうど一ヶ月前のことだった。
貴族としてはそう格が高くはない田舎貴族の次男に産まれたブルームは、幼い頃からまっすぐな翠眼をした子どもだった。
小さい頃から利発で神童とまで呼ばれた兄のローバックとは違って、いいことはいい、悪いことは悪いのだと素直に信じる子どもだった。
貴族の子ども同士で集まるときにも、ちょっとした不正が見過ごせずにすぐに突っかかった。格上の貴族の息子相手でもひるまず自分の正義を押し通そうとするブルームに、少し気弱な父はいつも困ったように苦笑いをし、屋敷でブルームの話を聴いた母は「それはそうなんだけれども」と首を傾げてブルームの頭を撫で、ベテランのナニーは「それはすべて、坊ちゃまが正しいに決まっておりますわ。龍神様はいつだって正直者を愛しておられますから」と鼻息を荒くした。
生まれつき運動神経がよく、家庭教師の目を盗んでは屋敷を脱走して低木林に探検に行ってしまうような活発で奔放なところもあった。
不正を嫌う単純な正義と、面倒なお勉強から逃げる率直さはブルームの中では何の疑問もなく両立した。
苦労してブルームを捕まえた家庭教師が懇々とお説教をしていても、ナニーが「まあまあ、センセ。坊ちゃまは少々好奇心が旺盛でいらっしゃるのよ。さあ、駆け回ってお二人ともお腹がすいているわね? ナニーの特製バナナケーキが焼き上がっておりますわよ」と割って入るので、あまり学業は進まなかった。
今は若くして上級文官に上り詰めているローバックよりも、子どもらしくて腕白なブルームの方をナニーは溺愛していたのだ。
無論、家庭教師は出来のいいローバックの方を熱心に指導した。地頭が良く、向上心もある子どもは面白いようにぐんぐんと伸びてゆく。教師としても教え甲斐があるというものだ。
かくして、ブルームが今のニコラと同じ歳、すなわち十五になる頃には兄弟の学力や性格には大きな差がついてしまった。
ブルームは最初から兄と同じ文官になる道は諦めて、自ら志願して龍頭守衛団(ドラゴン・ヘツズ)に入った。
「お前は武官の方が向いているかもな」
とローバックは銀縁の眼鏡を押し上げながら言った。
「うん。俺は兄さんみたいに政治とかなんとか、コマコマしたことやんの、無理だよ。身体張って国を護る方が、性に合ってんだ」
本人は龍頭守衛団(ドラゴン・ヘツズ)の一員になることにプライドを持っていたが、貴族としては出世コースとは言えなかった。特に位が低いうちは有事の際には戦場に出る可能性もあり、実際に剣を振り回して戦う職業を、育ちがよく淑女を絵に描いたような母親は嘆いていた。
「ああどうぞ龍神様のご加護でこの国が護られますように」
「母さんは心配性だなあ。戦争なんてここ何十年も起きていないんだろ? 今日明日に何かあるはずもないんだし、そのうち俺だって出世もするさ。俺、最短で近衛兵団に受かるって、きっと」
翠の目を輝かせて調子のいいことを言う息子に、母は深いため息で答えた。バナナケーキ自慢のナニーは引退して故郷へ帰った後だったが、ブルーム宛てに長い手紙を書いて寄越した。
曰く「坊ちゃまの腕なら何も心配はしておりません。ナニーの目から見ても、坊ちゃまは素晴らしい剣士になる素質がおありですわ。長かったナニー生活の中でも、坊ちゃまは飛び抜けてすばしこいお子でいらしたんですから。でも、くれぐれもお気を付けあそばすんですよ。坊ちゃまは時折無鉄砲で……」長く長く続いた最後にはやはり繰り返して身体に気をつけるように、にんじんを残してはなりません、それから、龍神様のご加護がありますように、と記してあって、ブルームは薄手の紙を折りたたみながら苦笑いを浮かべていた。
実際、十五で龍頭守衛団(ドラゴン・ヘツズ)に合格して、その中でも頭角を現していたスカリー家の次男坊は受験資格の与えられる十八で近衛兵試験にもパスするのではないかと、武官連中の中では噂されているほどだった。
あの生意気なローバック・スカリーの弟は、頭はイマイチだがその分めっぽう腕が立つ。赤毛頭のやたらすばしこい次男坊だ。
その赤毛頭の将来有望な剣士は本当に十八で近衛兵団に入団した。その年の合格者は二名きりで、そのどちらも受験資格を得たばかりの歳であったことから、年長の落選生たちからの妬みはひどかった。
特にもう何年も落ち続けている者たちは安酒で灼かれた喉で忌々しげにブルームの名を口にした。あの赤毛野郎、ちょっとばかし綺麗なツラしてるからって龍神様に贔屓でもされてンじゃねえのか、ガキのくせに。お貴族様がわざわざ近衛兵にならんでも食ってけんだろうが、大人しく親のすねを囓れよクソが。
良くも悪くもブルームは目立つ少年に育ったのだ。
だがブルーム・スカリーにとって実力で掴み取った素晴らしい武官人生は、そう長くは続かなかった。
十九の雨季、すなわち一月(ひとつき)前のあの日に彼に人生の転機が訪れた。
思い返せば確かに、その日は朝から頭が痛く、腰の辺りが重だるかった。
だが特に風邪を引いた風でもないし、長雨の続くこの季節に気圧の関係か頭が痛む人間は少なくないので、ブルームは些細な体調の変化になどかまいもしなかった。
いつものごとく近衛兵用の室内練習場で模擬刀を掴んで稽古に励んでいた。
年長だが実力にはさほど差がない相手に向かって当然のように生意気に突っかかり、相手の剣を避けて赤い髪を派手に揺らした。
ブルームは一度低く身体を押し下げて、その反動を利用して飛びかかるように剣を突き上げた。
(決まったか……!)
と思った矢先、ぐらりと傾いだのは相手ではなく自分の身体の方だった。
「えっ?」
何が起こっているのか分からないまま視界が引っくり返り、高い天井が白く霞んだ。
ブルームは最初、相手が目にも見えない剣さばきで技を放ったのかと思った。だが、それにしてはどこにも剣を食らった感触がない。そして……
「あ……う、あっ……ああ……!」
今まで感じたこともないような熱が甘いうずきを伴って下半身にまとわりついた。いや、熱は自分の内から湧いているのか。
じゅくじゅくと燃えたぎる激しい衝動が背筋を駆け抜けていって、ブルームは無様に床でのたうって腹を押さえた。
(ヤベぇ……勃っちゃう!)
「お、おい大丈夫か?」
唖然とした表情で剣技の相手をしていた近衛兵が声を掛けるが、ブルームは涙を浮かべて唇を噛み締めるばかりで返答も出来なかった。
小さい頃から思い通りによく動いた自分の身体が、今は何の制御も効かずに猛り暴れている。湧き上がる凶暴な熱に突き上げられてブルームの腰が跳ねた。
「ブルーム! ブルーム、大丈夫か!」
同じ練習場で模擬試合をしていたはずの浅黒い若い男が誰よりも早く駆け寄ってブルームの肩に触れた。
「あっ……あンッ!」
自分でも思いも寄らない甘い声が漏れ出て、ブルームは羞恥に死にそうになった。だがそれ以上に、身体が燃えるように熱くなってどうしようもなかった。
「大丈夫だから。大丈夫だから、ね。落ち着いて。今から医務室に行くから、ちょっと抱えるからね。大丈夫だからね」
大丈夫大丈夫と繰り返しながら、男は床の上のブルームを躊躇なく抱き上げた。
「あっ、ふ……! ああっ」
その些細な刺激すら今は劇薬のようで、耐えがたい快感にブルームは性を強く意識してしまった。完全に身体が発情していた。
「教官(せんせい)、オレこいつを医務室につれてくからね」
有無を言わさぬ口調で言い捨てた男に、指導教官はようやく我に返って「ああそうしてくれたまえ」と答えた。その言葉を皮切りに、凍り付いていた近衛兵たちが声を取り戻した。
「なあおい、あれって……ヒート?」
「嘘だろ。スカリーってそうだったのかよ」
祝福の子、祝福の子、男のΩだ。はじめて見た。
湖の上を走るさざ波のような声がブルームの耳にも入ってきたが、それを吟味している余裕はなかった。
紅潮した頬に涙を伝わせて運ばれていくブルームの姿を呆然としたまま訓練中の近衛兵たちが見送っている。
近衛兵団からΩが出たことなど、長い歴史の中で一度もなかった異常事態であった。
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